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国際石油資本とは?
- 国際石油資本が利権を奪われても反応しなかった理由とは?
- エクソン、モービル、テキサコ、シェブロンがサウジアラビア政府に株式を譲渡した理由とは?
- 国際石油資本の支配が終わったサウジアラビアの背景とは?
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こんばんは 国際石油資本については、基本的なことしか知りませんが、『石油の世紀 支配者たちの興亡』(ダニエル・ヤーギン 日本放送出版協会 1991)を参考にしながら、述べていきます。 1960年にOPECが結成されて以降、産油国の資源ナショナリズムと国際石油資本の攻防は、熾烈さを増していきますね。 1970年代にはいると、需要が供給に追いつき20年にわたる供給過剰時代が終わります。この背景には、先進工業国の高い経済成長率と、車を初めエネルギーとしての石油消費が急伸したことによります。 しかし、一方ではアメリカのテキサス油田は生産余力を失い「いざという時頼りになる老兵」としての役割を果たすことができなくなり、結果として増加する石油消費量の3分のの2は中東油田に依存することになります。(アラスカ油田は、地理的要因からこの「不足」の助けにはなりませんでした) また、視点は変わりますが、1970年代という時代は「環境問題」「成長」に疑問が投げかけられた時期でもあります。石油消費による大気汚染・海洋汚染に非難が高まり、『成長の限界 ローマクラブ”人類の危機レポート』(1972)は、工業化と汚染、資源の枯渇etc.等による地球規模での「成長の限界」への警告を発し、大きな反響を呼びます。 世界各国も、それまでの工業化=文明の進歩という姿勢から、環境保護政策を取り入れるようになり、石油資本も「新しいゲーム」をせざるを得なくなります。 このような中で、強烈な反米主義者のカダフィ大佐率いるリビアで、オクシデンタル石油(他の代替油田を持たずほぼ完全にリビアの油田に依存)がメジャーの一角を崩す標的となります。 当時スエズ運河は閉鎖され、事故によりサウジアラビア産石油の輸出もストップするという状況で、ヨーロッパ向け石油の30%を供給するリビアの主張は、圧倒的な力を持っていました。 こうして、石油会社の一角が崩れることで、産油国と石油会社の「力のバランスが決定的に変わり」、石油会社の「撤退の始まり」が訪れます。 したがって、すでに世界の趨勢は「何か妨害とか、利権を取り戻す為の行動とか、仕返しとか」をするような時代ではなかった、ということでしょう。(仮に、中東でメジャーが強硬な手段に出たとしても、OPECの対抗措置(禁輸・価格釣り上げ等)により、先進工業国は深刻な影響を被ると共に、産油国をソ連の側に押しやることになり、政治・外交的な危機も生じたのではないでしょうか) サウジアラビアについては、1962年32歳で石油相の地位につき、「OPECの主権とオイルパワーのシンボル」であったヤマニ石油相が「事業参加原則」のもとアラムコの経営権取得を進めていきます。 石油資本も最大の抵抗を試みますが、時代はすでに産油国側についていました。新協定で、サウジアラビアは国内のアラムコの全資産および権利を正味帳簿価格での補償金を支払った上で獲得し、アラムコは引き続き操業会社として生産・輸出を行うことになります。いわば、サウジアラビアの石油生産の「請負業者」になるわけで、まさに「植民地時代の最後の残照も消え去り「一時代の終わり」を示す画期的な出来事でした。したがって、「株式を買い取らせた」というより、有り余るオイルマネーによって「買い取られた」ということでしょう。 こうした事の背景には、米ソ対立や中東紛争を背景にして反米の気運が高い中東において、サウジアラビアが「穏健派」としてアメリカの中東戦略上「敵に回せない」存在であったことも関係しているでしょう。(アメリカは、ほかにもパーレビ国王の支配するイランに強力な支援を行います) 長くなりましたが、ご参考になれば幸いです。
お礼
回答ありがとうございます。 詳しい説明ありがとうございました。 >石油資本も最大の抵抗を試みますが どんな抵抗だったのでしょうか? 自分でもいろいろ本を読んで調べたいと思います。Bird1979さん本当にありがとうございました。