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価値と価格と貨幣 価値
今日は、「価値」の事で少々混乱しています。 たとえば、目の前に金の塊があったとして、金が「価値」をもつのは、人間がその装飾性に喜びを感じたり、どこででも何かと交換できる可能性を信頼するからだと思います。 ということは、「価値」は金塊にあるのではなく、人間の感情や理性の中にあることになります。 哲学では認識と存在についての問題かと思いますが、上記の結論で正しいのでしょうか? 「金に価値がある」と言う表現は不正確でしょうか?
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こんにちわ。ここに書くのはちょっと久しぶりです。 貨幣の価値については、岩井克人さんの『貨幣論』が参考になると思います。今は、ちくま学芸文庫から文庫化されて出ています。 かいつまんで言うと、貨幣の価値についての結論は、 >ということは、「価値」は金塊にあるのではなく、人間の感情や理性の中にあることになります。 というお考えに近くなります。 「金」という貴金属に触れておられますが、貨幣は要するに「商品価値の媒体・価値の表現基準」ですから、材質は何でもよかったりします。現に僕たちは金属のお金より紙のお金の方が持ってると嬉しかったりします。 「金」に価値があるように思われていたのは、化学的に変質しにくく(つまりサビたりしにくく、光沢が失われにくい)、加工も簡単という物質としての性質が、多くの人手に渡りつつ流通する「貨幣」にうってつけの特性を持っていたからでしょう。 でも、「金」それ自体に何か価値があるとは考えられません。食えないでしょう? フリギアのミダス王の伝説----デュオニソスから触ったものが全て金になるという贈り物をもらったミダス王が、黄金に囲まれて飢え死にしそうになった話----が端的にそれを物語ってます。つまり、「生物・生命体としての人間にとっては何の価値もない」のです。 ということは、人間の生物的ではない領域、つまり人間ならではの、精神的・文化的領域に、その価値の根拠はあることになります。 岩井克人さんは、そういう「貨幣なるもの」の価値の根拠は、「誰もが、他の人にそれを渡せば受け取ってくれると信じていること」にあるとしています。 ちょっと考えればわかるように、紙の貨幣、紙幣は、ほんの少しデキのよい紙切れです。もっとも、昔は「兌換紙幣」という銀行に持っていけば決められた量の「金」と交換してくれた紙幣もありました。これだと紙幣そのものに価値の裏付けがあるような気もします。けれども、仮にある国の国民全員が、一斉に銀行に押しかけて金との交換を迫ったら…応じきれないはずです。これはつまり、発行された紙幣の額面総額よりも、その国の金保有量が少ないということです(その範囲内で紙幣を発行したら、経済の規模に追いつかないはずですから)。 ということは、兌換紙幣であっても、実際には価値の裏付けはないのだということです。 まして、今の不換紙幣は「金と交換」などしてくれません。本当にただの紙切れです。 でも価値がある(と思われている)。 それはなぜかというと、「誰もが喜んで受け取ってくれると、誰もが信じているから」です。誰もがそう信じている、そのまた背景には、「現にその紙幣が流通している」という「事実」があります。 流通しているから価値があると信じられ、 価値があると信じられているから流通している のです。 その価値を支えているものは、何ら形を持った実体的なものではなく、言ってみれば「流通するそのスピードそのもの」です。飛行機の翼のようなものです。「流通している=ある程度の速度が出ている」ならば「揚力が生まれる=価値があると信じられる」。逆に「流通がとどこおる=速度が落ちる」となると、「揚力が失われる=価値が疑わしくなる」ことになります。 価値の源は「貨幣が流れる速さそのもの」です。 「誰もがその価値を信じているから」ですから結論は「人間の感情や理性の中にある」に近くなるわけです。が、付け加えることがあるとすれば、他方で「現にそれが活発に流通している状態にある」ことも条件の一つだということです。
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- chihoko
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●人間の価値だろうが 物の価値だろうが イデオロギーの価値だろうが エネルギーの価値だろうが何であろうと すべての価値を総括して定義できる 概念を述べているんですよ わたしは・・・。 ●あなたの価値を自分で考えることで その価値概念を把握してみてください。 それが いちばんあなたにとって有益です。自分と価値の関係を理解すること それが まちがわないで思考し生きてゆくための近道です。 ●繰り返しますが 価値とは 他者とのもろもろの関係を処理するための概念なのです。 地球上にあなたひとりなら 価値という概念は必要ありません。 石をめぐるあなたと他者との関係を「価値」という感覚を通じて処理するわけです。 だから「石」と「石に対するそれぞれの価値」とは本質的に無関係です。 わっかるっかなぁ? がんばってね!
