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「存在すること」とはどうということか
世の中には色々な物があります。ペン、机、細胞、宇宙、遺伝子…。世の中には色々な心があります。怒り、悲しみ、喜び…。それは存在でしょうか。いや、存在の程度の問題でしょう。なにか、その核となる成分があり、それによって構成されるもの、それが世に言う「「物」「心」という存在」に当たるのではないでしょうか。一見、あり得ないことのように見えても、少し回り道して考えれば「理解」できると思います。世の中は全てが均衡に、等しいものです。それらのバランスの元にさらに「存在する」「存在しない」があり、それがいわば「神の創った世界」です。なにか、ご意見・ご感想等ありましたらお寄せください。
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- nyamnya
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通りがかりの者ですが、僭越ながら一言申させていただきます。 No.10さんに対する答えは質問者さん自身のおっしゃる以上に失礼なのではないでしょうか。 哲学というのは(哲学をよくご存知らしい質問者さんには言うまでもないことでしょうが)、明確な答えが出しにくいため、きわめて主観的になりやすい部類の学問です。そういう場では、立場がまったく異なれば考える道筋自体もまったく違うということが多々起こるものなので、経験や知識と無関係に違う立場からの意見は理解しにくくなりやすいものです(有名なデカルトだって恐らくロックの意見なんかは理解できなかったのではないでしょうか)。その中で片やそれなりに論理も示したうえで自分の考えを説明しようと心を砕き、自分の理解できないところに関する助言を丁寧に求めているのに、それに対して説明する気もないというのはあまりではないでしょうか。 自分の哲学にオリジナリティを求めるのは大変よいことだと思いますが、単なる自己満足に陥らないためにも互いに理解しようと、させようとするのは重要なことだと思います。また自分以外の意見を理解しようとすることは(それにより自分の差異化を図れるという意味でも、もしかすると自分と似た考えに出会うかもしれないという意味でも)オリジナリティを高めるためにも必要でしょう。ソクラテスは資料不足でわかりませんが、アリストテレスだってデカルトだってそれまでの思想を把握した上で自らを磨いていました(有名な「我思う故に我在り」だってその言葉自体はデカルトより以前のアウグスティヌスのものです)。またNo.10さんは質問者さんの説明に残っている曖昧な点をやんわりと指摘するためにもあのような言い方をしたのでしょう。感謝するならわかりますが、突き放していてはご自分の品位や知性を疑われても仕方ないのではないでしょうか。 年齢や経験は関係ありません。相手が理解できなければ可能な限り説明する、これは金銭欲や名誉欲とは違い、自分の発展のためにも哲学に参与している者の最低限のマナーだと思います。 偉そうなことを言って申し訳ありません。
中学3年生にしてはレベルが低いですね。 存在の定義があまりにも稚拙ですよ。
お礼
補足ですが、僕の過去の投稿を見ていただければ分かりますが、「存在の定義」に関することは自分の中では結構考えている方かと思っています。ただ、もしあなたの仰る様に「あまりにも稚拙」ならば、それはこの問題と「存在の定義」とが繋がっていないという事なのでしょう。つまり僕の未熟さを顕著に示すものであり、それに関しては主観的立場からは何も申せません。
補足
補足をお願いします。 一つ目;>レベルが低いですね。 二つ目;>存在の定義 三つ目;>あまりにも稚拙ですよ。 「専門家のアドバイス」で「自信あり」ならかなりのものなのでしょう。しかしながら「あまりにも稚拙」な表現しかできない「中学三年生」には、あなたの仰る事の全てが理解できません。具体的な哲学の内容に関しては結構ですから、なぜそんな酷い言葉が安易に書けるのか、どうしてそうなったのかを教えてもらえませんか。
- haniwa11banana13
