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犬に私の主観をコピー?
私が死ぬまでには、止水明鏡全てをありのままに映しだす心を持つことがあるかもしれぬ、平凡な俗人です。 質問ですが・・・・怒らないでね。 主観ってなんですか? それで・・・私がどう感じているかを申し上げますと。 私の心は、私の体と神経で繋がる脳の中にあるんですよね。 でもこの脳は唯一私の脳と全く同じコピー脳があると(仮定)して、しかも体全体も全く同じコピー人間ができたとしても、「私の記憶・意識(潜在意識含む)」までを完全にコピーさせることができなければ「同じ私」はできないんですよね? 逆にいうならば物理的に完全なコピー人間ができて、且つ、「私の記憶・意識(潜在)」までを完全にコピーさせることができれば「同じ私」ができるんですよね。 ある意味、物理的に少々違っても(例えば犬に私の意識をコピーしても)「同じ私」がそこに乗り移るという事はありえるんですよね。 そんなことがあればの話ですが(SF映画ではありえる様です)。 その先犬の私の意識はどうなるのでしょうか。
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毎度です。道徳と愛って似ていますよね。しかし、道徳は理性に、愛は感情によって求められるもののような気がします。 道徳は「よりよく生きる」為に必要な支配力がある。動物の最も大きい支配力は暴力であったり、本能的な恐怖であるのに対し、人間に適した支配力は「良い方法を模索」する知能ではないかと思います。その為に相手が対等以下であると、努力をした結果であっても妬むことがある。 愛は…ある“美”です。愛は美しい愛しいと感じるもの、美しいものは心地よいのです。概念ではなく感じるものですね。充実感とか感動が起き行動を無理なく起こさせるものは知識よりも支配力があると思います。“感動”は受動的でありながら必ず執行させる支配力がある。 意志は能動的なものであるのに、必ず美しくも心地よくなるとは限らずその支配力は長続きしない場合も多い。 私は生物学も詳しくありませんよ、推測で書くのは良くないかもしれないけれど、犬の社会的種族保存の概念には嫉妬はないと思う。優劣を競うより能力を発揮して全体に奉公するのが道徳だと思っているんじゃないかと。 人間は優劣に拘る。拘りたくなくて(怠けたくても)も拘らなければ与えられる報酬も少なくなってしまうのだから。しかし、優秀で多くのものを手にいれても失う自由も多く責任が圧し掛かるのだから、人間にとって自由に生きるということは簡単なようで難しいものですね。 よって道徳は種族の為、社会的に行おうとする時は自由からの逃避であり、動物は個であっても全体の欠片となるが本人の救いでもある。 人間は特別利己的な部分がある。個人的に(内面から)道徳を.行おうとする時(愛の時)は美しく愛しく自由で生き甲斐のあるもの。 犬が自分の能力範囲ではないのに悩むことが出来たら、自殺も出来るようになるだろう。そんな脳の領域があるならコピー出来るかも?死を道徳以外の理想にする自殺願望の脳の領域までも差し上げたくないけどな。 動物が不道徳感や不条理感で自殺が出来る?・・・toraumaさんはどう思います?(みなさんも) 犬は犬の能力で素晴らしいし、そのままで充分人間の仲間に成り得ているし、よろしいと思うのですが(笑)想像すること、創造することは人間に必要で生き甲斐で、神を信じることも大切な意味があるのでしょうね。
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#4です。 >義務や権利って元々「神の祝福とか聖書とか教会とか」に由来がある神聖なものなんですよね? いえ、義務と権利、ついでに保障と価値、道徳も人間だけの限定商品であって、神や自然は主張してませんし、人間にも一切与えてません。人間が自ら作っているだけですよね。神の祝福も人間が創った由緒ある概念です? >人間の場合、貯えを作りさらに手に余る程の道徳を作り出そうとする。 それだけ人間に想像力があるからですよね。価値観が多様化すると、似て異なるものを排除することが自分だけの道徳であったりもするのですが、自己保存は恐怖の作用で、種族保存の道理が道徳であり正義。
補足
>神の祝福も人間が創った由緒ある概念 へ-え?、へーえ ”由緒ある”概念なんですか? 由緒ある? これは又別の機会にお教え下さい。 >自己保存は恐怖の作用で、種族保存の道理が道徳であり正義 つまり、犬や猫でも道理や道徳があるって考えで宜しいのでしょうか。 つまり本能的”愛”だとか? 愛が概念コピーの本質であって、主観とは愛の顕在・潜在(本能)によって形作られる? だから私の主観を犬にコピー(転写)する事も可能。 という事なんですね。