お礼
何度もご回答有難うございます。 >他者とのもろもろの関係を処理するための概念なのです。 この辺りが良く理解できないのですが、 >だから「石」と「石に対するそれぞれの価値」とは本質的に無関係です。 私の質問の回答としては、価値は事物にあるのではなく、人間の精神の中にあるというふうに理解すればよろしいのでしょうか。 この質問は一旦打ち切り新しい質問をしますのでまたよろしくお願いします。
- chihoko
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●また わたしです。 海水を認識し飲めないと分かることは 分かることで価値ではありません。 価値感覚は ひとそれぞれで 人の数だけあります。 ひとの心は価値をつけられないものです。なぜなら意思を持つからです。 コントロール不能だからです。でもコントロールされちゃってるよーってこと。 あなたの価値とはこころのことではないです。もしコントロールされてなければ ですが。あなたの能力の価値です。人の価値はそのひとの自由にできる ものの大きさに比例します。それだけ社会で必要とされていると言うことです。 権力もその人の価値の一部です。対象の自由を奪えることこそ その人の価値そのものです。 ●すこし話を進めましょう。 人間の価値とは おおむねわたしが話したようなことで推しはかれます。 人間の価値とは 人間の幸せと 無関係であることに気づいてほしかったなあ。 A:あのひとは 美しい。 B:あのひとは 美しい価値がある。 Aには幸せが宿りますが Bにはやどりません。 美 気高さ 尊さ いずれもその本質は価値とは無関係です。 ●価値とは他者とのもろもろの関係を処理するための概念なのです。 石ころは 石ころでいいのです。そこに価値を見出すことは 争いの火種にこそなれ 幸せには向かいません。 ●価値のことわかったかなあ? あなたがどの程度の人間かわからないけど多くの人々は ピラミッドの頂点の人々の価値感覚にふりまわされてるんですよ。 好むと好まざるとにかかわらず。それが社会です。 価値という言葉にふりまわされない こころを持ちたいものです。
お礼
ご回答有難うございます。 ●申し訳ありません、お礼の書き方に不慣れなせいで、またまたお呼び立てしたようで恐縮しております。 >価値感覚は ひとそれぞれで 人の数だけあります。 その価値感覚を、類型化できないかと思っているのです。 私は人の価値について質問した記憶はありません。一般的に人間が対象(貨幣を通じて価格に転化する)に対する価値感覚を考えています。もっともこの事はまだ先の話で、価値自体のことをゆっくり考えたいと思っています。 ●人間の価値について質問したつもりもありませんし、「人間の価値」という表現は個人的に好きではないのですが、幸せと価値が無関係と言うことは理解できません。 ●>価値とは他者とのもろもろの関係を処理するための概念なのです。 ここでいう価値とは人間の価値の事だと思いますが。重ねて申し上げますが人間の価値には興味がありません。 石ころに価値を見出す人間の感覚、感情、理性に関心があるのです。 ●感覚や知覚が社会の文化的影響を受けることは、最近読んだ本で知りました、ピラミッドの頂点の人々の価値感覚に振り回されないためにも価値について考えたいのです。 あなたがどの程度の人間か全く関心がありませんが、これからも、ご回答には時間の許す限りゆっくり考えて、しかも出来るだけ早くするつもりです。拙速でも回答したときは早くお礼が欲しいと自分も思っていますから。 くれぐれも人間の価値については質問していませんから理解してください。有難うございました。
- chihoko
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●この地球にあなたがひとりだけの人間として存在しているなら価値という 概念は必要ありません。 魚を焼くのに塩は必要でも その塩に価値を引き合う必要はないでしょう。 もしそれでも価値を云々するなら 見識が狭くなるばかりでしょう。 ●さて地球に人間が二人になると 価値と言う概念が必要になります。 相手とのかかわりのなかで 交換したり 優先順位をつけたり しなければ自分の自由になるものが少なくなる可能性があるからです。 ●現代 価値のつかないものは こころだけなんですが(他の天体は除く) そのこころも価値という概念に 飲み込まれちゃってる人が多くって ほんと なっさけなーー・・・って感じです。 ●あなたの価値=あなたがどれだけ自由を持っているか なんですよ。 土地 金 おんな(おとこ) 規範 デザイン ↑さて どれだけ自由にうごかせますか?
