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権利を主張するには義務を果たすことが必要な件

「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」といわれます。 この理由がわかりません。 権利だけ主張していたら社会が壊れることはわかりますが、そこに「義務」が必要とされることがよくわかりません。 また、「権利」にたいして「義務」という言葉は不明確な気がして、そのこともわからない原因のようなきがしています...

みんなの回答

noname#17334
noname#17334
回答No.26

>「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」といわれます。 >この理由がわかりません。 簡単なことです。ギブアンドテイクでこの世は成り立っているということです。 人と人が暮らしていくなかで、お互い約束は守られるべきですよね。 約束とは、難しく言うと契約ということです。 契約には、双方が約束を果たす必要がある「双務契約」と一方だけが 約束を果たす義務を負う「片務契約」とがありますが、世の中の約束ごとの 大半は双務契約なのです。 というのは、Aさんが一方的に、Bさんから、何かをしてもらえる権利があると したら、Bさんは、Aさんに「何か」をしてあげないといけない「義務」を負っている ことになります。 Bさんにしてみれば、義務だけ負っているというのはふに落ちない話で、昔の 奴隷や農民でもないかぎり搾取されるだけの人生に納得いかないという話に なります。 実は多くの場合、その義務の背景には「権利」が代価として隠れています。 たとえば、地頭に年貢をおさめる義務を負った農民には、地頭に農地の安全を 確保してもらえる権利を保障されていたりします。 奴隷でも、食事や睡眠を得る権利は持っていました。 たとえば、コンビニでガリガリくんを買う行為も双務契約なのです。 質問者さまが、ガリガリくんを所有する権利を得る一方で、代価の 50円(消費税込み55円)をコンビニに支払う義務が生じます。 一方、コンビニはガリガリ君を、一本、お客に引き渡す義務に対して 55円というお金を受ける権利を得るのです。 子供は、親に養育してもらう権利を有しています。親は子供を成人するまで 養育する義務を負っています。これは民法の約束ごとで、親子の間でみたら 片務契約のようですが、実際は国との契約なのです。なぜなら親が教育の 義務を果たさないと国が代替しなくてはいけないからです。 >権利だけ主張していたら社会が壊れることはわかりますが、 >そこに「義務」が必要とされることがよくわかりません。 権利を主張したらその分だけ「受け手」に義務が生じているわけです。 子どもは、教育を受ける権利があります。でも主張されたら誰かがそれを 受けて義務を果たさないといけません。誰もが義務を回避したら、結局 権利は宙に浮いたまま実行不可能になるということです。 >また、「権利」にたいして「義務」という言葉は不明確な気がして、 >そのこともわからない原因のようなきがしています... 権利といえば、選挙権とか、知る権利とかそういう社会に対しての権利のみ が頭に浮かびがちですが、他人から何か便益を得る行為はすべて権利に 基づくもので、その多くは契約・・・つまりあらかじめ定められた約束によって 果たされているといえましょう。 私が給料をもらう権利は、実は雇用契約に基づくもので、一定の内容の 労働の義務を遂行した結果として賃金をうけとる『権利』が生じます。 逆にいうと会社は、働いたものに賃金をはらう義務があるわけです。 権利にはかならず、背景があります。うまれつき備わっている権利たとえば 「相続権」とかは確かにありますが、その権利でさえも遺言によって変更が 加えられたりもします。 また権利というものの多くは,何らかの対価を払って獲得したものであったり します。対価を支払うこと自体が「義務」を果たしたことなのですがあまりに 昔のことで、すっかり忘れてしまっていたりします。 また権利というものは、他の人間との協調のなかで行使されるケースが 多く、その場合、権利行使のうえでまもるべき義務というものが発生します。 ゴルフ会員権と会員規約のようなものがそれにあたります。 いずれにしろ、権利とは人間が社会生活をするうえで、相互に認めた約束の上 に成り立つものです。その約束が無視されたら、つまり受け手が義務を怠ったら 権利は行使不能になります。 この世には権利の数だけ義務があるのです。ですからおそらく誰しも なんらかの義務を担っているはずです。

