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殿様の性生活
森蘭丸は信長と夜の相手をしていたと聞いた事があります。他にも遠征に出る武将は女では足手まといになるから小姓と性生活をしていたと聞きます。現在も、もちろんバイセクシャルの人はいるのですが、記録に残るほどオープンで珍しい事ではなかったのでしょうか?できれば庶民レベルまでお教えして頂ければありがたいです。
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- aristophanes
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明治期になってキリスト教倫理をベースとした倫理観が導入されるまで他の皆さんの仰る通り、ごく普通に存在していた様です。 氏家幹人さんと言う方がこう言ったテーマに就いて沢山書いていらっしゃるので一度ご覧になって見られては如何でしょうか?
- saebou
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記録に残っているものということになりますと、中世の貴族藤原頼長の日記である『台記』には頼長が交際していた男性のことが書いてありますし、また能を大成した世阿弥にあてた当時の貴族の恋文なども残っていますよ。 『源氏物語』で源氏が小姓を可愛がる様子も、当時の貴族の男色をほのめかしたものだという説があります。 他にもかなり男色は記録に残っていて、とくに隠すようなことだとは思われていなかったようです。
- blue-paladin
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ちなみに「ヤマイダレ」に「寺」で痔という字になります。 これもお寺で稚児がお尻でしていたからという話です。 俗説かもしれませんが
さて、ここで「陰間茶屋」というものが生まれてきます。芝居小屋と併設され、陰間をあたかも芸者のように抱えた料理屋,居酒屋,あるいは傾城屋(売色目的の茶屋)の類のことです。しだいに芝居小屋とは分化して、役者の卵ではない、舞台には立つことのない陰間を抱えた茶屋が多くなってきました。まァ、ゲイバーだと考えて宜しいでしょう。 陰間茶屋のあった場所として、本郷の湯島天神門前町,日本橋の芳町,などが有名でした。湯島は東叡山喜見院の所轄の土地であり、土地柄から東叡山の僧侶たちがなじみの客となっていました。僧侶は女色が禁じられ、伝統的に男色が黙認されていたため、自然に陰間遊びが盛んになるわけです。日本橋芳町の方は、日本橋に中村座,市村座などの芝居小屋が多かったため、その流れからでしょう。 さて、僧侶は女色を厳しく禁じられていたので、吉原の遊女と遊ぶ場合などには変装しなければなりませんでした。といって坊主頭に毛を生やすわけにもいかないので、もっぱら羽織を着て医者であると称することが多かったようです。 こんな川柳が残っています。 芳町は化けずに通う所なり 芳町は諸宗の祖師の日を覚え 僧侶の陰間遊びの支払いがかさむと、檀家から寺を放逐されることもありました。 芳町の穴に後住は肝をけし 傾城は城 若衆は寺を傾ける 陰間遊びの遊興費はどの程度であったのでしょうか。明和元年,同五年(1764年,1768年)に発行された「菊の園」,「三之朝」という男色細見(陰間茶屋のプレイガイド)を見ると、次のようになっています。 (しかし、「菊の園」ねェェェ……) 昼の時間を6つ切り,夜を6つ切りにして、一切りが金一分。仕舞(一日買切り)が金三両。片仕舞(半日買切り)が金一両二分。ほかに小花(チップ)が金一部。 金一両=金四分です。 陰間を外に連れ出して遊ぶ場合には、片仕舞で一両三分から二両。ただし半日単位なのでほんの一刻でも同料金です。 庶民の生活水準は低いので、陰間遊びができるのは、やはりかなり金持ちの武家,商人,僧侶に限られていたようです。 なお、この二冊の男色細見の序文を、「水虎散人(かっぱさんじん)」なる人物が書いています。水虎散人とは、エレキテルで有名な平賀源内のペンネームです。 陰間は男の客に抱かれるばかりではなく、女の客も相手にしました。通常、陰間は13,4歳からもう客を取り始め(児童虐待だァ~)、20歳前後には男の客の相手をすることは引退します。20歳過ぎの陰間は、もっぱら女性客を相手にするように転向するわけです。 女の客は、後家と御殿女中が双璧と言われます。 江戸時代の商家では、旦那が死ぬとそのお内儀が店を継ぐことが多かったようです。