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視線について
目が合うと、視線を逸らしてしまうのはどうしてでしょうか? 逆に、見つめあう間柄にはどのような心理を共有しているのでしょうか? (視線の心理についてのHPなどあれば教えてください)
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こんにちは。 アイコンタクトというのは、情報を獲得して相手の意思を理解すると共に、自ら情報を提供して自分の意思を伝えやすくします。これは「コミュニケーション・チャンネルの接続」を意味します。つまり、視線を合わせるとによって、特定の相手とのチャンネルが繋がるわけですね。 我々哺乳動物の脳内には、相手の視線に対して反応するという神経核があると考えられています。これが反応しますと、脳内にノルアドレナリンといった物質が放出され、注意力と記憶力が一斉に高まります。ですから、アイコンタクトを行なうということは、そこに交される会話などの内容に相手の視線や表情といった判断材料が付加されるだけではなく、生理的にも情報処理能力のレベルそのものが上がるということです。これにより、与えられた情報に対する理解度が高まると共に、こちらの説得力も格段に高くなります。 もちろん、無理に視線を合わせなくとも、相手の行動や言動に注意を払い、それを理解することは幾らでも可能です。ただ、我々のように群で生活をする哺乳動物の脳には、相手の視線に敏感に反応し、非言語コミュニケーションのチャンネルを合わせるための機能がしっかりと備わっているということですね。 ですが、このような哺乳動物の集団生活に不可欠な「視線」や「表情」「ジェスチャー」といったものは、我々の脳内に発生した「情動」が身体に表出したものです。従いまして、相手の視線を読むということは相手の「情動」を読むということであり、視線を合わせるということは、自分の心の動きが読まれるということに他なりません。 我々人間の社会では、心を許せる場合と許せない場合、そして、心を許せる相手と許せない相手というものが存在します。このためアイコンタクトは、 「コミュニケーションの相手」 「交される情報の内容」 「状況」などによって、 その回数や量が無意識のうちにコントロールされています。 ですから、これでゆきますと、親密度の高い相手に対してはアイコンタクトの量は増えるということになります。では、質問者さんはどうして視線を逸らせてしまうのでしょうか。 好いて好かれた仲であるならば「コミュニケーションの相手」という部分には全く問題はないと思います。そして、周りの「状況」を考慮に入れなければならないのは、これは当人同士にはどうにもならないことですよね。 従いまして問題は、「交される情報の内容」ということになるのではないかと思います。見詰め合う者同士が共有すべきものは、コミュニケーションを成立させるための情報です。 「他人のプライバシーを侵害するのは失礼だ、ひとをジロジロと見るものではない」 「あれこれと詮索されるのはゴメンだ、意味もなく視線を向けられるのは不愉快だ」 我々は普段からこのような社会常識や個人体験によって行動を選択しています。片や、相手の目を見なければ意図を読み取ることができませんし、視線を逸らすならばそのひとの立場を軽視することになりますので失礼に当たります。 我々のアイコンタクトは、このようなパラメーターによってバランスが保たれています。自分ひとりでいるときはアイコンタクトの量はゼロですよね。ですから、アイコンタクトというのはバリバリの社会行動ということになります。そして、社会行動にストレスは付き物です。 赤の他人に視線を向けられるのはどうして不快なのでしょうか。それは、何故自分が見られているのか分からない、相手がどう思っているのか理解できないといったようなことですよね。幾らアイコンタクトがあったからといって、実際に相手が何を考えているかなどいった具体的な情報が得られるわけがありません。 このような場合、脳は情報の不足によって不安状態になります。ここで、視線に対する反応と同様の経路でノルアドレナリンの放出が促され、ホルモンの分泌によって身体の生理状態も活性化されます。これは、与えられた事態に対処するための準備なのですが、脳や身体にとっては決して楽な状態ではありません。これがストレス状態です。 このため、脳はなるべく少ない労力で結論を出し、安定状態に戻ろうとします。つまり、情報が不足しているにも拘わらず、暫定的な結果を出して逃げに走るわけですね。 通常、不安状態の場合は判断が可能になるまでの間は行動抑制が掛かっていますので、具体的な回避行動が選択されるということはありません。ですが、この場合はストレスの原因が視覚刺激であることがはっきりしていますので、それを遮断してしまおうというわけです。