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純粋直観
我々文明人にとって月や星や樹木との対話は可能でしょうか? (この場合の対話は対象化ではなくて、未開人のような根源的な自然との関係です。)
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そうですね。例えば、次の句はどうでしょうか? 隠岐やいま 木の芽をかこむ 怒涛かな 私には、荒々しい波が険しい崖状の岩肌にぶつかっては砕ける厳しい自然が見えます。そして、その厳しさの中にも、柔らかくしなやかに育つ生命の息吹を感じます。対照的なものを含む一つの自然の風景です。それと同時に、この作者の心が思われます。戦争というものを体験した苦渋の心、家族をなくした寂寞感。その心が、怒涛を見るとき、それは戦争の厳しさとどこかで重なってきます。これから自分はどう生きて行こうかと思い沈んでいるとき、ふと見ると、目の前には、至るところ、若々しい木の芽が吹き出している。あー、このような厳しい自然の中でも、元気に萌え出す生命を見て、自分自身の心の中にも新しい希望の息吹が沸いてくるとしたら、これは、自然と心との対話ではないでしょうか? 自然の風景と心情風景が出会ったとき、そこに対話が生まれるのではないでしょうか? 次のような句もあります。 家々や 菜の花いろの 燈をともし 春の日中、菜の花のまぶしい黄色と、葉っぱの瑞々しい緑の対比が目に冴えます。子供たちは緑と黄色の中を駆け回わり、夜になると、家に帰り、お父さん、お母さん、弟と夕食です。家族団らんの明かりが、春の香り豊かな夜にこぼれ出します。就寝のとき、子供の心には、昼間見た鮮やかな菜の花の黄色が蘇ることでしょう。それが、家族の優しい団欒の色と交じり合って快い眠りに導かれるとしたら、これは、やはり、自然と心との対話ではないでしょうか? 最後にもう一句。 菜の花や 月は東に 日は西に これは、困りましたね。この句があまりにも観光地化されてしまったので、もう、何も感じません。でも、この句が有名になる前の原初の時代に戻ってみれば、やはり、大いなる感動が生まれてきます。もしかする、飢饉なんかが当たり前の時代だったかも知れません。この艱難辛苦の人生の中で、無限とも思われる菜の花畑の広がりと、人智をはるかに超えた大自然の厳然として信頼に満ちた天文の運行。不安定な心が、絶対安定の宇宙に対面するとき人は、自ずと「無言」の対話をしているのではないでしょうか? すっかり前置きが長くなってしまいました。申し訳ありません。 御質問の「我々文明人にとって月や星や樹木との対話は可能でしょうか?」の件ですが、可能だと思います。ただ、色々と条件がありそうな気がします。 まず、「月」「星」「樹木」のように自然を切り取って個物化してしまうと、対話は困難ではないかと思います(単なる記号になってしまうので)。あくまで、天と地をなす大自然という全体風景の中に配置された「月」「星」「樹木」であってこそ対話は可能なのではないでしょうか。そして、わが身も書斎の中で思念を巡らせているのではなく、天地の下にさらしてこそ対話が成り立つと思います。というのは、対話は、大自然の風景とわが心像風景の唯一無二の一回性の「今」の出会いによって生じるからです。決して、反復され、記号化され、やがて、観光地化されるようなものではないからです。 また、「対象化ではなくて、未開人のような根源的な自然との関係」についてですが、「対象化」の意味が、私には必ずしも明確ではないので、見当違いな話になってしまうかも知れませんが、私の考える「対象化」とは、以下のようなものです。「対象化」というと、私は「主観」と「客観」の関係を思い出してしまいます。でも、「心」にとって、本当に「主観」と「客観」ということがあるのかどうか、私には疑問なのです。例えば、次の句を詠むとき、秋の滲み入るような青い空は、実は、空が青いのではなく、「心」が青いのです。空は、青の波長を持った電磁波を反射している無色透明の何かに過ぎないからです。また、「鳴っている」のは、「鐘」ではなく、やはり、「心」です。「鐘」は振動しているだけだからです。青空に映える「柿」の橙色も、「柿」が橙色なわけではなく、「心」が、青空に映える橙色なわけです。このことは、私は、驚くべきことだと感じています。 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 そう考えると、大自然の風景は、実は「心」の中の風景です。