herbie3
質問者

補足

おっしゃるとおりです。 でも、やっぱりわかりません。 テイクしかできない人についてどう説明しますか。 例として、生まれつき寝たきりの人をあげます。 そういう人は、例外として「義務」を親や国が引き受けていると考えられそうです。 そうすると、その人自身は義務を何もはたしていないように思えます。 でも、どうしてもその人自身何らかの義務を果たしているように思うんですが…(あきらめて何も義務をはたしていないと認めるべきでしょうか?) では、どんな義務か。 まず「生きる」ことが考えられます。 でも、「生きる」のは自発的なのに、義務かなー?とも思ってしまいます。(以前の回答にあるように義務かもしれません) >この世には権利の数だけ義務があるのです。ですからおそらく誰しもなんらかの義務を担っているはずです。 とすると、テイクしかできない人も何らかの「義務」を担っているのかな?とも考えれそうです。それとも、例外として義務を持たないのでしょうか。 または、贈与契約や委任契約と同じように、道徳を持ち込んで説明しるしかないのでしょうか。 ギブできる人と同列に考えようとしているのが、そもそも無理なような気もしてきています…

回答No.25

No.6です。 Bッシュ大統領やカントも登場して、すごいことになってますねぇ・・・ でも私はやっぱり、「義務と権利」という考え方の出どころを考えたほうが、わかりやすいんじゃないかと・・・ 前回の回答で「権利=エサ」「義務=エサをとる行動」と述べましたが、人間とその他の動物の決定的な違いは、「エサ=権利を保存する手段を知っているかどうか」だと、私は考えています。 肉食獣がおなか一杯になると狩りをしないのは、保存手段を知らないからなんじゃないでしょうか。 冬眠前の熊だって、自分の体に脂肪をつける程度の保存方法しか知らないですよね。 でも人間は「貨幣」と「流通」という手段によって、「半永久的に保存できる手段」を見つけてしまった。 そうなると、何が起こるか? 「余剰」がでてくる。自分で消費しきれないだけの「エサ」を持つ者が現れる。 その「余剰」はどう扱われるかと言えば、「権力・名声・名誉・自己満足というエサ」を得るために、「義務を果たしたくても果たせない人(質問者さんの言う一生寝たきりの人)」たちに分配される。 ここで「寝たきりの人たち(その家族や周囲の人を含む)」にとっては、もらったエサは「権利」であり、それをくれた人に対して「賞賛・感謝・満足感」という義務を支払っていることになる。 結局のところ、「権力構造と社会福祉の生い立ち」みたいになっちゃいましたが、根本はこんなところでしょう。 これが現代社会にいたる過程の中で、「国家たるもの・・・」や「道徳観とは・・・」みたいな考え方にもまれて、叩かれて、踏んづけられて、「国家が運営する社会保障制度」になっただけなんじゃないかな。 厭世的な考え方かもしれませんが、「道徳は権力を正当化するための道具」とも考えられます。 「余ったエサで人の心を買う」のと「余ったエサを恵まれない人に分け与える」というのは、現象面だけ見れば同じこと。 対価としての「権力・名声・名誉・自己満足」を、あからさまに要求するかしないか、だけ。 そう考えると、「寝たきりの人」などは、権力者が自分の立場を守るための材料としての役割を果たすことで、立派に「義務」を果たしていると言えるんじゃないでしょうか。 質問者さんの言う「道徳を出来るだけ排除したい」の部分を念頭において考えたら、こんな殺伐とした世界観になってしまいました・・・

herbie3
質問者

お礼

あれー。 とすると、今の状況と合っている気がしますね。 論理が間違っている(すみません汗)としても、前提があっているということでしょうか(私の論理が変かもしれませんが…)。 再考の余地ありそうです。 ありがとうございました。

herbie3
質問者

補足

こんにちは。 そうでしょうか…大汗 「余剰」があって「半永久的に保存できる手段」があるのなら、来年のために保存しておくのではないでしょうか。 現代とはちがって、来年に飢饉来るかもしれない状況でだと、「余剰」はなるべく保存するとおもいます。 また、「義務を果たしたくても果たせない人」に分配するよりも「義務を果たせる人」に分配したほうが、「権力・名声・名誉・自己満足というエサ」にプラスして「みかえり」が期待できます。 したがって、、「義務を果たしたくても果たせない人」に分配すると物的には損をするし、名声も得られない(そもそも、寝たきりのひとは社会と接点が少ないし、精神障害の人は名声がなにかわかりません)ので、極力この人たちへの分配をなくす方向に行くと思います。 そうすると、「寝たきりの人」にとっては、もらったエサは「おなさけ」であって、それをくれた人に対して「負い目」という義務を払っていることになります。 もっと殺伐とした状況になってしまいました…涙