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hdkyktさんは存在があり得るということを前提に語っておられるらしいので私とは根本的に立場が違うと思いますが、以下に私の思う存在について語ることで、回答というか、一つの可能性だと受け止めていただきたいと思います。 「ものそれ自体」というのは存在するのかというのは、哲学史上何度も論じられてきた古い問題ですが、私はこれに、「証明は不可能」とやや折衷的に回答します。 存在について語るには存在をいかに認識するかという問題を避けるわけにはいきません。そこで考えてみたところ、私たちは五感をなしにものの存在は認識できません。仮に私が神経が極度に衰退する病気になり、五感すべてを失ったとします。このとき自分の外に存在を認識できるかというと、恐らく不可能でしょう。ゆえに存在の認識には五感が不可欠だと考えられます。 次に五感によっていかに存在を把握するかですが、直接的に最初の経験で把握することは出来ないと思われます。私の目に映る風景は、それ自体で考えるなら、無数の色が散りばめられた一つの絵に過ぎません。ゆえに視覚による経験はリアルタイムに変更はなされていくものの、その一瞬においては単一な経験だと捉えられます。この事情は他の感覚においても同様であることは、日常の経験を反省してみても確かめられると思います。 ではいかにそこに個物としての存在を認めているかといえば、差異を頼りにした分化によると思われます。例えば色がまったく同一か、いかなる飛躍もなく連続的に変化している面は、私たちには一つの面だと思われる、ということを考えるとわかりやすいかと思われます。そしてそのような差異の分布から、私たちは各々の感覚による地図のようなものを組み立てます。私とどのような位置関係にどのような差異があるかを把握するわけです。差異は一つでも存在を推定する根拠たりえますが、経験上結びつきえるいくつかの感覚による差異が同一の場所に現れたとき(このような地図の重なり合ったもの、あるいは総体的な地図群を私はその主体にとっての世界と呼びます)、その存在可能性はいっそう高まります。けれども最終的には存在していて欲しいという私たちの願いが、私たちにとって存在を存在たらしめます。 このように考えれば、ものそれ自体があるから私たちはそれを見たりするというより、むしろ逆の順に存在の認識はなされているものと考えられ、最も高いレベルの存在の明証性は私たちの信仰にのみ存すると考えられます。 こうした立場からすると、自分が持っている「心」以外の「心」を想定することは困難に思われます。それは感知し得ないからです。けれど、「心」の定義を少し変更したのなら、それは上の信仰を持つ者にとっては明確に存在する原理になります。 単に存在の認識を考えただけでは、認識されたものがなぜそのように認識されたのかがわからず、そうであったからそうなのだとしか言えません。けれど存在を信仰する立場からは、ある存在がそのようであり、そのように差異を統合し、私の世界に差異を作り、変更していく原理は、その存在そのものに求められます。それを私は「心」と呼びます。 一般的な「心」も「目は口ほどにものを言う」などといわれてるほど、他者に語りかけるものであったことを考えると、私の「心」もさほど食い違う考えではありませんが、私は私が私の姿を今こうであるように他者に認識させている働きも「心」に含める、という意味で、いくらかその範囲を拡大しています。 上記のような考え方に立てば、心も物質も、私の言う信仰によるという留保はありながら、同程度に存在し、同程度に確実であると思われます。そしてこの世に「心」が満ち溢れている理由を、「神」と呼ぶことは可能かも知れません。 hdkyktさんの立場からすればナンセンスかもしれませんが、参考までに。 ところでhdkyktさんの説についてですが、私の理解力不足によるのでしょうが、hdkyktさんがご自身の使ってらっしゃる言葉をどのような意味で考えているのかがいまいちわかりません。「存在」、「存在の程度」、「核」、「回り道して考える」、「理解」、「世の中はすべてが均衡」、「バランスの元に『存在する』『存在しない』があり」、「神」がそれに当たります。私のような理解能力に欠ける者には、曖昧な言葉や命題はそのここでの意味を、それ自体の一般的な意味は曖昧ではないが特殊な意味を与えている言葉や命題はその特殊な意味を教えていただかなければ、誤解を起こしかねません。 と同時に、「存在の程度」と「核」はいかなる関係にあるのか、それらからどうして「世の中はすべてが均衡」が帰結されるのか、そしてその「バランス」がどのように「神の創った世界」に繋がり、その「神」はどのようにわれわれと関わるのか。そうした連関は字数の関係で多く書かれなかったのだと思いますが、こうした考え方に馴染みがなく、知識も持たない私は途方にくれてしまいます。いくらか上の疑問に対してご説明頂けたら私にとって得るものは大きいだろうと思われます。
補足
