古事記、日本書紀が編まれた8世紀以降(聖武、第45代のあたり)は、その時点時点での歴史書や文献が比較的残るようになったので、天皇家系の継続という点では疑問が少なくなっているようです。しかし、古事記・日本書紀の記述する聖武以前についてはかなりの疑問があると言われています。
知っている範囲でざっと紹介します。このように、古事記・日本書紀がかなり無理なつじつま合わせをしており、皇統の連続性を文献で完全に確認するのは非常に難しいというべきです。
- 第2代(綏靖)から第9代(開化天皇)までの所謂「欠史8代」。つまり8人の天皇は実在しなかった、家系上の創作に過ぎないと言う説があります……これらの天皇には政治的な治績がほとんどなく、またその年齢が異常に長い(100歳以上もあり)ことや、すべて長男相続(当時は兄弟相続が普通)であることなどから、「創られた天皇」ではないかと言われています。異論もありますが。
- 崇神帝(10)による征服説。第9代から第10代での家系の連続性には疑問があることになります。なぜか崇神の帝は、初代の神武の帝と同じく「日本を初めて治めた天皇」と呼ばれています。これは、実は崇神が神武と同一人物、あるいは神武の始めた王朝を崇神の帝が征服したのではないか、などの説があります。
- 応神帝(15)による征服説。第14代仲哀との間に歴史的な連続性に疑問があると言われています。母が神功皇后で、この方も実在に疑問が持たれており、応神の帝が仲哀の帝(実は仲哀の帝も実在性が薄いとする説があります)に取って代わるか、婿入りするかして王朝を継いだのではないか、とも言われています。
- 継体帝(26)の出自の疑問。武烈の帝(25)が、古事記などでは非常に残虐な天皇として描かれた上に、子供がないままに亡くなり、かつ皇統を継げる第1世王(父が天皇の皇子)が絶えたことが述べられています。継体自身は応神の帝の5世の子孫(5代前が応神)という極端に血のつながりの薄い皇族であり(これも事実かどうか、疑う研究者が多いようです)、また即位から大和の地に入るまで20年もかかったことなどから、継体を征服者と見る研究者も少なくないようです。
また、継体の前例が、その後において「5世王までは皇統を継ぐ権利がある」という慣例となって伝えられていくことになります。
- 継体以前にも仁賢(24)、顕宗(23)の継嗣にあたっても奇妙なエピソード(播磨の辺りで牛飼いの子になっていたのを、飯豊皇女が見いだして皇太子にした……など)があり、血統の連続性に疑問があります。ちなみに飯豊皇女は清寧の帝(22)が亡くなった後、やはり皇統が絶えたために、臨時に女帝として即位されたとも言われています。
お礼
とても遅くなりましたけど、回答ありがとうございます。 長く書いて下さり、参考になりました。 色々不自然なことがあるんですね、ならそれを堂々と言ってもいいのに。物語としてあると。