- anaguma99
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犬の話は身体に意識が制限される可能性があるので省き、 コピー人間について書きます。 意識や記憶も含めた自分の完全なコピー(自分B)を作成するとします。 ここでもとの自分を区別するために自分Aとします。 自分Aは、自分自身がオリジナルだという意識がありますが、 一方で自分Bも、コピー以前の記憶が同じですから同じことを考えます。 しかし、この場合は、自分Aがオリジナルで自分Bはコピーです。 ただ、それは客観的にそういう前提だから そうだと言えるというだけのことです。 自分が寝ている間にデータコピー作業をして、 起きたときには2体いるのだとしたら、 外部からはどちらが本物だとも言えないでしょう。 仮にコピーではなくて「移動」する場合は 複数化しないので問題は簡単かもしれませんが、 「実は移動ではなくてコピーであり 自分Aが自分Bへのコピー直後に死亡している場合」 と区別がつきません。 などと考えると、 コピー後の「現在」からコピー前の「過去」(これを語っている現時点) に向かって考える場合は問題ありませんが、 今これを考えているのはコピー前の自分ですから、 「移動」にせよ「コピー」にせよ、 別の個体に「乗り移る」ことができるとは言えないでしょう。 今考えている自分の意識は一旦断絶して、 別の自分(しかし全く同じ意識と記憶)が生きていくことになると思います。 ただ、外部から見れば同一人物に見えるので、 客観的には何の問題もありません。 あくまでも、世界を見る「唯一無二の」主観としての自己が消滅したのであって、 客観世界において位置づけられた主観(世界に並列に存在する主観の一つ) としての自己は継続していると言ってもいいかもしれません。 余談ですが、この質問を見て、 スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの航星日記』の中の短篇 (隕石がふりそそぐ惑星なのだが、隕石が人にぶつかっても 即座にコピーで置き換えられるシステムがあるので問題ない という概念を提示している)を思い出しました。 また、一昨年に製作された鉄人28号の13話『光る物体』も思い出しました。 永井均の『翔太と猫のインサイトの夏休み』なども関連テーマを扱っていますね。
お礼
回答ありがとうございます。 回答内容では無いのですが、少し疑問を感じた事がありまして、この機会に「補足」しました。 宜しくお願いします。
補足
>客観世界において位置づけられた主観 >(世界に並列に存在する主観の一つ) >としての自己は継続していると言って >もいいかもしれません。 「誰にでも当てはまる基準」道徳律というものについて考えました。 当然カントが独身であった事は(多分)知っています。 「自分と暮らす犬」あるいは「自分と暮らす子供達」の中に自分の主観(コピー)を見出して反省してしまったり、道徳的喪失感というものを得たりすることが有ればですが。 本能的に自己継続性に対して道徳的であることを要求している気がするという意味です。 その結果、身近に(自分が)宿る者が有れば、要求する自分自身も道徳的でなければなりません。 その行いは、子に食べさせる必要もあって理性的(別の意味、破壊的・冷酷的残虐)である程に道徳的だと思います。 (尤も他人や世の中に対しては余計に道徳的で有る事を要求する場合もあるようです。) この意味で、犬や猫でも道徳が有ると感じるんですよね。 ただし人間の場合、貯えを作りさらに手に余る程の道徳を作り出そうとする。 すると「誰にでも当てはまる基準」である道徳律の内容とは、あくまでも連帯間で相関的な別物であって、生活環境を共にしない品種の数だけ多様に有る。 と言えないでしょうか? これは無理な考えなのでしょうか? 皆さんに、お教え願いたく思います。
- hakobulu
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#5です。肝心のことを言い忘れたので急いで付け加えに来ました。 >主観ってなんですか? あなたしか考え付かない、世界に対する認識のことでしょう。 「>止水明鏡全てをありのままに映しだす」の「ありのまま」ということでさえ、人の数だけの「ありのまま」があるはずだということです。
お礼
回答ありがとうございます。 形而下のことであれば、御説のとうりと思います。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