お礼
●そうでしょうか、地球にたった一人でも、海水は飲めない事を理解する必要はありますし、何が食べれてなにが食べれないかを判断する必要があるとは思いませんか?これは価値概念ではありませんか? ●地球に二人の人間がいることによって、価値感覚が二つ発生すると思います、しかし、所有の概念を無視して交換を考えることは無意味だと思います。なぜ地球上にひとり人間が増えたのでしょう。 ●価値と価格を混同していませんか、あ、chihokoさんでなく混同したのは私かもしれません。>なっさけなーー・・・ って感じは理解できます。 ●これは断固間違っていません、価値のつかないものを心だけといいながら>あなたの価値と表現するのは自己矛盾ではありませんか。 土地、金、「おんな」、規範、デザイン、の不要な部分に縛られないことが自由なのではないでしょうか。 自由に動かせることは対象を不自由にしていることです、どこにそのような権利が発生するかはまた興味深い問題ですが、それは価値とは言わずに権力と言うのではないのでしょうか。 率直なご意見ほんとに参考になりました、私も飾らずお礼ができ面白かったです、またお願いします。
- serpent-owl
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呼ばれたような気がしましたので、再度。 余談から入りますが、古典経済学はそう簡単に絶滅しないでしょう。現代でも様々なコロモをまといつつ何度も復活しているように思いますし、経済学の基本中の基本という意味でも、資本主義の「核」という意味でも、資本主義ある限り永遠に続くと思います。 さて、その古典経済学を重んじておられるのなら、価格は需要と供給の量的関係で決定されてくることはご存知でしょう。「価格」すなわち、商品「価値」の貨幣的表現です。このこと自体に、価値がその物に客観的に備わった属性でないことが現れているではありませんか。 市場関係者が「マインド」などと呼ぶもの、これで価値は決まる。「貨幣」という次元で考えれば、そうなると思います。 ただ、そのマインドみたいなものに「感情や理性」という個人の精神状態をイメージさせる言葉を用いるのは、少々問題をややこしくするように思います。せいぜい「それが欲しいと思う気持ち」でしょう。しかも、一人の人間のものではなく、多数の人間の。それが市場という場に立ち現れたときに、物の価値は数値化されるのだと思います。 * 「数値化できないものを数値化する貨幣の不思議」は僕も考えたことがあります。絵画などの芸術作品の売買に関して、僕は不思議に思いました。「美という、数値化できない主観的な価値を、どうして画商たちは数値化できるのだろう」と。 しかしこれも基本的な骨組みでは「需要と供給」だろうと思います。評価の高い芸術家の作品ならば需要があり、高値を呼ぶ。あるいは逆に、画商が芸術家の評価を作っている場合もあるかも知れません。ある画商の美的センスに適う無名画家の作品を買い付けておいて、個展を開かせるなど援助して売り出し、評価を高めさせておいて……というワザですね。 いずれにせよ、画商の頭脳は、画家の知名度、評価、作品の出来などを勘案し、需要がどの程度あるかを考慮して作品の美を価格へと数値化するのでしょう。 * さらに「アートつながり」でもう一歩踏み込みましょう。「art=人工」というつながりですが。 ご質問では特に「金」に触れておられる。「貴金属」です。これについて、今度は「貨幣」という次元から少し離れて考えます。つまり、「なぜ人は貴金属に惹かれるのか」という。 一つには、前の回答で述べたように、「貴金属は貨幣にうってつけの性質を持っていたから」→「貴金属は価値あるものだという共通認識が人々の心に刷り込まれていった」という説明が考えられると思います。 もう一つ、「人間の本性に根ざして価値を付与された」とも考えられるように思いました。 どういうことかというと、貴金属の持つ光沢は「自然の中には滅多にないもの=非自然的なもの」だからだ、ということです。 このへんは詳述すると大変なのですが、手短に言うと「文化の根源は、人間が自らの持つ《自然性》から目をそらそうとする営みにある」ということから演繹されてくることです。 死、性的な事柄一般、食など、動物と共有する分野について、人間は禁忌を立てて自分から引き離しておこうとします。この「禁忌」自体が「違犯」の価値を高めるという力学もここから生じてきます(これらもまた、商品化され得ます)。 同時に、人間を人間たらしめる「禁忌」の方にも価値はあることになるでしょう。つまりそれは「人間が自らの自然性から目をそらすのを助けてくれるもの」ですから。 これを考慮に入れると、自然の中に直接存在するわけではなく、人の手が加わって初めて存在しはじめるものである貴金属が、人間的価値の象徴のような地位を占めたと考えることもできようかと思います。ここにはまた、「衣」や「食」といった、自然的与件である肉体の隠蔽や維持に用いられる消費財とはちがって、貴金属が不変性・持続性を持つ点も影響しているでしょう。 こんな感じですね。ご質問の意図と結び付いているかどうかわかりませんが。 なお、「飛行機の翼」は僕が考えた比喩です。岩井さんの考えていることを自分なりに表現するとこうなる、というもので。
