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人が生まれ、死ぬことの意味。
もうすぐ30歳になる者です。 最近、自分も歳をとるっていうことを やや実感しつつあり、親も歳をとって、そのうちおじいさんとおばあさんになって そして…と考えてしまいます。 もちろん、自分も友達も夫も いずれは歳をとって死んでしまう。または、若くして死んでしまうこともある。 せっかく出会えたのに、離れ離れになるということを 他の人はどうやって納得するというか克服するのでしょうか? 誰も克服なんて絶対にできないものなのでしょうか? 自分自信が歳をとり、いずれは顔がシワシワになったり腰が曲がったり、 思うように歩けなくなるということを、みんなはどうやって納得しているのでしょう。 それとも絶対に納得なんてできないものですか? それなら、どうしてこういうサイクルの元に生まれてきたのでしょう? 「どうして生まれてきたの?」なんて、小学生のような疑問で恥ずかしいのですが、他の方はどのように認識されているのか、どうしてもお聞きしたいのです。私自身は、今まで頭ではわかっていたつもりでも、理解はできていなかったように思います。たぶん今頃こんな疑問を持つ私は、あまっちょろいというか、苦労を知らないできたのでしょう。 でも、どなたか私に教えていただきたいのです。 将来、子供ができて同じ質問をされても、私は答えることができません。 すっきり理解できる日は誰にもこないのかもしれませんが、それならどうしてこのサイクルの元に…∞ まとまりのない文章で、申し訳ございません。 どうか、よろしくお願いいたします。
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ふと、思いつつままに・・・。 このような素朴でいて難問に対して、古くから人間(ヒト)はその明解な解釈を求めてきたように思います。そして、現代も・・・。自然観・宗教・哲学などにその拠り所を探ってきたことと思われます。 私も幼少の頃、このことについて疑問を抱いていました。「なぜ、自分がこの世に存在するのだろうか?」と。よその家で赤ちゃんが生まれたのを知りました。自分はその赤ちゃんではないので、それを知ることができました。生誕後に徐々に大きく成長するにつれ、「なぜ、自分が自分なのか?」などと意識するようになりました。 生物(生命体)はまず永遠に不死であり、個々の生命体には死があります。これは、生命の形質を次世代にコピーしながら繁殖(繁栄)する主役である遺伝子には死というものがないと言うことです。遺伝子は生命個体を継いで生き続けているのです。絶滅したマンモスの復元計画は凍土地帯から発見された冷凍マンモスから取り出した遺伝子を使うものです。 私はこのようなことを知ってからは、幼少時からの疑問は多少気に ならなくなりました。これまでの皆さん方のご回答の内容には、それぞれ十分理解ができます。生まれてこのかた概念や理屈では理解しがたいことも、分からないまま、そしてこれからも生き続けていくことも大切であることに気づきました。
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- inainaibaa
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一度だけの人生だ。 だから今この時だけを考えろ。 過去は及ばず、未来は知れず。 死んでからのことは宗教にまかせろ。 by・・・・
- tokytime
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質問者様は「死」と「老い」を恐れていらっしゃるのですね。誰しも皆同じような悩みを持っていると思います。 体力が次第に衰えていき、顔にしわやシミがすこしずつ増えていく・・・ああ私はこれからさらに老いさらばえて・・・と不安になりますよね。 でも、ご自分の本質について考えてみて下さい。 ご自身の心(魂)は一体何処にありますか? 顔ですか?頭ですか?心臓ですか? いつも何処で考えたり、感じたりしていますか? 怒りや喜びや感謝の念はいつもどこから湧いてきますか? 私も他の方々のご意見と同様に(輪廻転生肯定論)自分の体(肉体)を自分の本質とは考えていません。 私たちの本体は霊(魂)です。 