「私のコピー」と「私」は同じではないと思います。 理由は2つあります。 1、【コピーされた】という歴史を捨てることはできないからです。 【原型の私】との決定的な違いです。似たような人にはなりえても全て同じにはなり得ません。 2、百歩譲って、仮に【同じ私】が2人できたとしても、同時に同じ場所で同じ体験をすることができないからです。 つまり『同じ歴史を生きることができないから』です。 環境によって性質は影響を受けますから「全く同じ」状態であり得るのは【コピーされた瞬間】だけです。 (1で述べたように、これすらもすでに同じではないというのが私の考えですが) ☆そういうわけなので、犬に私の意識をコピーしても「”私の意識だったもの”がコピーされた犬」ができるだけで「本来の私」とは何の関係もありません。 「私」のそれまで培ってきた認識をコピーされたわけですから、体型の違うシロ(犬の名前。クロでも可。)としては随分と苦労することでしょう。 「インスタントラーメンを食べたい」と思って食べたとしても(どうやって作るのか?)まずくて胃が受け付けない。 気持ち悪くてとても無理と思うような血の滴る骨付き肉が舌になじんでこの世の絶品。 通り過ぎる人間の女性のスカートを覗けると喜んだのもつかの間、気が付けばメス犬の後を追い回し生殖腺の匂いをしきりに嗅ごうとしている。 (言い忘れていましたがシロは雄犬です。) このような「蓄積された認識」と「現実としての肉体」のギャップに翻弄され、しかし肉体が滅びては元も子も無くなるので人間としての認識は次第に変化し失われて行かざるをえないでしょう。 実際的には寿命が先に来るでしょうから、精神的に耐え切れるかどうかはまた別の論点として残されるのでしょうが・・・。 ところで大事なことは、以上のような葛藤?を「本来の私」は感じることができない、ということです。 「私の意識」がコピーされたとしても、犬にコピーされた段階で、それはすでに「私の意識」ではありません。 「犬にコピーされた、私の意識だったもの」です。 確かに当初は、「私」とよく似た意識はあるでしょう。 どちらも、暖かいご飯と味噌汁を食べたいと思うかもしれません。 しかし、同じことを思ったとしても、『思ったという作業』は2箇所で行われたわけです。 さらに、コピーが完了した次の瞬間から、そこでは明らかに「私」とは違う認識が始まります。 ですから「犬の私の意識」を想像することはできても、「実感すること」は不可能と言えると思います。 すでに「私の意識」ではなく「私の意識だったもの」になってしまっているからです。
お礼
回答ありがとうございます。 物質論的には異議はございません。
>私の心は、私の体と神経で繋がる脳の中にあるんですよね。 明確には違うと思います。記憶の支配している既存の所有のものではなく、受容することしか出来ない世界から心を与えられて感じさせられている。支配の及ばないところの意志を拒むことも出来ない。 科学でも守備範囲を越えて理解出来ないが、制御しよう理解しようとした途端消えてなくなりそうな気もします。人との出会いや恋愛感情とか美しさを感じるのは知覚とか科学でも制御不能(不用)なところから感じさせられていると思っています。 本能に近いが、世界と共に、神経に感じるよう命じたものががただ与えている。心も光のように。 私が私を欲しても、受け入れることしか出来ない。でもそこには限定された心はなくなり、無限に与えられ続ける。それを他者に振舞って価値を見出せると、私は主観も認識するのであり、私は客観の一致(自然の意志に従ったもの)と成り得る。 脳でなくても心臓移植をしたら食べ物の嗜好が変わった人の話は聞いたことがあります。どこをコピーしても多少の可能性があるかもです。アメリカでは負傷した顔面に綺麗な死体の顔面のコピー移植も検討されていますね。そうなると外見上の個性、主体性の違いが大きくなります。 犬は人間より知的に劣るかというとそうでもないかもしれない、人間は創造力があって、義務や権利が多いことを生き甲斐にするけれど、犬にとっての生き甲斐は純粋に信頼関係で、自信がないなら最初から恩義背もやらかさないし、負けたら尻尾を巻いて退散する素直さも動物界の道徳である。自信がないのに出来ないのは努力が足りないせいと言いくるめられる人間を犬に理解させることが出来ると犬に「人間は狂ってる」と言われるかもしれません?
お礼
アドバイスありがとうございます。 >本能に近いが、世界と共に、神経に感じるよう >命じたものががただ与えている。 >心も光のように。 コピー品を貰って犬が理解する「人間の堕落」ですね。 ところで、別の疑問になってしまいますが >人間は創造力があって、義務や権利が多い >ことを生き甲斐にするけれど 義務や権利って元々「神の祝福とか聖書とか教会とか」に由来がある神聖なものなんですよね?