また武家では、当主が死ぬと跡取り息子が幼くても、形式上家を継がせました。いずれも、夫に死なれた女性は簡単には再婚できませんでした。女盛りに後家となった奥方は、男妾を囲うか、陰間茶屋通いをすることになります。 もうもうお許しと陰間後家にいい 女客陰間をえらい目にあわせ 御殿女中とは、大名屋敷に奉公する女性です。彼女らが屋敷から外出できたのは、芝居見物などを口実とした「宿さがり」の時だけでした。外出時間は申の刻(午後4時ごろ)までと決まっていたので、御殿女中の陰間遊びはあわただしいものでした。 芝居とはそらごと女中陰間なり 御殿もの申に追われていそぐなり 申の刻無ィと陰間は腰がぬけ 江戸の陰間は、多くは上方の出身者であったそうです。江戸者ですとどうしても言葉使いや態度が荒々しくなるので、おっとりした上方者が好まれたとのことです。 このように、日本では古来から女色と男色は並行して行われていたのであり、決して“戦場には女を連れていけないから”とか“僧侶は女色が禁じられているから”というだけの理由ではありません。また、特別な性傾向(いわゆるゲイ)の人達だけのものではなく、誰でも一度は通過する普遍的な“文化”だったと言えるでしょう。
「歌舞伎」と男色は密接なる関係があります。 歌舞伎の始まりは、1603年に出雲大社の巫女であったと自称する「出雲の阿国(いずものおくに)」が始めた「阿国かぶき」であると言われています。時まさに、徳川家康が江戸に幕府を開いた年です。これが爆発的人気を呼び、類似の歌舞団を輩出して全国に広まり、「女かぶき」と呼ばれました。 「歌舞伎」というのは後世の当て字で、本来は「傾き」、人目を引く新奇でとっぴな異装などを指します。このあたりは、漫画「花の慶次 ─ 雲のかなたに ─ 」を読まれた方ならば、ご存知ですよね。 「女歌舞伎」は、時事風俗を取り入れた唄や踊りや寸劇で人々を楽しませました。と同時に、彼女達の多くは売春を兼業していました。昼はショーを見せ、夜は酒宴に招かれて酌をし、その後はしっぽりと…ということですね。 この女歌舞伎が流行するにつれて、徳川幕府は風紀上の弊害を恐れ、ついに1629年にあらゆる女芸人が公衆の前で舞台に立つことを禁じました。これは大変に重要な事件でした。これ以後260年以上にわたり、日本には“女優”というものが公式には存在せず、女の役はすべて女形(女装した男の俳優)が演ずるようになったのです。 女歌舞伎とほぼ並行して発生し、女歌舞伎の禁止によって隆盛を見たのが、「若衆歌舞伎」です。前髪立ち(元服前)の少年達による、女歌舞伎と同様の唄や踊りや寸劇のショーでした。そして彼等もまた、客を相手に売色をしていたのです。男の客を相手にすることもありましたし、女の客と寝ることもありました。 さて、このような風紀の乱れに対し、1652年、幕府はこの若衆歌舞伎をも禁止します。しかし、この時点で若衆歌舞伎にもしっかりとした組織化がなされていたので、簡単には消滅しませんでした。必死の再開嘆願が効を奏し、幕府は次の2つを条件に再開を許可しました。 ・ 前髪立ちをやめて、月代(さかやき:前頭部のこと)を剃ること。 ・ 歌舞,音曲を控えて演劇を中心とすること。 これ以降の歌舞伎を、「野郎歌舞伎」と呼びます。これが現代の歌舞伎の原形です。 野郎歌舞伎となってからは、演劇を中心とするのでどうしても女役専任の俳優、すなわち女形(おんながた,おやま)が必要となります。初期にはまだ鬘が開発されていなかったため、紫の袱紗で月代を隠す紫帽子(または野郎帽子)というものが開発され、女形のシンボルともなりました。 野郎歌舞伎となってからは売色をする風習はなくなったのかと思いきや…実はますますこの傾向は進むのです。 女形が専任になるにつれて、舞台に立つまでにはある程度の修行期間が必要になってきます。女形にとっては、男に抱かれる、性的関係を持つ、というのは必須の修行であると考えられるようになったのです。そのため、修行中の女形はむしろ積極的に酒宴の席などに招かれ、客に身を売るということが普通に行われるようになったのです。 女形修行中でまだ舞台に立てないものを「陰間(かげま)」または「陰子(かげこ)」と呼び、舞台に立てるようになったものを「舞台子(ぶたいこ)」と呼びました。 歌舞伎はその後、人形浄瑠璃と競い合いながら発展し、1800年ごろには大成爛熟期を迎えました。その後明治維新まで、大衆娯楽としての人気は衰えませんでした。 まだ続きます。次は「陰間」に関してです。