お礼
serpent-owlさんお礼の書き方に不慣れなため、かえってご迷惑をかけました、serpent-owlさんのおっしゃることは大体理解しています。細かく言えば、市場の「マインド」にっいては意見が異なりますが、それ以外は仰るとおりだと思います。 話を元に戻して、マルクスは資本論の中で、生産設備の説明に生産設備の価値が商品に移行するといった表現を使っていたと記憶しています。あのマルクスをして商品の中に価値があると考えていたと思います。一般的価値と商品価値が同じかどうかはこれから考えるとしても、凡々たる私個人が「価値」を感情と理性の中に投錨するためには、もうすこし「価値」を考える時間が欲しいと思っています。 目に見えない物を見るため、目に見えるものがじゃまになっているといえば解かってもらえるでしょうか。 目に見えるものをはずしながら、価値の迷路の中で新しい迷路を見つけて喜んでいる変人です。 ひまなときにはぜひお付き合いください。 有難うございました。
- caballero
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本来的には価値というのはないと考えます。 >その装飾性に喜びを感じたり、どこででも何かと交換できる可能性を信頼するから この二つは、ここでは分けて考えるべきでしょう。うんこばえがキラキラ光るので、それに価値を付与する事も可能です。しかし、ドコでも交換できる変換価値とも言うべき機能は、暗黙のうちか開示されているのかわかりませんが、社会の了解事項としてあります。生活の過程で、習慣として、ルールとして、当然の様に身に染みこまされている概念です。このような概念は、明らかに外部からもたらされたのであり、外部が変われば変わります。ですから、貨幣価値に代表される交換価値、変換価値といったようなものは、実には存在しません。 また、金の装飾性について感じる価値ですが、大きく踏み込んで考えないなら、個人による、といえます。しかし、多くは、実に、「昨日にはそうだといったのに、今日には違うといいます。明日にしても同じ事です。」個人の価値観(人間の理性や感情)とはかくも信用できないものです。そのように、昨日には価値があったのに、今日にはなくなるような価値が、はたして「ある」といえるのでしょうか?いえません。 なぜなら、今はあるじゃないかといっても、次の瞬間には今は過去になっており、そうしている間にも、今という時間は失われていっているからです。「今」ということを、本当にいえない限り、価値どころか、すべてにおいて「ある」などとはいえないのです。 そういうことから、 >「金に価値がある」と言う表現は不正確でしょうか? これは正しくありません。不正確です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 困りましたね、価値などないとなると、人間の存在自体がなくなりそうです。 事物は人間の存在を含め、自然法則の前では平等な存在です。事物に人間の「価値光線」を与えることによって、金は銀より価値をもっのではないのでしょうか。 もっとも、価値が何かわからないので質問しているわけで、価値などないと言われても反論のしようがないというのが、caballeroへのお礼かもしれません。
- aminouchi
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fishbowlさん、こんにちは。「宝くじ」問題との関連でのご質問と思います。 さらにまた、serpent-owlさんのお答えの中で「古典派経済学の愛好者です」と書いておられますから、お答え不要であるかとも思いましたが・・いくつか、アドバイスをさせていただきます。 まず、fishbowlさんは、多分学生であろうと思われますが、同じ学生にそのようなことを議論する仲間はおられないのでしょうか。同学年でなくても構いません、院生であっても構わないでしょうし、教授・助教授であってもかまいません。正直に言いましてこの「教えてgoo」でご質問なされたとしても生半可な答えしか戻って来ないでしょうし、即時性に欠けますからあまり役に立たないと私は考えています。 それよりも、やはり同様の関心を持っているであろう周囲の方と議論していくことがご自分と相手の方の学問を深めていくためにも必要だと思います。 また別の話ですが、「貨幣」発生の歴史についてはすでにご存じであると思います。