回答No.24

あんのぉう~… 『「死ぬ」ことも自己実現であると考えれます』 死んで自己の何を実現するんでしょうか? 変な飛び入りでスンマセン…

herbie3
質問者

補足

こんにちは。 死にたい人は、現世で何らかの精神的または肉体的苦痛をを受けている人が多いと思います。 そして、死ぬことで苦痛から開放されることを願っていると思います。 したがって、死んで苦痛からの開放を実現すると考えます。 でも、何となく死にたい人もいます。 つまらなさ(むなしさ)から開放されたいかもしれません。 死ぬことで「開放」されることではないでしょうか。 とわかったように回答してみる…

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.23

アメリカがそうですよね。 <自分の自由を国に主張するのなら、国を守るために戦争に参加しろ。 国が無くなってしまえば、権利もへったくれもないだろう。> ということじゃないかと。 もし個人の平和と自由を国に求めないのであれば、国を守る義務も生じない?

herbie3
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 そうでしょうか…汗 いまは徴兵制もなくなったのでもう少し寛容ではないでしょか。 Bッシュ大統領をはじめ、きぐるみさんのおっしゃるように思っている人もたくさんいるかもしれませんね。 >もし個人の平和と自由を国に求めないのであれば、国を守る義務も生じない? 第二次世界大戦までの日本は、個人の自由と平和は天皇陛下がくれるものなので、国に求めないのでは。 しかし、国を守る義務はありました。 徴兵制があったので。(大ウソかもしれません)

noname#31063
noname#31063
回答No.22

義務の本質=強制的な道徳的命令。目的の承認。英語でduty(税金?)カントの道徳法則より。 義務と権利は「従属関係の資格」参加するかしないかですが、一人格としての価値は『かけがえのない』個性とか魅力だから、主観的な要求としてする義務ならそれは優しさとか魅力なのでは? 一生働けない人、労働の義務を免除された人でも魅力を感じたり、誰かのかけがえのない存在であるなら生きることは十分に必然の価値があります。義務以上に歓迎される権利を得ていると言えます。 ヘレンケラーは障害者でしたが、主体性はそこいらの現役老人(苦笑)以上にあって、奇跡の人と呼ばれるぐらい豊かな感性魅力があって、逆に小さな義務を果たして程々の満足を得ようとする私の感性の乏しさが劣等感になります(泣笑)。 私的哲学では、気持ちや言葉や涙を贈られることは価値があるからで、死んでしまっても魅力は消えずまだ後世の役に立ってしまうから、生と死は同等。 であっても、イキイキと生きることと、理想的な人生は同等ではないのではないのだと勝手に思っていますが。 でも魅力がないと自分で決めてかかって義務を果たすことも無意味に感じる、そんな感性に閉じ込められてしまったら?扱いばかりされていたら?…それは死以上に孤独な状態ということになるかなぁ。 herbie3さんの疑問は義務を拒んでの疑問ではなく、存在するだけで義務を果たしていけるか、捧げることが出来ているかとの疑問ですよね。 私の答えは『It's OK.存在するだけで義務の果たし以上の実力能力が人間にはあるし、義務以上のものがあるんだから労働の如何に問わず義務も当然果たしておる』甘い考えと言われそうですが。 herbie3さんもお礼の義務以上に立派に補足されていて考え直しを幾度となく…ありがとうございます(笑)。こちらも上手く伝えたいと思うのですが、義務感からではないですね。人柄に釣られたからとしておきます(笑)

herbie3
質問者

補足

ありがとうございます。 カント読んだことありません…大汗 この質問も古典で大方考えつくされているような気がします... 強制的な道徳的命令。#3の答えと大方同じようですかね。 だんだん納得してきました。 やっぱり道徳が入ってくるのでしょうか? 道徳といえばなんでも解決してしまう気がするので、そこで思考がとまってしまいます…なので極力排除排除したいです。

