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中国史用語の日本での読み方が一貫しない理由は?
中国史を勉強していて、用語、固有名詞の読み方に一貫性がないことが気になって仕方ありません。 1.原則は漢音読みですね: 唐、景徳鎮、王安石 2.近世以降は現地読みも見られる: 明、清、上海、 (中には混合らしきのも: 揚子江) 1と2のどちらの方式に依るかはどのように決められたのでしょうか? ここまではまだ良いとして、問題は、どちらでもない(と思われる)読み方で、 3.北京(ペキン)、六朝(リク)、 五経(キョウ)、礼記(ライ)、文選(モン)、 資治通鑑(ツガン) など、唐音読みや、理由不明の読み方が山ほどあります。 これらはどんな経緯でこのように読むようになったのでしょうか? 日本に伝わってきたときに「誰かがたまたまそう読んで広まった」だけでしょうか? 何か原則があるのでしょうか? また、隋の煬帝は日本ではヨウダイと読みますが、ある書物(サイトだったかも)に「この皇帝は悪政を重ねたので、悪い意味を持つ『煬』の字を諡号として採り、他の皇帝と区別して帝を『ダイ』と呼んだ」とありました。 『煬』はともかく、『帝』の読みを他の皇帝とは変えたというのは本当でしょうか? 知り合いの中国人知識人に質問したところ、「中国語では煬帝も他の帝も同じ発音(di4)」とのこと。とすると、日本だけでの勝手な区別かも知れません... これら、「中国史用語の日本での読み方」について詳しく知りたいので、参考書籍かサイトをご教示いただければ幸いです。
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- yenzifei
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こんにちは。 解釈は長いので先に結論を書きます。 1.江戸期以降日本固有の慣習だと聞きました(現代の学界でもこれを承継。逆に慣習化した読み方をしないと、モグリのような印象を与える)。 2.呉音・唐音で伝わるモノもあり、それが日本人の耳に聞こえた音で表記されるようになった。 3.法則ということで強いて挙げれば、仏教用語は漢音読みしない。ただ江戸時代の日本は仏教用語も溢れており、その勢いで「五経」を「ケイ」ではなく「キョウ」と読んだ。 正確な資料によったわけではありませんが、だいたいこんな感じではないかと思います。 私の解釈: これについて書かれた書籍は、ちょっと管見の限りでは見当たりませんが、たいてい教授から「これはこう読むんだよ」といって教わりますね。 法則はほとんどないようです。 江戸時代に多くの漢籍が輸入されて以来、江戸期の日本人が発音し始めたのが慣習化したのではないでしょうか。 当時の日本は儒教国家でした。 儒教よりの史書(正史など)では煬帝を古の桀・紂と並んで悪政を行った皇帝として書かれています。 つまり日本でも煬帝=悪者というのがそのまま鵜呑みにされ、それで他の皇帝と区別してそういう言い方をするようになったと聞きます(本当は運河の開鑿など後世に有益な事業を行っているのに)。 五経の類いも日本固有の慣習で読まれます。 以前も他の質問で答えましたが、強いて法則を挙げるとしたら、仏教用語との区別でしょうか。 五経も慣習で「ごキョウ」と読まれますが、基本的に「経」を「キョウ」という風に読むと、これは仏教用語の「お経」「経典」になります。 また、漢音でなく呉音で入ってきた読み方もあるみたいなので、その辺りを研究してみると面白いかもしれませんね。 近代に近づくに連れて原音読みが用いられるのは別に不思議ではありません。 現代に近いから原音の発音がわかるというだけでしょう。 古代中国(秦漢など)の原音などは、日本が中国と正式に付き合うようになるよりも数百年も前のことですし、たとえその当時(隋唐など)の中国語の発音が日本に伝わり認識されていたとしても、中国の原音が正確に現代に伝わるのは難しいと思います。 中国は多くの方言を有し、また近隣の諸民族の征服によってその民族の言葉が流入もしくは定着したりして、現代にいたるまでかなり激しい変遷を辿ってきたと思いますので、ますます難しいですね。 説明にまとまりがなく繁雑ですみません。 以上は私の考えですが、以下のサイトでは専門家が説明されてますね。その他、googleで「中国史 漢音 呉音 唐音」と入れればいろいろ出てきますよ。
お礼
お礼が大変遅くなりました。やはり、これといった決まりはないわけですね。 >江戸時代に多くの漢籍が輸入されて以来、江戸期の日本人が発音し始めたのが慣習化したのではないでしょうか。 特定の学者が発音し始めて、それが広まったと言うことは、当時から「権威」が存在したと言うことになるのでしょうか? そうでなければ、色々な読みが存在しているはずですので。 元々、外国語を日本式に読もうとするから、このような問題が発生するのであって、現地読みに徹すればことは簡単なハズですが、当時(江戸時代)は文献だけが伝わってくるのが殆どだったので、やむを得ないのでしょうね... 西洋諸国間でも似たような事情はありますね。