物々交換の時代から現在に至る流れの中で「貨幣」の意味は変化してきているように私には思えますし、ますます抽象度を高めてきていると思います。その歴史的流れの中で考察していただければお答えは出やすくなるでしょうし、少なくとも納得がいくのではありませんか。「信用貨幣」に触れないで考えることに意味はないと思えます。まして複雑になるからという理由で除外するのはいかがかと。 さて、一連の応答の中で私が見てとれるのは、fishbowlさんが「価値」を自分の外にある何か客観的なものとして捉えておられるところに問題が生じていると思います。ラディカルに問いかえしますが、 「価値」が人間の感情や理性の中にあって何が不都合なのでしょうか。 正直な感想を述べさせていただきますと、今の若者(と敷衍してしまいますが)は、入試対策的試験勉強しかして来なかったために、「正解は(かならずどこか)自分の外にある」と思いこむ方が多いように見えます。どこかに「価値」という客観的なものが存在していると思うからこそのご質問なのでしょうが・・
お礼
ご回答有難うございます。 本当は一日ゆっくり考えてお礼をしょうと印刷しましたが、回答が長文な文章になりそうで時間の許す限り御礼をすることにしました。(自分の勝手ですか理解してください) >価値が人間の感情や理性の中にあって何が不都合なのでしょうか。 何も不都合はありませんが、感情や理性といった数値化不可能な概念を客観的価格に数値化する貨幣のマジックに個人的な好奇心が抑えられないのです。 私は学生でもないし、学問のための学問をする気もありません、ただ知らないことを知りたいだけです。 知らない人に知ってもらいたいという不遜な自分自身気持ちは、匿名性のあるこのシステム「価値」のような気もします。 ありがとうございました。
- mimosa2001
- ベストアンサー率22% (121/539)
こんにちは。 価値はやはり、その人の認識するものなので感覚の問題と思います。 個人の認識は、ある程度はその人の属する社会全体で決まっている 価値体系によって決まるのでしょうが、 個人によって感じ方の違うところも大きいと感じます。 「金に価値がある」というのは、たとえば 「○○の社会においては、金は価値があるとされている」といえば より正確かなとわたしは考えます。 価格と価値の関連は、経済学の範疇ではないでしょうか。
お礼
ご回答有難うございます。 やっぱり感覚ですかね、理屈で解かってもお金なんかを見ると自信がなくなりますね。 価値は経済学では扱わない事が多いそうです、感情では数値化できないからでしょうかね。
「価値」は人間の持つ感覚で決める以外にはありません。 問題はその「人間の持つ感覚」が我々現存している人間だけにあるのか、もしくは我々以外の「意思や感覚」が加わっているのかどうかでしょうね。 これは哲学でも宗教でも究極の問題となってしまい、それは個人の自由に託すしかないでしょう。
お礼
ご回答有難うございます。 人間はこの捕らえどころのない価値をどうやって価格に変えているのでしょうかね。
- redbean
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>「価値」は金塊にあるのではなく、人間の感情や理性の中にあることになります。 いいんじゃないですか、これで。または個人だけではなく 社会の集団的な判断のなかにもあるのかもしれません。 >「金に価値がある」と言う表現は不正確でしょうか 言葉の表現としては、「金に価値がある」という言い方は 正しいと思います。確かに現代文明と一切関わりのない 原始社会に迷い込んでしまったら、そこでは金には価値は ないのでしょうが、それ以外では世界中でほぼ一定の 値段で取引できますから。多数の人が価値ありと認める ものは「○○に価値がある」と言い方ができると思います。 色だってそうですよね。「リンゴは赤い」と言いますが、 色は人間(動物)が勝手に感じているものでリンゴ側の 責任ではありません。正体はある範囲の波長の光に過ぎ ません。
お礼
色のたとえは気が付きませんでした、確かにある種の動物は色の識別が出来ませんでしたね、極端に言えば私の見ている色や価値が、他の人にとっての色や価値と違うのかもしれませんね。ご回答有難うございました。
お礼
ご回答有難うございます。 貨幣論にはある程度目を通していますが、後半の大胆な御発言も岩井さんの貨幣論の中にありましたっけ、信用に関する擬人と言うか、擬飛行機的説明ですね。 >流通しているから価値があると信じられる >価値があると信じられているから流通している 卵と鶏のようですが、個人的には価値が先だと信じるから価値のことを考えているのです。 私は絶滅危惧種の古典派経済学の愛好者ですので、「信用貨幣」については複雑になるので当分の間は触れないようにしています。またお願いします。