アメリカに37年住んでいる者です。 私なりに書かせてくださいね。
教えると言うことは大変難しいと言うことなのです。 つまり自分のしいていることやできることを示しただけだ教えるということにはならない、と言うことをこっぴどく実感してきた20年です。
教えると言うことは、出来ない部分を指摘し、納得させ、変える意欲を作り出し、身につけられる教え方をして、初めて、相手を出来るようにする、ことが出来「教える」と言う工程が終わるわけです。
出来ない部分を指摘することは出来る人には簡単に出来ますね。 場合によっては「批判」と言う表現で表すこともあります。
次の納得の部分が今回のネックになっているわけですね。 私は日本人でありながらゴルフが嫌いなんですね。 タイガーウッド氏が教えてあげるよ、と言われても、No, thank you!と言うくらいです。 つまり、あのタイガーウッド氏でさえ「教えることは出来ない」のです。
しかし、私のプロフィールを見ていただけば分かると思いますが、武道と言うものに非常に関心があります。 よって、私がちょっとかじった程度の合気道の道祖と言える植芝翁がこの世に戻ってきて誰も受け継げられなかった合気道を教えてやる、と言ったら、もしかしたらすべてを捨てて習うかもしれません。
つまり、自分の持っていない部分を自覚し、納得し、改善したり広めたりしたい気持ちを持たなくては「教える」土台が相手にない、と言うことになるわけです。
納得しない、と言う今回の部分ですが、これにはいろいろな理由が認められています。
自分ではそれで良い、と思い込んでいる(今回の様にですね)
教えようとする人が嫌い
習う価値がないと感じている
時間がかかると自覚しその時間がないと信じている
目標への努力と価値との比較ができない
習う価値がない、に似ていますが、出来る必要がない、と感じる。
自分には出来ない、と思い込み、言い訳として「それで良い」と言う。
相手に劣等感を感じてしまいそれを表面に出したくない。
さらに金銭的不能も時によってはあります。
さて今回の「それでいいと思い込んでいる」人を助けたい、と思うことには時としてマイナスになる(助長してしまう)をしてしまうことがあります。
それは、教えようとする人がその人に優越感を感じてさせている、
その人のレベルの判断が間違っているのに気がつかない
その人の基礎の土台の質が認識されていない
教える目的の再認識を怠っている
自分を変える理由がその人のとは違っている
押し付けすぎる
時間をかける必要性を認識していない
など、指導員になりかけの人がよくやってしまう事柄があります。 指導員の養成の難しさでもあるわけです。
さて、実際に今回の件で出来ることには、
1)教えない、と言うことがひとつあります。 つまり、習いたくないんだったら教えない、という姿勢です。 これを言うと、少なくとも半分の人は、「でも、、、、」と返事します。 でも知らなかったらその人のためにならない、と言う理論です。 そして、その理論はまったく正しいものなのです。 しかし、時が問題を解決する、と言う鉄則も良い働きをするものなのです。
たとえば、「英語にもっと興味を抱くようになり」、英語を習い使うようになって、いろいろなことを知るようになり、ほかの人や本からあなたの言っていることがより理解できるようになったり、「発音が悪くて通じなかった」経験を持つことになるからですね。
つまり、あなたが目覚めさせなくても、ほかの事を教えることによって、「自分で目覚める機会」を作り上げることが出来るのです。 確かに、自分が教えたいと言う人間の欲求はあるでしょう。 しかし、元の教えたいと言う理由は、「その人が英語に強くなってもらいたい」と言うことだったわけですね。 自分が教えたからうまくなったという満足感が第一の目的ではなかった、ということですね。
ですから、いつか分かってくれるはず、必ず発音が悪いと言うことは「被害」として追いかぶさることになる、と言うことに賭ける、と言うことなんです。 だから、それを作り出す機会が来るように教える、と言うことになります。 今納得できないのなら、納得できるようになる土台を作ってやる、と言って、今度は自分を納得させなくてはならないのですね。
それには、英語を外で使えるようにもって行くことがひとつのヒントとなるはずです。 いいえ、今、外に連れて行き外人さんと話させれば分かるはずだ、と言うことではありません。 英語を外で使いたくなる意欲を作り上げている、と言うことです。 それには、英語のほかの必要となる能力に努力を注ぐ、と言うことになります。 つまり、ほかのことでその人の不得手の中でもっと自信がつくように教えると言うことになります。 ですから、その人の英語力として、弱点として認識していることが必ずあるはずです。 その弱点を克服させてあげることで、あなたの実力や指導力に信頼をもっと持つことになり、自分にも自信がつくようになるわけです。
2) どうしても納得させたい、自分にとって意味のあるチャレンジとしたい、と言うことであれば、目的と目標をはっきり自分に見させ、あせらなくても良い時間的余裕を予定し(たとえば1月中にではなく4月までにとか)、段取りをつけることが必要となります。 つまり、教えることの実力自分に作り上げる時間も必要だと言うことになります。
これには、なぜSitがシットではいけないのかをチョコチョコとつつくと言う方法をとり、口うるさい、押し付けようとしている、と言うことを止める必要があります。 チョコチョコ、とは、それだけ気にすることを言わなくてはならない、と言うことになります。
槍でつつくのではなく針でつつく、と言うことですね。
sitをシットといっていたら、Shitにとられたら大変だよ、とか、ThinkではなくSinkだったら文章としておかしくなっちゃうよ、とか、アメリカで小さな商社営んでいる者です。では英語をうまく「しゃべる」人からは今自分が言っていることと同じように思われちゃうよ、そして、仕事なんだから余計に大きな問題になるよ、とかですね。
長くなってきたので、一応この辺でやめておきますが、必ず教えてきてよかったと思える日が来るはずです。 私はここで3年半同じことを言ってきました。 やっと、この半年でやってきてよかったと思えるようになりました。
これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
お礼
アドバイスありがとうございます。 おっしゃるとおり、私がいくら彼女の発音を気にしたとしても、彼女が気にしない限りどうでもいいことですし、 彼女が仕事で苦労する可能性が高いといっても、彼女がそれを理解しない限り馬の耳に念仏です。 今は淡々とやるべきことをやっていきたいと思います。