現在は肉体を伴った霊魂であり、死後は肉体から開放された霊魂になります。 「死」というのは「霊」が物質界から霊界に移動することです。 例え、顔がしわしわになっても、しみだらけになっても 自分の魂そのものは何ら変わりません。 むしろ、人生の荒波に揉まれ、苦難を克服し、悩み、苦しんだ経験により、視野を拡大し、他人を思いやる心を培い、慈悲深くなり、霊魂そのものは輝きを増して高貴になっているかもしれません。 肉体とは、ピアニストが自己表現をする為に弾きこなす「ピアノ」のようなものだと思います。 ピアノ自身(肉体)は使うにつれ古くなり、ハンマー(弦を打鍵するためのもの)にも、鍵盤の調整にもムラが出てきて音にもやがて艶がなくなってしまいます。 余りにも支障をきたすようになったならば、新しいピアノに替えなければなりません(生まれ変わり)。 でもピアニストはその古いピアノを弾きこなしたことによる演奏能力の向上を身に付けることができています。 私たちも同じだと思います。 生まれてくるときにそれぞれ課題を背負って霊的(精神的)向上を目指して自ら生まれます。 ただ、肉体に入ったときに霊的能力が衰え、覚えていないだけです。 人生の「課題」が人生の「困難」そのものです。 「課題」というのはまだマスター仕切れていない、自分の苦手な部分なので、直面すると「困難(苦痛)」を感じるのです。 その「苦痛」を自己改革によって乗り越えて、対処の仕方をマスターして「苦痛」ではなくしたとき、人生の大きな実りを体験できます。 「課題」を克服したことになります。 課題を克服すればするほど人生から苦痛というものが姿を消して、人生の楽しみ、ゆとりが増していきます。 でも、この「課題」は数限りなくあり、一つ克服しても次のレベルの課題が待っています。 とても一回位の人生ではクリアできないので、人は何度でも気の済むまで生まれ変わります。 その生まれ変わりの中で家族は(つまり、縁のある人々)はまた巡り合います。親になったり、子供になったり、夫婦になったり、親しい友だちになったり、助けたり、助けられたりすることが多いようです。 今生で別れ別れになっても悲しむことはありません。 直ぐに霊界で、又は来世でめぐり合うことが出来ます。 又、生まれつきの不幸や幸福があるように思われても、何百回も生まれ変わる中のひとつの人生の、必要な体験だと思えばそんなに悲観することはありません。 大切なことはその体験の中から「自己向上のための何か」を得ることです。それが次の人生に反映され、幸福度が増します。 他の方々のご意見にもあるとおり、宇宙の全ては「因果応報(原因と結果)の法則」によって成りたっており、自分に起こったことには偶然は無く、何か原因があると思わなければなりません。その上に立って、世間や他者のせいにする事無く、自己向上が出来れば大変幸せです。 という考えは如何ですか? 「死」「老い」の恐怖がすこしは減りましたか? 私にも本を紹介させてください http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4806313823/503-0229353-1897556
お礼
ありがとうございます。 「今生で別れ別れになっても悲しむことはない」という言葉に助けられました。 ご紹介いただいた著作、ぜひ読ませていただきます。 本当にありがとうございました。
生まれたのは自分が偉いからでも、悪いからでもありません。意味を探すほど理不尽な問題が彷彿してまい自殺する意味までが見つかってしまい(笑、いや笑っても済まないが)とにかく、生まれたものはしょうがないです。 生きる意味は「暇を潰す為」です。 膨大な人命と人の資産を無駄にして必死に自己便宜で暇を潰している人もあれば、手乗りハムスターと泣き笑いして暇を潰して人生を謳歌している人(私の子供である)もいる。価値観が違うだけで、人生=この世で暇つぶし。 私は以心伝心はあると確信していますが、因果応酬はないと確信しています。なぜなら不幸というものは学習しても自己責任で解決できる範疇ばかりではないし、健康で才能豊かで容姿端麗で資産があり一見人間として価値があるようでも、大切にされた幸運の持ち主でも、自分の知らない生前の生き方より生まれた時代、環境に左右される自尊心の価値観の方が人間は大きいと考えるからです。 人間以下でも、人間以上の生命体(神とか悪魔?)には過去から未来まで探って生まれた意義を問う知能もないし、必要でもないでしょう。神様は映画を観ることも必要ないのです。全部知ってますから。ちょうど人間ぐらいの知能が映画を作ったり観たりして愛だの生死に悩めるようになっているのでしょうね。 実際子供にどうして私を生んだのかとよくきかれました。私の答えは「あなたに逢いたかったから」なんですねどね。