要するに、「大自然の風景」も「わが心像風景」も、実は同じ一つの心の中の現象に過ぎません。むしろ、だからこそ、「大自然の風景」と「わが心像風景」の間には、無限の対話が可能なのだと思います。従って、心の世界には「対象化」という概念はないと思います。では、どこから、「対象化」という概念が出て来たのかというと、それは、「言語」に起因すると思います。「言語」は「私の心」と「社会」を繋ぐインターフェースです。このインターフェースを成立させるために、「私の心」は「私」という言語モデルを生成する必要があったのではないかと思います。しかし、言語は、世界を区切り、分断された対象を生成することによってしか、存在せきない宿命を担っています。その結果、「私」という言語モデルは、「世界」を「対象化」し、わが心をも「対象化」したのではないかと思うのです。従って、「心の世界」には、元々、対象化ということはないのだと思います。 以上、大変長くなってしまい、申し訳ありません。もしかすると、御質問の主旨から、全く外れた、頓珍漢な回答になっているのではないかと恐れつつ、終わりにさせていただきます。
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- tokytime
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この世の全ての物質はそれぞれ固有の振動数を持っています。 もしかすると、すべての物質の材料は、皆同じ、宇宙に満ちているエネルギーで、振動数の違いによって違った物質に変化するのかもしれません。 つまり、万物に共通のエネルギーが存在し、それが振幅数によって違った物質に変化するのかもしれないという理論です。 最近は、物質の最小の単位は振動するエネルギーである、と専門家も言っているそうなので、あながち全く嘘とも言えないのではないかと思います。 もしそうなら、振動を感じることによって、全てのものとの対話が可能なのではないでしょうか。 同じ人同士の間でも、その感情を、明るい、暗い、楽しい、悲しい、と感じることができます。これも感情の周波数の違いを直感で感じ取っているんだと思います。 それなら、すべての振動するものから何かを感じ取れるはずです。 但し、人間同士と違ってそのものの周波数に自分の周波数のアンテナを合わせなくてはならないと思いますし、勿論、会話と言ったものではなく、心で感じ取るといった形の対話でしょう。 日頃から瞑想や自己の心の内面を探る習慣が必要でしょうし、自然環境に囲まれた生活も必要でしょう。 自分が自然の一部であり、その中で生かされており、又他の生物への貢献もしているという意識も必要でしょう。 アンテナをあわせる為には何といっても、そのものに対する慈しみと愛が必要だと思います。
お礼
熱意のあるアドバイスありがとうございます。 ただ認識される「意識」がある限り、この場合の対話は無理なようです。 ありがとうございました。
- adaypajimy
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擬人化などを施して、人と人が対話するような光景のことを指しているのでしょうか。対話できる価値観を持っている人間もいるでしょう。そうでなくても詩的なファンタジックな価値観を誰でもすこしは持っているのではないでしょうか。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。 自然を擬人化するということ自体、自己の対象として自然を把握することになってしまいますので、この場合は該当しません。 ただ、回答がゼロでなくてよかったです。
補足
価値観を持つということ自体、自然を対象化してしまいますので、この場合には該当しません。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。 仰います通り、独立した主観としての自我も一つの抽象にすぎません。 自然が「それ」であり、「私」が「それ」でないものである限りこの場合の対話は無理なようです。 いつもたいへん工夫された回答を拝見させていただく度に いい対話が出来たなと思います。 またよろしくお願いいたします。
補足
自然を分析した瞬間、それはもう対象化されたということになります。 つまり「私にとって」の自然ということになり、主体と客体の関係になるということです。 あくまでも「自我」とは関連性においてのみ存在するという主張です。