  • hakobulu
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回答No.21

#20です。補足をありがとうございます。 何度もお邪魔してすみません。 「>理由はねむくなってたからです」という清々しい本音を久しぶりに聞いて爽快な気分です。 「>…汗」をかく必要は全くありません。 お礼の内容などを拝見しても”真実探求のためには手綱を緩めることは潔しとしない”という姿勢が窺えて個人的に共感しています。(その姿勢に対してだけですが) さて、「>もっと想像すると「死ぬ」ことも自己実現であると考えれます。」 というご意見は尤もだと思います。 確かに尊厳死は「自らの意志によるもの」であるかのように見えます。 しかし、ここに重大な見落としがあると私は思います。 「尊厳」とは何か、ということです。 「寝たきりであること」によって失われる尊厳とは、あくまで他者の都合に過ぎないのではないでしょうか。 「>死ぬことを願っている人」は、そういった他者の都合による「尊厳」の概念に押しつぶされているのではないかと推測します。 たとえ本人が自分の意志でその選択を希望したとしても、その理由が「肉体的に耐え難い痛み」に依るものでなければ、「社会通念によって洗脳されてしまっている」可能性を見落とすべきではないと私は思います。 やはり、「生きること、それ自体」が必要で、しかも十分な条件であろうと確信しています。 周囲の人間は、その「気持ちに寄り添う」という単純な、自分が愛する者に対しては至極当然のこととして発揮するであろう優しさを何故出し惜しみするのか。 いくら「尊厳」といっても、他の生命を平気で犠牲にしなければただ生きることさえ不可能な人間に、どれほど声高にそれを主是とする権利があるのか、という点は大いに考慮されるべき課題と言ってよいでしょう。 少なくとも、独力で動けない人に対してあやふやな「尊厳」という価値観で対応したりするのは許されることではないように思うのです。 確かに、本人が尊厳を保てないと思い込んでいる場合もあるかもしれません。 前回も似たような内容のことを書いたと思いますが、その場合は、その「勘違い」を正してあげることによって働きかけた本人も明らかな成長が見込めるはずです。 なぜなら、両者共に「人間の可能性」という枠を大きく広げた領域に生きる結果となるからです。

herbie3
質問者

補足

じつは、お酒を飲んだので本当に眠たかったんです…汗 >(その姿勢に対してだけですが)…大汗 さて、尊厳死は私の認識が間違っていました。おっしゃる通りだと思います。 自己実現という捉え方についても納得できました。 反論を考えてみましたが、生きる理由を考える必要があるのであきらめました。 そこを突破する必要がありそうですね。 参考にさせていただきます。 どうもありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.20

#13です。ご返事ありがとうございました。 言いたいことがうまく伝えられなかったようなので、再度おじゃまします。 「>私は、残念ですがそのような人もいると思います。」 :私もそう思います。おっしゃるように大勢いるでしょう。私自身も権利だけ主張できればいいのに、と思うことさえ無いとは言えません。 しかし、前回「>何もしないで権利だけ主張したいと心底から考える人間はいません。」と述べたのは、人間の属性として申し上げました。 「権利のみを主張して義務を果たさず」というのは一見楽なように見えるが、人間の本質からいうと決して幸せな状態とは言えないということです。 現実的に考察して見るとおわかりのはずです。 思いのままの状況を享受している人間が、いかに不毛な精神の持ち主で、人間性とは程遠い偽物の人生をそれと気付かず送っているかという事が。 法律とか道徳などはどうでもいいのです。 我々は人間という知性を持った生命体です。 現世的約束事に目を眩まされるあまり、その本質的可能性を見失うような結論に至ることだけは避けなければならないということです。 確かに甘い考えと言えるかもしれません。 しかし、たとえ方法論が確立していないとしても、甘いからといって真実でないということはないのです。

herbie3
質問者

補足

すみません! #13の回答を半分までよんで、固定観念に引っ張られてしまいました。理由はねむくなってたからです…汗 寝たきりの人を考えたときに、「生きること」が自己実現であるとされています。 でも、そうでしょうか。 死ぬことを願っている人もいます。 尊厳死を考えればわかると思います。 生まれつきの人も、尊厳死を願っている人がいないとはいえません(妄想かもしれません...)。 体が動かないので自分で死ぬこともできません。 想像したときに「生きる」ことが自己実現であるとされていますが、もっと想像すると「死ぬ」ことも自己実現であると考えれます。 そうだとすると、寝たきりの人は「生きる」ことで義務を果たしていないことになります。 批判ばかりですみません。構築中ですがわかりません…