実際には、このような反応は何度も繰り返されることによって学習されており、ストレスが進行する前に、それはほとんど無意識行動として選択されています。 では、目があった途端、相手が会釈をしたり、「こんにちは」などと声を掛けてきたとしたらどうなるでしょうか。まあ、びっくりすることもあるでしょうが、このような場合は、具体的に処理することの可能なはっきりとした情報が獲得されたわけですから、少なくとも情報不足による不安状態は緩和されます。同時に、ストレスを回避するための暫定的ものではなく、与えられた状況に対応するきちんとした行動を選択することができるようになります。そして、こちらも挨拶を返すという、問題解決のための能動的な行動が選択されるならば、視線を逸らすといった回避行動を行なうよりは、こちらの方が遥かにストレスは少なくて済むわけです。 手っ取り早く言いますならば安心感なのですが、重要なことは、このように何らかの情報が伝達されることによってアイコンタクトのチャンネルが繋がり、それが「挨拶」という、コミュニケーションとしての意味を持ったということです。 アイコンタクトというのは、相手からの情報を受け取ることと、自分の情報を相手に提供するという機能を果たします。ですから、質問者さんは相手が何らかの情報を発信し、それが重要である、興味が持てると判断した場合は視線を逸らすということはないと思います。また、ご自分に何か伝えようとすることがあるのであれば、間違いなく相手の目を見ているはずです。 ですが、仮に全く何の情報交換も成されずアイコンタクトが行なわれたとしたらどうなるでしょうか。幾ら好いて好かれた仲だといいましても、これではチャンネルは上手く接続されず、それがコミュニケーションとしての意味を持つことはありません。 相手のひとが、質問者さんに対してきちんと意味のある情報を発信しているのかどうか、そのようなことは私には分かりません。ですが、質問者さんの方には、相手に対して何か伝えたい情報というのはないのでしょうか。 そんなことはないはずです。 例えば、相手の目を見て、何でも構わないんです、頷くなり、微笑むなりしてみて下さい。このように、アイコンタクトに何らかの情報が付加されるならば、チャンネルはちゃんと繋がります。そして、質問者さんのことを大切に思うひとであるならば、その情報は100%伝わります。例え質問者さんの視線に対して脳神経核がフルパワーで反応しようとも、相手の脳はそれに対して120%以上の理解が可能なのですから、そのひとの脳が情報不足によって不安状態に陥ることは決しありません。 但し、それで相手の脳がパンクしてしまうということはあるかも知れません。脳神経学では、これを「悩殺」と言います(ウソです)。 好いて好かれた仲ならば思いは同じ、この幸福よ永遠にってとこですかね。質問者さんが幸せそうな表情をしていれば、何も言わなくとも、それはコミュニケーション情報として必ず相手に伝わります。見詰め合う者同士が共有するものは、アイコンタクトによって交される情報だと思います。
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既に皆さんの素晴らしい回答が入っているので少し違う観点から改めて考察してみました。 何かを得ようと欲するときそれを見据えます。 人も捕食動物ですね。獲物を見付けたら必死で射程します。 猫は肉食動物で、同じですね。 猫同士の社会では相手を見据えることはケンカを売っていることになるらしく突然出会ったときなどケンカを避ける為に必ず目をそらすそうです。 これも何か共通の心理を感じますね。 また、蛇に睨まれた蛙とか……… オマエを狙っているぞということです。 だから、人間同士でも相手を見据えるのは失礼と感じる心理。 よく電車の中などで、人を平気でジロジロ見る人がいますが大変失礼だと感じるのは私だけでしょうか? 眼(がん)をつけ(飛ばす)やがって!などとしばしばケンカになったりもしますね。 また、恋愛感情において相手を見つめ合うのも似た心理からかも知れません。この人を離したくない失いたくない捕まえておきたい……… また、流し目とか。 だから人は不用意に視線が合うのを避けるのではないでしょうか? 挑戦的な、闘いを挑んでいるような感じもありますし、特別な感情を感じたり……… 視線を感じるとドキッとしますよね? おそらく『視線』の意味は人間ばかりではなく太古の進化の歴史の中で必然的に育まれた根元的な心理に由来しているのかも知れません。
お礼
回答ありがとうございます。 見つめていたいんですが、逸らしてしまう・・・不思議な現象です(笑) でも、見つめると逸らす、をいい感じでできるようになりたいです。 他の回答者さんも仰っていましたが、「目」は心理が出ますよね。と言っても、これまた読めないんですが・・・ でも、本能を辿ってみると、獲物を狙う=見つめる、敵意が無いことを伝える=逸らす、と言われて少し分かった気がします。