真面目で親切なご回答、有難うございます。早速ですが、あなたは「哲学者」と呼ばれる人々をご存知ですか。ソクラテスに始まり、デカルト、アリストテレス…(すみません、これだけしか知りません)。「我思う、ゆえに我在り」このような名言(?)を残した人々です。哲学は昔、ヨーロッパで隆盛を極めていました。(と思います。)そのころは、哲学者というだけで飯が食え、服が着られ、一戸建ての住居で生活することができました。そのため、哲学者は人々の憧れであり、尊敬の的でした。哲学者は自分の思ったことを、メモに記し、本にまとめて講演するだけで良かったんです。しかしそれは僕から言わせればクズです。なぜなら。彼らは自分達のしていることの意味を頭で理解していたのにもかかわらず、金と名声のために無視していたのですから。哲学は他の学問とは決定的に違います。何かを発見する。これは同じです。ですがそれを広めるべきか否か、何のために広め、何のために発展させるのか、その真理を頭で理解し、実行に移すという「実生活」でも自分の理論に基づいて行うべきかどうかを判断しなければなりません。金と名誉に負けたり自分の発見を自慢したいが為に公表した者は、結局そういう価値観を持った人間にすぎなかったということなんです。ここで何が言いたかったか、お分かりかもしれませんが、僕の価値観では(即ち社会というアタマだけのものに背いた者として、)(哲学の)知識は全て自分で悟り、知恵も信念も概念も全てオリジナルのものを目指していくべきで、そういう努力は「最大限」行うべきである、ということなんです。詰まるところ、このサイト(の哲学欄で)で書き連ねていることは全て、世間に言えない辛さを発散するためと、暇な時間を楽しく話す空間で、それだけなんです。なので、僕の書いたことを知識として蓄えられるのは構いませんが、僕は、失礼ですが、労力を惜しんでまで説明する気は、ありません。また自慢になりますが(こんな自分が嫌でたまらないんですが)、僕は中学三年生です。人生経験殆どないです。そんな僕が分かるという事は、あなたならきっと理解されることと思います。
- torauma
- ベストアンサー率20% (38/183)
有神論的存在論であれば、カントの時代あたりまでは有意義であったはず。 ただこれは道徳的・感情的な意味を含んでしまっていて広範囲な存在論としては無効化されてしまうんですよね。 それは、あなたとあなた達にとっての存在意義を規定しているに過ぎない。 という。 ヘーゲル以後は無神論的存在論に切り替わっていると思うんだけれど。 神を無視する。つまり神が無くても存在は語れるし、神無して語るべきであるという考え。 まあ、ニュートンでさえ「神の一撃」で宇宙(法則)が出来た。 と言ったとか言わないとか。 真実として「存在する」が神業であったとして、わざわざ否定する理由も無いです。 けど、広範囲な人間関係の仲では否定・拒否されてしまう理由「なぜ?」が重要なんじゃないですか。
以下の文章はhdkyktさん(あなた)が 感情の存在って? という質問に回答したものなのですが・・・ あなたは「感情」とはどういうものだと思いますか。(それを「定義する」と言うらしいですが。)感情を理性の反対の存在だと捉えるのは、大いに疑問のあるところです。同時に、「愛」だけが絶対だと捉えるのにも疑問の余地があります。だけれども、それらは現に存在しています。なぜなら、それを「直感的に」感じることのできる人間は、ここに存在しているからです。「存在」をどう定義しますか。我々がここに存在しているということが証明できれば、「愛」も存在していると言えます。そして、逆もまた然りです。コップがあるのと、「愛」があるのと、その確かさは同じです。違うのは精神的要素・物質的要素ということだけですよ。「存在している」ことの証明が、この世の全ての「存在」の証明になります。あなたは「愛」の反対が何だと思いますか。それがこの世に「存在する」なら、「愛」も存在します。いまあなたはここに存在していますか。それが全ての「存在」の証明です。 すでにあなたの中で「存在」の答えは出ているのでは? また、このような質問にははっきりとした答えなどないのですから、せっかく回答くださった方に「ナンセンス」などと言わない方が良いと思います。それこそ「ナンセンス」です。「ありがとう」の一言を添えるのが礼儀だと思います。
お礼
失礼致しました。「ナンセンス」は顔も見ぬ相手に使うには余りに軽薄な言葉です。お詫び申し上げます。
- kumonomoto
- ベストアンサー率41% (12/29)
NO.6、追加です。 逆もまた然りですね。
- kumonomoto
- ベストアンサー率41% (12/29)
例えばパソコンを使って 人間と同じ思考を持ったプログラムを組みます。 そして世界にあるありとあらゆる情報を データとしてすべて書き込みます。 その「プログラム」はその世界の中で人間と同じように行動し、 人間と同じように考え、人間と同じように感じます。 物の動きも、現象も、存在の有無も、感情も、 全てプログラムによって処理されます。 ところで、パソコンのデータは全て1と0のフラグに置き換えられます。 >その核となる成分があり これをフラグに置き換え、 >「存在する」「存在しない」 これを1と0に置き換え、 >「神の創った世界」 これを人間の作った世界と置き換えてみたら同じになりますね。 人間もいつか神様になれるのかもしれません。