補足
正直に申し上げますと ・・・・・・・・・・・そんな馬鹿な? といったところです。 私はどこか錯乱しているんでしょうか。 はっきり、そう言われてしまえば「最近、忙しくなり過ぎたためかトラブルもあって・・・」と言いたくなる状況です。 皮肉なんですよね。 というか確かに自己喪失気味なのかもしれません。
>主観ってなんですか? 思惟の基点を意味する言葉です。 >それで・・・私がどう感じているかを申し上げますと。 >私の心は、私の体と神経で繋がる脳の中にあるんですよね。 意識を物質として形にしたという意味では、脳や神経系は「受容器」ではあるでしょう。 しかし、生命は機械論的に説明しえないものなのです。なぜなら生命は生きていて 時間の経緯をふくめた存在であるからです。 今の意識・・・といっても、次の瞬間風が吹けば、意識にあったはずのものはどこかに 消えて、足元が寒いということに意識は『飛ぶ』のです。 意識は過去の思惟の記憶と現在の瞬間の感覚の総和のようなもので 今の意識は「留まっていない」それこそつかみどころのない「流体のようなもの」と いえるでしょう。 それと、生命は決して閉じられた系ではなく自分以外の周囲のなかに一定の関係 を構築して存在するものです。 >でもこの脳は唯一私の脳と全く同じコピー脳があると(仮定)して、しかも体全体も >全く同じコピー人間ができたとしても、 これはクローンとかを指しておっしゃっているのでしょう。 >「私の記憶・意識(潜在意識含む)」までを完全にコピーさせることができなければ >「同じ私」はできないんですよね? 記憶はコピーできたとしても、現在の意識をコピーするのは論理的に不可能ですよね。 現在の意識という以上その人が生きている以上映し出した時点ですでにそれは 過去の意識になっています。 それと、意識は身体の環境との対話によって変化するのなら、たとえば、体だけで なく、食ったものも着ているものも、代謝もすべて機械的に同一であったとしても 過去の過ごした歴史までも同一にすることは不可能です。 つまり、50年生きた私とクローンが同じ歴史を持たない限り記憶だけが共通でも 老化や寿命という時間的変化のなかで同一の変容を果たすとはいえないだろうと 推論します。 >逆にいうならば物理的に完全なコピー人間ができて、且つ、「私の記憶・意識(潜在)」 >までを完全にコピーさせることができれば「同じ私」ができるんですよね。 できないでしょう。コピーしたところまでは同じでもコピーした先は予測不能なのです。 というのは簡単な話で、同じ空間の座標軸に二つのことなる存在は同時に重なって 存在しえないわけで、時空を共有しえない限り将来的に同じ経験を完全に共有した とはいえません。 私Aが、週末ピアノリサイタルを聞きにいき、運良くクローン君も同じリサイタルの 隣の席のチケットがとれたとしても、私の聴くショパンとクローンの聴くショパンは 音の波形や反響が少しだけずれて聞えています。 さて、私にはちゃんとカミサンがいますが、クローン君にはカミサンもいません。 私はカミサンとセックスしたり、料理を作ってもらって満足して寝ますが、クローン君に 与えるベッドも食事も私はもちあわせていません。 ですから、おなじ意識を維持するなら私とクローンが同時に同じ環境で同じ行動をしないと いけないわけですが、そういうことはパラレルワールドでもないかぎり不可能です。 >ある意味、物理的に少々違っても(例えば犬に私の意識をコピーしても)「同じ私」 >がそこに乗り移るという事はありえるんですよね。 ありえないです。犬は犬の人生?のなかで意識を育ててきているのです。犬の顔をよく ご覧になってください。彼らは鼻が一番おおきな器官で口と目がそれに続いていて、 要するに食い物を食うことしか頭にないのです。 私の意識が犬に入ったら、それこそ記憶の大半は溢れて消えてしまって、餌くれワンワン しか思い出さないでしょう。そりゃ、一緒に飼っているもう一匹がオシッコをシートからこぼし たら思わず吠えて叱ったりするかもしれませんが >その先犬の私の意識はどうなるのでしょうか。 ワンワン ワンワン クーん ワンワン こんな感じですよね。
お礼