日本の男色は、主に「少年愛」を中心にしたものですね。織田信長と前田利家,武田信玄と高坂弾正昌信のことを書かれている方がいらっしゃいますが、これもまず、利家や昌信の少年時代のみのことと言ってよろしいと思います。 「稚児」という言葉をご存知でしょうか。日本には、古来から神霊は幼い子供の姿を借りて現れる、という信仰がありました。神社の祭礼で白塗り化粧に金の烏帽子の「稚児行列」をご覧になったことのある方は多いでしょう。神が降りるための仮の肉体を、「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼びます。日本の男色の風習の背後には、この「少年は神霊の化身」という信仰があります。 奈良時代、貴族の子弟が幼少のうちに寺に入り、僧の日常生活の手助けをすることが制度化されていました。寺院はもちろん女人禁制ですので、男児を使ったわけです。さらに時代が下ると、貴族に限らず俗人の男児が寺に預けられ、成人まで学問修行をしながら僧の供侍をすることが一般に行われるようになりました。いわゆる小坊主とは違います。これら有髪の少年達を、寺稚児,垂髪,渇食(かっしき)などと呼びます。 頭を丸めた殺風景な僧侶達のなかにあって、有髪の少年達は特別な存在であったようです。この僧と稚児の間に、同性愛的な恋愛感情が生まれる場合もありました。 このような稚児を寵愛する風習は、奈良・平安時代にはかなり広く仏教界に広まっていました。さらに公家などの貴族の間にも、美しい少年を傍に召し使わせる風習が広まりました。 鎌倉時代から室町時代にかけては、この僧侶と稚児,または公家と稚児の間の交情を描いた、一種の恋愛小説が流行しました。これを「児物語(ちごものがたり)」と呼びます。中でも最高傑作と呼ばれるのが「秋の夜の長物語」(作者不明)です。 平安時代から鎌倉時代にかけて武士が隆盛すると、今度は武士に稚児寵愛の風習が飛び火しました。武将の身辺の用事を務めるいわゆる「小姓」という身分がありますが、小姓は世話係であり,秘書であり、伝令役であり、ボディーガードです。さらにその中でも特別に寵愛を得た美少年の小姓は、閨で夜伽の相手もしました。これが「稚児小姓」です。 織田信長と前田利家・幼名犬千代とがその種の関係であったことは、信長自身が利家の前で「昔はお前と…」などと発言し、大いに赤面させたという記録がありますので事実でしょう。ただし若い頃のことで、犬千代は満13歳で信長の小姓となり、信長は4歳年上ですから、そのころのことでしょう。 実のところ、織田信長と小姓・森蘭丸の間に本当に男色関係があったかどうかははっきりしません。具体的な証拠はありません。信長と蘭丸は31歳も歳が違い、晩年の1~2年仕えただけ(信長は満48歳で死亡)ですから、可愛がっていたことは事実ですが、閨に引き込むほどの元気は信長にはもうなかったかもしれません。 一方、武田信玄と高坂弾正昌信・幼名春日源助との間に男色関係があったことは、明白なる証拠があります! 武田晴信(信玄の前名)が源助に送ったラブレターが残っているのです。内容を見ると、これがまた愉快です。晴信が弥七郎という別の小姓に言い寄ったという噂が立ったため、源助が嫉妬して怒り、それを晴信が必死でなだめ、絶対浮気はしない、愛してるのは君だけだよ~、と言っているのです。 その他、宮本武蔵の養子である伊織と造酒之介も、どうも剣術の弟子ではなく稚児であった疑いが大です。 長くなるのでこのへんで一旦切ります。次は江戸時代から後のことを書こうと思います。
- starflora
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わたしは原典資料などを見ている訳でも研究しているのでもありませんので、色々な本に載っていたことなどから述べるのですが、まず、日本の文化、そして多分中国の文化でも、「男色」あるいは「男性同性愛・同性愛行為」は、社会的に禁じられていたものでもなければ、悪いことでもなく、風俗が乱れているとか、道徳が頽廃しているとか、そういう意味でもなかったのです。それは、ごく自然なこととして社会的文化的に認められていたのです。 男性同性愛を「悪」「罪悪」「風紀の乱れ」などとする考え・規準は、西欧のキリスト教文化と共に入って来たもので、それが入って来た後も、日本の文化の大勢としては、男性同性愛が悪だとか異常だとか、そういう認識は一般庶民にはなかったはずです。ただ、明治期において、西欧の文明国を自称する国の人々は、日本では、公然と男性同性愛があるというのを知って、その部分が「日本が遅れている部分だ」と評価した事実はあります。これは、江戸時代前、日本に訪れた、スペイン、ポルトガルなどのイエズス会士なども、本国や修道会本部への報告で述べています。