- apple-man
- ベストアンサー率31% (923/2913)
>それらのバランスの元にさらに「存在する」「存在しない」があり、 といったあたりが人間の認識力の限界と言って 言いと思います。 例えばNo.3のご回答の >色即是空 の一節ですが、これはお釈迦様とその弟子の 問答形式のお経、般若心経の一部で、 弟子がまず問いかけます。 弟子>色(存在)とは何ですか? 釈迦>空(無)ではないものだ。 弟子>空とは何ですか? 釈迦>色ではないものだ。 と、ずーと続きます。 >それがいわば「神の創った世界」です。 創ったということは、以前は無かったと いうことですね。 存在と無という本もあるくらいで、この辺は いろいろ深い議論があります。 実際の自然現象にはこの中間があるようです。 存在しているというのは、人間がはっきり 認識できることに限定されているという事が わかると思います。 存在とは、人間がそう感じていることに 過ぎず、本当は何もないかもしれないんです。
- chironero
- ベストアンサー率11% (23/200)
あなたがこの「質問」をした事そのものが、あなたが存在している証です。又、その「質問」に回答している私は、あなたの存在を証明している事になります。 従って、互いに相手を認め会えるものの間以外に「存在」は証明出来ません。 「心」の「存在」は証明出来ませんが、互いの暗黙の了解の上で認めるべきでしょう。「神」は、その「心」を拠り所としています。
補足
失礼ですが、ナンセンス。僕の質問の答えにはなっていませんよ。
- yoh001
- ベストアンサー率34% (24/70)
hdkyktさん、こんにちは。 「物」というものを考えて見ます。 まず、学校の物理で習ったことから・・・ 「物」は物質で構成されます。 物質は分子からなり、その分子は原子からなり、 その原子は原子核とその周りを廻る電子で構成される。 この原子殻の奥もまだまだ探求する必要がありますが、 一応、ここのレベルで考えてみます。 聞いた話ですが、単純な水素原子くらいを想定しますと、 この原子核の大きさをリンゴだったかスイカだったかに拡大すると、 電子の廻っている位置というのは東京山手線の電車の軌道になるそうです。 ・・とすると、原子というのは、リンゴを中心に半径何十kmかの位置を蚊のようなものがブンブンと超高速で飛んで廻っていることになり、 ほとんど中身のないシャボン玉のようなものといえるでしょう。 このレベルで考えただけでも、 「物」はそのシャボン玉で構成された99.999・・・パーセント「空」であるものだとわかると思います。 般若心経の「色即是空」はこのことをいっていると思います。 「空」とは何か? これはもう次元を超える話しになってくるでしょう。 「存在に入る」ということを考えてみるといいと思います。 Aさんの存在に入っているものと、Bさんの存在に入っているものとはその認識能力(受信能力)により違う場合が多いのです。 たとえば、UFOがあるとか、ないとか・・・。
補足
♯4さんに同じ、すみませんが、あなたの回答も僕の質問の答えになっていません。
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お礼
本当に失礼しました。僕自身の心と頭の未熟さが招いた、自分でも「恥ずかしい」言葉でした。すみません。説明の一環をかねて、僕の言い訳も少しだけ見てもらえませんか。(残念ながら、僕は人に対して丁寧な言葉で表現するのが下手でして、また人前ではやはり見栄を張りたがるものですので、それ故の多少の無礼はお許しください。もちろん、「その多少の無礼」に怒っておられることは重々にお詫びいたします。) >偉そうなことを言って申し訳ありません。 この意味を少しだけ考えさせてください。 >(年齢や経験は関係ありません。)相手が理解できなければ可能な限り説明する、これは金銭欲や名誉欲とは違い、自分の発展のためにも哲学に参与している者の最低限のマナーだと思います。 すみませんが、それ自体がすでに目的を持った行為であると思いませんか。その中に含まれた目的、つまり価値観やあなたの考えを、あなたは見逃しておられる。もしくは敢えて見ないでいる。 >偉そうなことを言って申し訳ありません。 こちらもすみませんが、「できるだけ嫌な感じを出さないように、それでいて文章に格好がつくよう」つまり「大人の礼儀、大人の文章」を念頭に置いた言葉ではありませんか。だからどうした、と言われれば、どうとも言えないんですが、だからこその >偉そうなことを言って申し訳ありません。 であるのかのしれません。いやまあ、詰まるところ、あなたの忠告通り、あなたやそれ以外の方が嫌な思いをされたのでしたら、本当に申し訳ありません。