丁寧に御回答下さいましてありがとうございます。 >記憶はコピーできたとしても、現在の意識をコピーするのは論理的に不可能ですよね。 記憶が少しでもコピーでき、嘗ての私の意識がそこに宿るのであればそこに私は在るといえますよね? つまり完全に同一な私が二つ以上在る必要は無いのです。 ですから時間的空間的に限られた条件下でのパラレルワールドは成立すると考えた場合の私の主観とはなんでしょう。 >その先犬の私の意識はどうなるのでしょうか。 ワンワン ワンワン クーん ワンワン【 単なる自己喪失、精神分裂症でも良いのですが、現実的に多重人格者的な生活を私もあなたも容易に送っているいる気がするのです。 それを可能にしているのは、あなたの言われる >意識は過去の思惟の記憶と現在の瞬間の感覚の >総和のようなもので >今の意識は「留まっていない」それこそつかみ >どころのない「流体のようなもの」と >いえるでしょう。 なんですよね。 私が物理的に所有する肉体の水面下受容体の反応が、時と所に応じて別の反応を起こし、且つ水面を覗き込む私自身が対岸にもいる。 私は能力的、経済的の他にも色々な意味で貧しい者なので、すぐに限界状況に当ってしまい、居直りや逃避を繰り返し、しかしながら1つ1つとやりとげてきたはずと考えております。 世俗で生き延びるには「犬か猫になるしかない」と思いつつ、相変わらず不協和音に悩まされてきました。 「普通じゃない」と言われた事度々です。 私事はどうでも良いのですが、自分の主観というものがどうにも良く分からなくなってしまうのです。 自分で自分が解らない。 そういう意味だと思います。 】こんな感じです。
うん、たしかに面白いですね。では、哲学者の言う「思考実験」というやつをやってみましょう。 まず、torauma さんの完全な脳のコピーができたとしましょう。面倒なので、脳生理学が極度に発達し、ゼロから脳を作成できると仮定します。つまり誰かの脳に torauma さんの脳をコピーするのではなく、torauma さんと同じ脳を作ったとします。 さて、これを誰かの体に入れなければならないのですが、ここから問題が生じます。別の体にコピー脳を入れたとたん、二人の経験が違ってしまうのです。同じベッドでも寝心地は違うだろうし、同じ布団でも寒かったり暑かったりするかもしれない。 torauma さんとコピーさんが同時に目覚めたとして、そこから全く同じ行動はとれない(一つのコップで同じ水を飲むこともできない、一つの肉片を二人とも口にすることはできない)。 つまり、コピーを他人の体に入れたとたん、同じ経験ができなくなってしまい、コピーではなくなってしまうのです。 さて、犬の場合ですが、そもそも脳の構造が違うので、コピーができません。大脳も小脳も全く違うので、無理です。torauma さんの脳を犬に移植したくても、神経をつなげられないので、やっぱり無理でしょう。
お礼
御回答ありがとうございます。 絶対無理だ論ですね。 「私は犬じゃない」と主張すれば、それは真実なんですね。
- kobarero
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この質問にエールをお送りします。実は、私も同じ疑問を持つものですから。 >物理的に完全なコピー人間ができて、且つ、「私の記憶・意識(潜在)」までを完全にコピーさせることができれば「同じ私」ができるんですよね。 と、私も思いたいのですが、そうすると、どうしても、矛盾が生じてしまうのです! どういう矛盾かというと、もし、「私」の完全なるコピーが出来たとすると、それは、意識も「私」でなければ、いけないと思うのです。すなわち、「私」にとって、「私」が見える世界しか見えないのではなく、「私のコピー」が見える世界も同時に見える。すなわち、両方から見た世界が同時に二重写しに見えなければいけないはずです。もし、そうでないなら、私のコピーは、私に非常に良く似た他人に過ぎません。一卵性双生児の兄弟みたいなものです。 ところが、もし、「私」にとって、「私」と「私もコピー」の両方から見た世界が同時に二重写しに見えると仮定すると、「私」が東京に、「私のコピー」が大阪にいた場合、大阪にいる「私のコピー」が「私」に大阪の風景を送信する必要があるはずです。でも、生身の肉体にそんな能力はないはずです。従って、この仮定は間違っているのだと思います。 ということで、「物理的に完全なコピー人間」は、結局、良く似た他人に過ぎないのではないかと思います。 >その先犬の私の意識はどうなるのでしょうか。 この場合は、脳は犬のままですか? 脳が犬のままなら、「私の意識」と「機能」がかみ合わなくてメチャクチャになるのではないでしょうか? また、脳みそごとコピーして、犬に植えるつけるのなら、初めはメチャクチャですが、そのうち、4つ足で歩く方法、片足を上げて小便をする方法、箸を使わずに食事する方法などを徐々に学習すのではないかと思います。ただ、この場合、自分の脳の「コピー」を移植したとすると、その犬は、私にとって他人(他犬)であって、犬の目から世界を見ることはできないと思います(上述の理由で)。でも、もし、自分の脳みそ自体を勇気を持って犬に移植したなら、犬の目を通してこの世界が見えようになると思います。
お礼
御親切な回答を戴きましてありがとうございます。 >この質問にエールをお送りします 最初に申し上げてしまいますが、 私の主観は、宇宙史上空前絶後唯我独尊な存在なんです。 というのが私の本音なんです。 でも本当はそうじゃないかもしれないという疑問も少しはあります。 少しだけ・・・ >一卵性双生児の兄弟みたいなものです >結局、良く似た他人に過ぎないのではないか 納得そのはず、なぜなら認識機能が別の物理体であれば認識水面(各種センサー内臓)も別なので、別の私ですね。 客観的に二人の私の主観があっても困るのは、お役所であって、あくまでも戸籍・住民票上の問題だから、私は全然困らないです・・・・よね? >脳は犬のままですか 私の認識能力はコップの中の水面程度の大きさ程度 となる時代が来るかもしれない、そういう時代になれば犬の脳みそも少し改良するだけで、私の意識をコピーできちゃうかもしれません。 ところでワンちゃんなんですが 1)できるだけ私心を捨てて物を聞き、見る様に心がけました。 2)世俗にあって自分は飼い犬達の仲間である事は理解しましたが、身の置き所が窮屈になって犬小屋を飛び出しました。 3)さて嬉しいノラ犬になりました。 こうなると自力で食い扶持を稼ぎだすのに懸命です。 4)悪知恵はどの環境下でも強いです。 私の心は外乱を嫌い閉塞しがちになりました。 5)私心をできるだけ捨てようと勤めた結果、「利用され易い」人生を歩んだだけ となった様です。 最近は、そのワンちゃんの身の上が心配です。
お礼
・・・・・品位とは、絶望と再起、あるいは状況を覆い隠すこと(幻想)なんですよね。 絶対的挫折を見るとき、我々は思惟の非独立性と妄想に陥る欠点を見落とすという意見に私は同意します。 ある種の充実感や希望が空虚なものとなる訳です。 というのも私の場合ですが、「差別的レッテル」を貼られた排除項3項の者となった時代の記憶がよみがえるからです。 孤独というものから「動物に対する人間の優位」を感じる事は私についてはなかった様な気がします。 私は品位を保つ程の尊厳も信念も持ち合わせてはいなかった。 レッテルを貼られて標的とされた時代の記憶と報復意志がよみがえるのです。 従って、報復-道徳(理性的)-破滅という一種の美学的必要を感じた事はあるものの、ここに正当性を見つけることもできず、破滅という名前の先にある種の”あきらめ”を見出したのです。 その結果として己自身を知る必要に迫られる事になりました。 その後は、つまり己自身を成立させている本来的交わりを完全に否定した、ヤンチャ学生達の「屈服か絶滅」遊びからの逃避です。彼らの多くは「多様であるという現実を否定しながら、一意の優劣判定に属する事を良しとする」古い道徳観念に従う事を正義にしていたといっても良いでしょう。 >動物(である私)が不道徳感や不条理感で自殺が出来る? 上記が私の回答になります。 つまり私は(おそらく、あなたの言う) >人間は特別利己的な部分がある。個人的に >(内面から)道徳を.行おうとする時(愛の時) >は美しく愛しく自由で生き甲斐のあるもの。 という連帯について、その後は常に否定的・懐疑的な者となったのです。 自殺という表現が特別に何を意味するのかわかりません。 あくまでも個別の理由の事と解する訳です。 一方で犬・猫はもちろん動物達は消えていなくなるのみです。 以上まで、お礼を申し上げます。
補足
No1.様~No.9様まで、皆様、御回答をいただきました事、改めてお礼を申し上げます。 上手くリードして戴いた様な気がします。 皆様の御発展をお祈り致します。