日本人は(西欧を除いて)世界でもっとも優秀な国民であるが、男色の悪弊・悪習がある云々というようなことです(そういう当時の西欧でも、公然と認めていなかっただけで、男性同性愛は一杯ありました)。 明治政府は、文明国として西欧に認められたがっていたので、我が国の男色の流行は憂えるべきことである、などと言っていて、男性同性愛を禁止乃至、文化的に悪だ、良くないことだという啓蒙を、上からの指示や教育を通じて、徐々に浸透させていったということがあります。 日本には、考えてみれば、男色とか男性同性愛が社会的に悪だとか、風紀紊乱だとか、罪悪だとする何の根拠もありません。西欧のキリスト教国でも、実は男性同性愛は多数あり、かなり一般的なことで、庶民も貴族もやっていたというか、自然にあったのです。ただ、キリスト教では、『聖書』に、「男と、女のように一緒に寝る者は、これを殺さねばならない」とか、非常に厳しい「男性同性愛否定」の律法があり、キリスト教では、公然と、男色・男色行為は「悪」である、「神の御意志に反することである・不自然なことである」ということになり、男色が理由で、死刑になったり、重罰を受けたりする者が多数いましたし、単に宗教的なだけでなく、世俗の法律でも、男色・男性同性愛が発覚すると告発され、裁判になり罪となりました。ごく最近まで(半世紀前ぐらいまで)、西欧の国々には、そういう法律(男性同性者を裁く)があり、裁判がありました。有名な例としては、オスカー・ワイルドは、さる貴族の子弟と、そういう関係を持ったということで、裁判にかけられ、獄中生活数年を送りました。その後、出てきてワイルドは、身体を悪くして間もなく死にますが、これは、本当かどうか知りませんが、監獄のなかは、それこそ、女がいないので機会的同性愛の修羅場で、ワイルドのような上品な男だと、暴力囚人の玩具で、やりまくられたので、健康を害したのだいう説(俗説だと思いますが、事実である可能性が高いです)があるぐらいです。 日本に戻ると、江戸時代には、公然と武士も庶民も、それが好きな人は、男性同性愛をしていましたし、戦国時代、室町時代、鎌倉時代も同様です。武士階級だからということはなかったようです。平安時代以前になって来ると、資料が少なくなってきて(公然とは、性的な事柄は露骨に書かない文体であったので、記録に残らないのです。ただし、文章の行間を読むと、それと分かります)、確実には言えませんが、あまり事情は変わっていなかったと思います。平安より前の時代も同じです。 武士や戦士の場合、これは世界の文化で共通するのですが、男性同性愛などで成員が互いに結ばれた戦士集団の方が、その程度の低い集団より、集団戦闘などでは、強かったという事実があります。人は、自分が憧れるもの、理想とするものに対し、愛を抱くもので、この「憧れる」ものは色々な意味がありますが、戦士にとっては、一つに、優秀な戦士こそ理想と仰ぐというのが言えますし、戦士集団の若い者は、年長者に憧れや愛を抱き、また、それを受け入れ形を作る者が、優れた武人として認められ、また、このような男性のあいだの性的関係も含めた広義の「友愛集団」は、互いの結束も強かったということがあります。近代軍のような規制が厳しくなった軍隊は、女性を集団から規則で排除しましたが、昔の戦士集団は、別に、戦地であっても、相手にする女性(欲望の対象とでもいえばよいか)には、そんなに困らなかったのです。必要なら、戦地で、女を強姦してもよいし、昔の軍隊には、娼婦集団が、付随していたというようなこともあります。無論、「男性友愛」で結束を意図的に強めようとする軍集団の場合は、意図的に女性を排除しました。古代ギリシアの軍隊には、そういう傾向があり、なかでもスパルタには、念友関係で結ばれた者たちで、構成される無敵の軍隊がいたのですが、この有名な軍隊は、確か、ペルシアか、アレクサンドロスの軍隊に破れたはずです(合理的戦法や圧倒的な軍事力の差の前に、精神的絆で無敵を誇った軍も破れたということです)。 武士レヴェルでも、庶民レヴェルでも、男性同性愛関係は、日本では、珍しいことではなく、ごく普通のことだったのです。支配者の場合、自分を裏切ることのない側近を造るためには、若いあいだに衆道の相手をさせ、自己の人間をよく教え、寵愛することで、その心を掴んだということがあります。若者はやがて、成人して家来になる訳で、この時、念愛関係があった家来は、それだけ、心のなかまで知っており、深く相手を知っているので信頼でき、また家来も、単に、俸禄や、恩賞で仕えているのでは、義父や兄やそれに準じる人として主君を仰ぎ見るので、信頼関係も深く、仕え方も、誠心なものであるので、何時寝首をかかれるか分からない戦国では、こういう形の家来を若い時から育成する必要があったのです。