私も質問者様と同様なことを考えていた時期が長く、 その答えを見出せないまま、生きているのは苦痛でさえありました。 答えがない道の上をただ歩いているだけの日々は、心を焦土化し 虚無感がつきまとう。。 でも、飢餓に瀕して死んでいっている遠い国の子供を思えば 随分と贅沢な悩みだと、自責もしていました。 私は「魂」という存在を信じていて、今はブームみたいになってしまって いますが、人はこの人生一度きりではなく 何度も何度も生まれ変わるのだと思っています。 輪廻転生です。 質問者様のおしゃっている”サイクル”とはこの”輪廻”のことだと 思いますが、ではなぜ何度も生まれ変わるのか?となれば それは、人間の奥深い意識の中にある”霊性”の向上だと思っています http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9975196144 ただ寝て、食って、排泄して、という暮らしなら犬畜生と変わらない。 でも「人」はそうではないでしょう? だからこそ、辛いことや試練だらけでもそれを目の前にある「課題」と して1つ1つクリアして、一生学び成長し続けるのではないでしょうか? 因果応報とも関係がありますが、人は自分の生まれる場所を 選んで生まれてくることはできない。 でも、生まれながらに裕福であたたかい健全な心をもった両親の元に 生まれる人もいれば、 生まれてすぐに、捨てられる人だっている。 これは、前の人生での「ツケ」ではないか?と思っています。 すべてが自分に廻り廻って循環しているのならば、 逆に言えば自分の思いひとつ、行いひとつですべてを変えていけることが できるのではないでしょうか? 自分の魂に、人生に全責任をもつ。 そう胎をくくれば、辛くても好転していける。。。 そして、それは、必ず”サイクル”にも反映されていく。 私はそう思っています。 輪廻の中にいることは理解できますが実際に 幽体離脱やオカルト的な体験をしたことがないので、 私も偉そうに言えないのですが^^; 人は歳をとるのは、当たり前であり、それが自然です。 でも皆歳は絶対にとりたくなく、自分だけは実年齢よりも下に見られたい 歳をとればシワでもシミでも白髪でも 出てくるのが自然ではないでしょうか? 80過ぎたおばあちゃんが、それにふさわしくない容姿だと かえって不気味ですし気色悪いですが^^; すべてが流れ移ろうものです。 この宇宙の中で止まって成長し続けるものは何一つありません。 私達も自然の一部です。 他の方が紹介されていますが、葉っぱと同じで 蒼々としていた葉も、やがて黄色や赤に染まり最期は茶褐色となり 枯葉になりと循環していきます。 人間も然りです。 昨年の夏に散歩中、ひときわ大きな声で鳴いているセミが とまっていたんですが、「ミーン」と鳴いた後後 ポトっと落ちたんです。 そのまま動きませんでした。 そのときに「なんのために生まれたの?」ってインタビューしたら きっと笑われるだろうなって思いました。 「命を与えられたからだよ」「もらった生を生き切っただけだよ」って 嘲笑されるだろうな。。と、恥ずかしくなりました。 それから自然の中にはたくさんの命が宿っていて、 皆一様に、「生き切っているんだ」と思い私の人生観も変わりました。 うまく表現できずにどこまで、お伝えすることができたか心配ですが、 私はそう思います。
お礼
ありがとうございます。 意味づけなどに意味がないとは知りつつ、どうしても意味をつけたかがっている自分を、少し恥ずかしく思いました。私も贅沢な悩みであると自責しています。 自分の周りにいる人達を大切にしながら、自分なりに生き切ることが重要なのだと思いました。 ご紹介いただいた著作も、ぜひ読んでみたいと思います。本当にありがとうございました。
- shige321
