- ベストアンサー
奉行と親分
時代劇を見てますとよく町奉行や勘定奉行が商人以外にやくざの親分とも入魂で一緒の部屋でしゃべってたり奉行が現場に出向くときも同道したりってこんなのありでしょうか?江戸時代は表向き上士がやくざの親分とさも顔見知りを通り越して入魂なんてそう簡単にはないのじゃないでしょうか? 脚色ですか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんばんは うーん、やくざと代官、下級旗本あるいは奉行所の与力・同心なら、まあ有り得るかもしれませんが、奉行クラスが「直に」というのは、なんぼワルでも、まず有り得ないか、仮にあったとしても表には出せないでしょうね。 現在でも、高級官僚、国会議員とそのスジの繋がりってのは、噂はあっても、公衆の目には触れないわけで(触れたら、良くて左遷、下手すりゃクビとびますね) ちなみに、幡随院長兵衛、町奴の代表株として人宿(口入屋)を生業としたといわれていますが、元は武士=牢人ですね。#1さんご指摘の通り江戸も中期以降は、徒歩・中間などの短期武家奉公人は出替として口入屋(周旋業者)を介して雇用されます。 しかし悪質な業者や奉公人が多かったため、幕府は1710年に約390人いた江戸の人宿を整理して13の組合を作らせ、あわせてそれまでの不祥事の個人責任を組合の連帯責任にして浄化を図ります。これは3年で頓挫しますが(その理由は浅学にして不明)、享保15(1730)年には悪質業者85人を排除したうえで再度組合を結成させています。 一面では持ちつ持たれつ、という関係はあったにせよ、ヤバイ関係は用人とかにやらせて、自らは知らぬふりが常識でしょう(今だって何かあれば、結局は部下が、秘書が・・ですから)
その他の回答 (2)
- 6dou_rinne
- ベストアンサー率25% (1361/5264)
実際にはありえないことで脚色です。 奉行がまったくそういう関係の人間とは隔絶していたわけではありませんが、すくなくとも奉行職にある場合は、そういうことはすべて家臣あるいは部下をを通おこなうべきものであり、おおっぴらにそういう家業の人間と同道したり、しゃべったりすることはありませんし、そんなことをすれば権威を疑われます。
お礼
権威にも係わりますよね、どうもありがとうございます。
- reny
- ベストアンサー率32% (81/252)
「ヤクザ」と言っても、博打の胴元で稼ぐ「博徒」の系統もあれば、江戸の旗本や大名家に武家奉公の中間(ちゅうげん)を紹介したり、建設現場に労働者を派遣したりする「口入屋」の系統、神社やお寺の祭りなどの高市(たかまち)を仕切る「テキヤ」の系統などがあります。 実際に、江戸の町奴(まちやっこ)の代表である幡随院長兵衛などは大名家や旗本へ武家奉公の中間を紹介するのが本業で、江戸のその他の口入屋の元締め的存在でした。 彼らがそっぽを向けば、大名であろうが奉公人の人数が揃わず、江戸城への登城も出来ない状態になってしまいます(大身の旗本や大名は外出の際の人数が定まっていましたので)。また、当時の工事現場の人足の手配も、こうした口入屋を通して行っていました。 そうした意味で、口入屋の親分たちは、旗本や大名家にとってはなくてはならない存在であり、常に付き合いのあった仲だったようです。
お礼
どうもありがとうございます。
お礼
表向きちょっとむずかしいと思いますよね、どうもありがとうございます。