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.19

もし、ある社会で、「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」という言説が流通しないとすれば、その社会は存在不能だからだと思います。逆に言うと、「権利を主張するためには義務を果たさなければならない」という言説が流通するような社会にいるからこそ、我々が生きているこの社会が存在しているのだと思います。その論理は、以下の通りです。 (1)「私」が求めるのは、人に支配されることではなく、自分がやりたいことを自由にやることである。 (2)ところで、「私」が自由にやりたいことは、山奥で一人で住むことではなく、「社会」の中で自由にやることである。 (3)従って、「私」は「社会」の持つ様々な機能に依存せずに、自分のやりたいことを自由にやることはできない。 (4)ところが、その「社会」は「私」のような「個人」の集まりであり、その「社会」が持つ様々な機能というのは、実は「私」のような「個人」が生み出している。 (5)「私」は、できることなら「社会」が持つ機能を一方的に享受し、自分では提供しないのが理想的だ。 (6)しかし、もし、全ての個人が「私」のように考えたら、「社会」は何も提供しなくなり、「社会」としての存在意義を失い、崩壊する。 (7)ところが、現実の「社会」は崩壊せず、存続している。 (8)と言うことは、現実の「社会」自体が、その社会に属する個人に対し、「社会」が提供する機能を「享受」するだけではなく、「提供」することをも強制する機能が内臓されているためと考えられる。この強制する機能は、具体的には、法律、社会慣習、文化、教育などを通して実現される。 ここで、「社会」が提供する機能を「享受」する可能性のことを「権利」、「社会」に機能を提供する強制力のことを「義務」と考えることができます。

herbie3
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 (7)までは納得です。 でも(7)→(8)には飛躍があると思います。 「提供することをも『強制』する機能が内蔵されている」とありますが『強制』だけなのでしょうか。たとえば『自発』(いいことばが見つかりません…)でもいいのではないでしょうか。 例として、新潟地震におけるボランティアを考えてみました。強制力はないので、「義務」はありません。「権利」も期待していません。 社会全体で見るとkobareroさんに同意しますが、ボランティアは例外にしてひとくくりにしてしまうのは、納得できません…

noname#15238
noname#15238
回答No.18

お~頑張っていますね。 適当な回答で、紹介した本を読んでいただけるのか、心配になり、老婆心から、再度難しい問題に挑戦してみます。 権利と義務の関係を「交換」と言う比喩を使って説明しましたが、「権利=義務」の等式で把握してしまうと、誤解します。 交換それ自体が等式ではなく不等式に当ります。 権利と義務は発生からして違います、権利は生まれながらに人間が持っているものですが、義務はその人の『能力』に合わせて生じる物です。大昔にルソーが自然の不平等と社会の不平等を分けて考えたように、人間の『能力』の不平等は現実として存在しています。この二つの不平等を混同すると、権利=義務の等式的把握に繋がってしまうのではないでしょうか。 (*この回答は一文字たりとも、法学・社会学・経済学とは無縁です) それと、人工妊娠中絶とか「まだ生まれていない人」の権利義務に関して考えてみるのも役に立つでしょう。 また、あなたがなぜ質問して、私がなぜ答えるのか、この事自体を考えても面白いでしょう。 ご紹介した本は、無知な私では有りますが、その中でも屈指の名著(5本の指に入るぐらい)です。是非読んでください。 問題は『能力』だと思います。

herbie3
質問者

補足

こんにちは。 本は5000円ですぐに買うのはちょっとなので、図書館に行ってまずは探すつもりです。今日はいけませんでした…汗 たしかに、No15さんへの補足を書いていて、権利と義務を「=」で結ぼうとして、あれっと思いました。 問題は『能力』ですか!読んでみます。 ありがとうございました。

  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.17

 責任のない自由はない、と同じような意味では。  参政権には政治的な責任が伴い、よりよい社会を作る義務がありますよね。遵法の義務を欠けば、基本的人権の範疇にある様々な自由が束縛される刑を受けます。  報酬に対する対価に該当する場合もありますよね。納税・勤労の義務を皆が果たしているから福祉や公共投資ができるわけです。義務に無関心でその報酬だけをうけるのは、やっぱりまずいでしょう。寝たきりとかでも過去に義務を果たしていたとか、義務を果たしている方々への感謝とかが必要なのだと思います。

herbie3
質問者

補足

そうでしょうか。 義務が強制されていれば、権利を受けることができます。そこに感謝(=道徳)を持ち込む必要はないと思います。たとえば、若いときに払った税金をを国が貯金しておいてくれます。そして、老後に国が返してくれるとします。その場合に、自分に感謝する必要はないとおもいます。したがって、かならずしも権利を得るのに義務を果たしている人への感謝は必要ないと思います。 でも、払った税金より多くお金が返ってきているような気がします。とすると、ますます大企業とお金持ちに感謝しないといけない気がしてきます…汗

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