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あなたがもし、 「科学的に人間は~で~だから生き、死ぬ。」と いう真理のような見解を求めているとしたら、 それは現時点の社会では証明不可能です。 神、数学の公理、はては光子など それらは説明がつかない物です。 私達を引き止めるあたり前な重力が何故あるのか、 それすらも、 あるのだからある、としか言えません。 私達の身体を作る肉も水も分子も、 明日必ずある保証なんて、誰も約束できません。 人は生きるから今を生き、 死ぬのだから死ぬ。 どうしてここへ生まれて来たか、それは ここに生まれて来たから、今ここに私という存在が 存在しているから。 そういうものであると、私は思います。
お礼
ありがとうございます。 ただ今を生きて、死ぬのだから死ぬ。 意味づけなどに意味はなく、それが本来の姿なのかもしれない、と思いました。 本当にありがとうございました。
>人が生まれ、死ぬことの意味。 人が生まれ死ぬこと自体に意味があるかどうかはわかりません。 ただ人は何かに意味づけをしないと気がすまない生き物なんですね。 だからいろいろな答えがあって、どれもが正解のような、でも何かが足らないような… 結局頭で理解するより、心で感じるべきもののような気がします。 >それならどうしてこのサイクルの元に…∞ これならちょっとだけ回答できそうです。 あらゆる生命は生まれたときに死ぬように遺伝子にプログラミングされているそうです。 何億年も前に単細胞生物の生殖細胞同士が合体して新たな個体ができるという生命の仕組みが生まれました。 生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質とも言います。 自己複製とは繁殖つまり子孫を残すこと。 物質交代とは代謝。 この代謝が行われなくなったときがつまりは死です。 個体は死んでその生命活動を終えますが、もっと大きな「種」という観点から見れば繁殖していることから生命活動は停止していないとも言えます。 ひとつの個体が何百万年生きるより、分割して数を増やしかつ短いサイクルで繁殖行為をしながら生と死を繰り返したほうが種全体としては生命を維持するのにお得だということです。 最近は生命共同体という言葉を良く聞きます。 この地球上の全ての生命はひとつの共同体として存在している。 ひとつの命は他の命に繋がり続いていくという考え方です。 もっと広げて生命に限らずすべての環境はひとつの共同体をなしているという考えもあります。 昔「死んだら星になる」と教えられたこともまんざらウソでもないなと思います。 あなたの存在は今この世にある全ての生命、物質と繋がっている。 あなたが生命活動を終えてもあなたの全てが消えてしまうわけではない。あなたが生きていたという記憶はあなたの周囲の人の心に生き続けるでしょう。 そしてあなたを形作っていた生命物質はあなたの子孫、または他の生き物、物質の一部の中で生き続けることでしょう。 聞きかじりの耳学問ですから細かいところで間違いがあるかもしれません。大筋ではあっている筈です。 結局のところ、老いて死ぬことは運命だから諦めなさいということです。 私も鏡を見るたび増えるシワにため息をつきながら自分にそう言い聞かせています。 そしてできるだけ周りの人と良い人間関係を築いて生きていきたいと思っています。 人は亡くなった人の思い出の中から何かを学ぶこともあるんですよ。 私も知人を何人か亡くしましたが、ときどき思い出の中で会話し、時には慰められ、時には教えられ。 自分が死んだあとも誰かがこうして私のことを思い出してくれるのかな、 だったらできるだけ良い思い出を残したい、なんて考えています。 あまり哲学にふさわしい回答ではなかったのでお詫びに本を二冊紹介します。 どちらもベストセラー本で、簡単に読めて中身が濃いです。 葉っぱのフレディ―いのちの旅 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887470029/503-8244416-2336745 生きて死ぬ智慧 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875219/qid=1138178730/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/503-8244416-2336745
お礼