単に容姿だけではなく、有能さや、武勇や、誠実さ、頭のよさなども考慮に入れて、側近の小姓を決めたとも言え、男色が好きな武将は、美童も求めたでしょうが、それほど容姿がよくなくとも、将来、優秀な家来となりそうな、心の直い、優れた若者は小姓として寵愛したということが、ごく自然なことだったのです。 機会的同性愛・環境的同性愛というのも確かにありますが、その場合は、女性がいないので、その代用に、女性的な男を、女性に見立てたということで、これはごく普通のことです。しかし、性的欲望や、憧れや、親しくなりたいという欲求は、性別に関係せずある訳で、ごく自然な感情、行動だと言えます。 大名や武将は、後継者を造らねばならないので、男色ばかりしていると、家来が、もっと正室・側室のお相手をして、子孫を残されるようにと、忠言というか、圧力がかかったものです。豊臣秀吉の場合、根っからの女好きというのと、他に分からない彼の個人の内面的理由があって、意図的に男色を避けたのだと思えます。秀吉ぐらいになると、出自はともかく、男色を嗜んで当然だという考えがありますし、若い家来も望みますし、これは上に立つ者の義務にも実はなります。秀吉の場合、意図して強く避けたのでしょう。 なお、男性同性愛が風紀紊乱だという風に言われるのは、キリスト教社会は、爛熟期のローマ帝国の退廃的文化を知っていますから、それと結びつけて非難している要素もあります。文明の爛熟期には、男色も大ぴらに商売として売り出されるだけでなく、もっと色々な意味で、常軌を逸した性風俗の混乱が出てきます。男性同性愛の「あるべき姿」というのも、古代からある訳で、それからの逸脱がひどいので、ローマ時代の同世代の真面目な人物は、最近の風俗の乱れなどと批判していたのでしょうし、それを元に、誇大にキリスト教文化で、ネガティブ宣伝を行ったのでしょう。(西欧の近代国家で、男性同性愛を罰する法律があったというのは、実質、社会で、そういう行動がかなりあったということなのです。異端者を非難する言葉として、「男色家・大食漢」というような言葉があるのですが、これは非難の言葉で、決まった形です)。
- yapoo
- ベストアンサー率14% (265/1865)
昔は女人禁制が今よりも多かったので しょうがなかったのでは・・・ 僧なんかにも多かったようですよ 禁制と言うほどではなくても女が入れない所には必ずと言っていいほど そういう事はあったと言っていた人がいた気が・・・
お礼
回答ありがとうございます。
- kawakawa
- ベストアンサー率41% (1452/3497)
今の感覚でいうとハード系の男色なのかもしれませんが,筋骨隆々の腕の立つ侍が夜伽の相手だったようですネ。 最も,豊臣秀吉が男色に興味を示さなかったことから,周囲が美男子を集めて勧めたということを聞き及んでおりますので,美男子趣味という男色も存在していたのでしょう。 はじめは全く興味を示さなかった秀吉もついに最も美しい稚児に近づき,言葉をかけたそうですね。 『そなたに姉御はおらぬか?』と。 ですから,武将すべてが男色の持ち主というわけではなく,ノーマル派もいたということです。 平民出身の秀吉だけでなく,地侍や地方の豪族にはそのようなことが伝えられていないと思いますので,大名クラスの大武将達に関しての話なのかもしれません。 また,多くの武将は男色一辺倒であったのではなく,男女両刀使いだったのですネ。 日本の戦国時代はこのような形ですが,西洋でもローマ帝国の時代などは初夜権を領主がもっており,新郎と新婦の両方と関係を持ったということがありますから,洋の東西を問わず,そういった風習はあったのですネ。 以上kawakawaでした
お礼
回答ありがとうございます
- Islay
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戦国時代においては小姓の中でも特に信頼の厚いものが夜の伽をつとめることは、武家のたしなみ、とみなされていたようです。 織田信長には森蘭丸のほかに前田利家が有名ですし、武田信玄には高坂弾正、上杉謙信における直江兼続など武勲においても有名な小姓は数多くぞんざいします。 その一方で、豊臣秀吉は男色を好まなかったようです。 その理由として、一般庶民から成り上がった秀吉ですが、貧困階層にはそのような風習が無かったため、と聞いております。
お礼
回答ありがとうございます
お礼
回答ありがとうございます。かなりよく理解できました。