- aki963
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5秒視線を動かさないで見つめると、相手の心に印象付けることができるときいいたことがあります。 ただ、けっこう5秒って、じっと見つめるには長い時間ですよね。 現代人は、人と視線を合わせることが苦手だといわれています。だから、視線をきちんとあわせて会話できる人は、相手にとって、とても魅力的にうつるのだそうです。 外国の方と、街であったりするとき、日本人はたいていすぐに目をそらしてしまうけれど、じっと目をあわせたら、アイコンタクトで道をゆずったり、お礼をしたり、おどけてみせたりしますよね。 日本人がすぐに目をそらしてしまうのは、日本人の消極的な人づきあいの文化ともつながりがあるのかもしれません。
お礼
回答有難うございます。 自分では自覚はないのですが、普段は目を見ているらしい、のです。 自信を持とうと思います。
- shigure136
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視線を逸らすことは誰にもあるものでもないのです。 本来は相手の目を見て話をするのがマナーであり、きちんとした意思の疎通が可能になるのです。 ところが、視線を逸らして会話をする人が増えているのは事実です。 「目は心の窓」「目は口ほどにモノを言う」から始まって「目」は非常に重要な「意思伝達ツール」です。 したがって、「目」の動きでその人の心理状態を読む事が出来るほど「目」は大きな働きをしています。「目」にはその人の「心」が現れてくるのです。 よく「男はウソをつくときは視線をそらし、 女はウソをつくとき視線をはずさない」と言われます。しかし、視線を逸らすのはそれほど単純なものではありません。 何か心に疚しい事があったり、怯えがあったり、怒りがあったり、悪事を企んでいたり、知られたくない悲しみがあったりしても人は目を逸らす事があります。 つまり、自分の心の中を見透かされる事を惧れた時に人は相手の視線から目を逸らすのです。 この意味からいうと、視線はコミュニケーションの中で、かなり重要なウェイトを占めているのです。 相手に対する関心や好き嫌いを伝えるためにも利用されます。 相手が興味をひくような話をしていれば、相手の目を見て聞きますが、あまりおもしろくない話だと、 けっこうキョロキョロといろんなところを見ます。 視線を逸らさず、目と目で見つめあうことは、愛情や好意の現れでもあります。これは自分の心の中に隠さなければならないものは無く、もっともっと自分の心の中を判って欲しい。(隠すのではなく相手に伝えたい)相手が自分を隠さず表している心の中を、もっともっと目を見開いて判りたい。このような思いから目と目を離すことなくいつまでも見つめあってしまうのではないでしょうか。 しかし、いくら目を合わせるのが好意の現われだといっても、長い時間の凝視は 相手に不快感を与えてしまうこともあります。 心理カウンセラーなど対人援助においてクライアントの話を聴くときは、 そうした点にも注意を払っている用です。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに、「目」は重要です。印象的な「目」をした人はいますよね。この人は、信用できる人だ!と、分かることがあります。 愛が伝わることもあります。ひしひしと。 好きな人と目が合うと逸らしてしまうのは、何故なのでしょうね。 これでは、嫌われていると勘違いされてもしょうがないですね・・・ でも、話を聞くときは見るようにしようと思います。 と言うより、心を開いた結果、目をしっかり見れるようになるのですね。 そうなりたいです。
お礼
回答有難うございます。 とってもわかりやすく、説明をしていただきました。 私の場合、やはり情報不足なのだと思います。お互いに心を通わす会話がないのだと思います。自分の事を言ってないし、相手のことも聞いていない。 お互いの情報がまだ無いんです。 でも、今日、少し心を通わせる会話が出来たと思います。笑顔を向ける事ができました。暖かい時間を過ごす事が出来たと思います。短い時間でしたが、私には宝物です。 勿論、まだ「見詰め合う」には至っていません。会ってもぎくしゃくしてしまうかもしれません。 でも、そのようなお互い「好意」の情報交換の積み重ねで、アイコンタクトができるようになるのだと感じました。 今日偶然に瞳の話しになったんですよ! 明日からまた、地道な道のりです(笑) 接する人全てに、(適度に)目を見て会話をしようと思います。 また何かあったら、教えてくださいね。