ありがとうございます。 >この地球上の全ての生命はひとつの共同体として存>在している。 >ひとつの命は他の命に繋がり続いていくという考え>方です。 こういう思想があるということを、初めて知りました。かなり納得しました。 全て意味づけをしながら生きているような日常なのに、一番根本的な「なぜ生きているか」の意味がわからない、ということに戸惑いを感じていました。 紹介していただいた著作も、ぜひ読んでみたいと思います。本当にありがとうございました。
- MITAMAX
- ベストアンサー率24% (28/115)
30歳、クリスチャンです。 私も随分そのテーマに悩みましたが、 今は聖書を信じています。 旧約聖書の創世記1章26節には、こうあります。 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。 そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。 同じく2章7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 そこで、人は、生きものとなった。 私たちのいのちの源は、神という事です。 そして2章16節と17節にはこうあります。 神である主は、人に命じて仰せられた。 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。 それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 人は自由意志によって神との愛の関係を保つ事も、 自ら善悪を判断する=自らを神とする事も選ぶ事ができました。 その後、悪魔の誘惑によって神の警告を無視した結果、 人間は死ぬものになったと聖書は言っています。 肉体的な死だけではなく、霊的にも神との完全な断絶が ある者となってしまいました。 その子孫もことごとく、罪ある者、死ぬべき者となってしまいました。 しかし神はその不従順の罪を無視する事はできませんが、 罪を犯してしまった人間を愛して、あわれむ心を持っていました。 それで自分の一人息子=イエスをこの世界に遣わし、 彼の身代わりの死によって、人類の罪の代償を帳消しにする計画を実行しました。 そしてこのイエス・キリストによる罪のゆるしと 3日目の彼のよみがえりを信じる者には永遠のいのち を与えてくれるという事です。 新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 また同1章12節には、イエスがキリスト=救い主と 信じる者は、神の子どもとされるとも書いてあります。 クリエイターである神と、親子の関係になれるという事です。 またいつもともにいて下さる神として、人生を導いてくれます。 結論的に申し上げますと、 神によって創造されたので、今存在している。 なぜ創造されたかは、聖書が沈黙しているので分からない。 しかし創造主である神に愛されている。 そして神は、私たちと永遠の和解を持ちたいと願っている。 「神を知り、神の愛を体験するために生きている。」 また「神の栄光をあらわすために生かされている。」 と私はお答えします。
お礼
ありがとうございます。 私は中学生のときに教会学校に通っていたので、 その当時は聖書をよく読んでいたのですが 最近はすっかり遠ざかっていました。 今の私に参考になることも多くあると思いますので もう一度、読み返してみたいです。 ありがとうございました。
- izumis
- ベストアンサー率50% (2/4)
先日五木寛之、稲盛和夫の「何のために生きるのか」を読みました。そこから引用させていただきます。 往還(おうげん) 人は、「大河の一滴」です。 森の葉を潤し、人の心を潤し大海へと流れてゆく。 いのちに終わりはあっても、たましいは輪廻転生を繰り返す。 大海に流れ込んだ一滴は、また慈雨となってこの世に降り注ぎます。 一生懸命生きていると、こころも、からだも疲れる。 そして、河の流れの一滴となり、大海で癒されまた現世に降り注ぐのです。 生まれたときのたましいを現世の荒波で洗って磨いて、 思いやりに満ちた『やさしい魂』にする。 私の人生の目的は、死を迎えるときに、 私のたましいがさらに磨かれて美しくなっているかどうか。 『それだけが人生の目的だと思う』ものですから、 あらためてこの人生のなかで 自分のたましいを磨いていくことをしようと思っているんです。 人が生まれ、死ぬことの意味は、 自分のたましいをやさしいたましいに磨くこと・・・ 簡単で、奥深い言葉にハッと気付きました。
お礼
ありがとうございます。 紹介していただいた著作を、ぜひ読んでみたいと思います。 私自身、最近、自分がやさしくないな、まだまだ未熟だな、と思うことが多くあり、今は自分のことがあまり好きではありません。模索しているというところでしょうか。こういうときこそ、たましいが磨かれると思い、がんばります。 ありがとうございました。
- sophie_h
- ベストアンサー率12% (14/109)
あなたが疑問を持つことは、あなた以外の多くの人も疑問をもつことかもしれません。 でも、生死の意味について確信が持てない人が多いでしょう。なかなか自分自身を納得させられる答えが見つからないかもしれません。それは仕方のないことかもしれません。 生から死までの区切りで考えると、人生はつかの間の瞬きとしか思えず、いつ死ぬかわからないのだから、不安を覚えて当たり前だと思います。 あなたにとっては、馬鹿げた話に聞こえるかもしれませんが、でも、本当は、あなたは、生まれる前に自分で選んだあなたの人生を生まれてきたのかもしれません。そして、あなたの波乱の生涯が終わると、あなたは又元の所に戻るのです。あるいは、もっと別の場所に進んでいくのかもしれません。 そうして、あなたは次のステップに進んで行くのかもしれません。 あなたには嘘としか思えないかもしれませんが、人は肉体的に死んでも、魂は生き続けて別の形の生を、あるいは数多くの人生を過ごしていくのかもしれません。 そうして、あなたの周りにいたような人々も、たいてい、あなたと一緒に次に進んでいくとしたらどうでしょうか。 死後の世界には、人々が神と呼ぶような方から、あなたのレベルまでの連綿と連なるさまざまの魂がいて、あたかも雲の群れのように、集団として進んでいるのかもしれません。 死後の魂は、次の自分の課題を見つけ解決していくのかもしれません。そのために必要とあらば、来世を生きるために、戻ってくるのです。 人が生まれることの意味は、あなたが事前に予定した向上心を自発的に習得するための場所としての人生を首尾よく成し遂げることにあるのかもしれません。 そうして、あなたの人生が終わった時、あなたは走馬灯のように全人生を回顧して首尾の具合を知ることになるのでしょうか。 予定に反して結果の出ない人生ならば何度でも同じような人生を繰り返さないとならないかもしれません。あるいは、振り子のように退化していることもあるかもしれません。 いずれにしても、そうやって、個々の魂は成長し、はるかに長い生活を営んでいくのでしょうか。 人は英知を身に付けるために生き、多くの同胞としての魂をサポートできるようになるために生きるのでしょうか。 このような考えは、あほな思い込みと思っていただいて、一笑に付していただいてけっこうですが、私は迷い無く気負いなく信じていることではあります。
お礼
ありがとうございます。 なんというか、気持ちが楽になりました。 何度も読み返しています。 本当にありがとうございました。
- ri-zyu
- ベストアンサー率30% (184/611)
私は40代後半です。あなたより年取る事を実感しています、顔が崩れて来ました。そして死んでいく・・・納得なんか出来ません諦めです。 世間の人もほとんど諦めだと思いますよ。 なぜこのサイクルに生まれたの?解かりません。 解からないことが神であり悟であり真実あると わたしは思っています。 人智を超えている。 不義を持って義とする(親鸞聖人)ーわたしの解釈(こうだからこうなんだがない・ 理屈で解決できない) 達磨(禅の始祖)の「安心立命」のなかに、あちらの ものを、こちらのものと思う時迷いが始まる。 自ずからを自らと言う。 聖書の言葉ーある人がキリストにお聞きになりました 私の目は生まれながらに見えないにですが、私のせいですか、親のせいですかキリストは言いました神のあらわれである。 わからないと言うことだと思いますよ。 別に宗教・先人の言葉関係なく 生きていく事はあきらめ(ままにならない事が多い) であり、答えなんかないと思いませんか。
お礼
ありがとうございます。 おっしゃる通り、答えなどどこにもなく そして誰もがそのことに本当は気づいているのかもしれない、と思いました。 ありがとうございました。
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お礼
その通りですね。 ありがとうございます。