• 締切済み

天皇について

私は実際に繋がっているかは関係なく、100代以上無理やりでも一応男系男子で続けてきたということをすごいと思っています。 でも、なぜこんなに長く続いてきたのかがわかりません。 その時一番強い人が今の血筋の天皇に代わって天皇にならなかったのはなぜでしょうか? 天皇を殺すより利用した方が良かったからという理由を聞いたことがあります。これは、統一するまでなら分かるのですが、統一した後は(他に有力な敵が居なくなれば)天皇の利用価値も無くなっていくように思います。というか、邪魔なだけの存在な気がしますが、どうなんでしょう? 中国とかでは、ある程度利用しといて、価値が無くなれば禅譲を迫るというようなことがあったように思うのですが。 それに、禅譲の様な平和的(?)な政権交代でなくてもさっさと殺して別の血筋の王朝を築こうと思う人がいてもおかしくない様に思います。 天皇はなぜこんなに長い間続いたのか教えてください。

みんなの回答

回答No.14

天皇をめぐる誤解や短慮の多くは、 近代的な価値観で天皇を説明しようとする為に生じています。 そんな理屈では、天皇の謎は解けません。 古事記をどう解釈するか、特に、神話時代の伝承についてどう解釈するか、 戦前は、これを天皇の神格化に利用し、戦後は、絵空事として無視してきました。 縄文時代について学べば、学ぶほど、「縄文の心と魂」は、 古事記の物語の中に、 そして天皇の御心の中に、 脈々と活き続けていると思えてきます。 天皇は、縄文と弥生の結び目に位置する存在。 そう考えながら、古事記を読み解くと、新しい解釈ができます。 奈良盆地における縄文時代の末期に、開拓者として入り、 周囲の縄文人達と協力関係を築きながら、 水田稲作を広めた中心人物が、初代天皇とされる神武天皇だったのでは。 縄文の心と魂を、水田稲作の技術や文化に融合させることに成功したからこそ、 水田稲作の適地にも非適地にも影響力を広げていけたものと推察します。 縄文と弥生の結び目に位置するからこそ、 天皇は、古代から広範な部族に支持を広げることが可能だったに違いなく、 現代においても、国民統合の象徴に最も相応しいと考えます。 だから天皇は、一見、庶民から最も遠そうな存在でありながらも、 逆に、庶民の心に最も近く、 庶民の心の奥底にも鎮座している「縄文の心と魂」に寄り添っていらっしゃる。 東日本大震災の被災者を見舞うお姿にも見られるように、 誰よりも、庶民の心に寄り添う事がおできになる。 大抵の時代、天皇は、このような存在であり続けたから、 その時々の権力者とは別格であり続けたのでしょう。 もし、天皇を追放しようとするものなら、 まわりじゅうを敵にしてしまったでしょう。 <参考URL> 縄文の心と魂 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page047.html 古事記の解釈・編纂方針と背景 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page048.html 古事記の解釈・神代 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page049.html

  • Gantz10
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回答No.13

 ちょっと間が空きましたが、続き。No.6 の是正です。 3.平将門について  新皇という語が「天皇に類するもの」なんて主張は、トンデモでしかありません。文字通り、新しい天皇という意味です。そもそも将門が「皇」を称する根拠が、天皇の五世の孫だという点なのですから、そのそもそもの権威がアマテラスに由来しているのは天皇と同じです。  当然、天皇を排除しようという意図もありません。そんな意図があったら、自分の政権の正統性まで失うのですから。 4.信長について  この人は、位の意味が分かっていないようです。天皇に会うには位が必要で、最終的に天皇をどうこうするにせよ、それまでの段階で会う権利を失う方がデメリットが大きいという判断を信長ならするでしょう。  つまり、位を持っているということが天皇を超えようとしたことの反証にはならないということです。むろん、天皇を超えようとしたことの証拠にもならず、いわばどうでもいいことです。  ちなみに、信長の行為として、自身を神としたというものがあります。ルイス・フロイスの日本史にかなりのページを割かれて記載されている話です。神宮を作り、参詣したら得られる現世的なご利益をいろいろ並べていたりしますし、自分の誕生日を聖日として民に祝えとも言っています。  フロイスの日本理解として、信長が擬した「神」がキリスト教の神ではなく日本神道の神であることの分別は付けられていますが、この点が実は重要です。  天皇がなぜ権威があるかというと、日本神道の総元締めたるアマテラスが勅を下したという歴史があるからです。アマテラスにどう対抗する気だったのかは謎ですが、信長は、はっきりと対抗する土俵には自らを立たせていたわけです。 ● シナについての補足  相手が嫌がるかどうかなど、これもはっきり言って歴史を語るのにはどうでもいい話です。ましてや、その「嫌」が差別に基づくものであれば、尚更ですね。  何が大事なのか、優先順を理解できていないようです。 ● 島流しについての補足  あいまいな「例」という具体性の無い話を除くと、結局、自分の感情でしかこの人は語れていませんね。信長の時代の感覚とすらずれているこの人の感情が、平安期の貴族の感情とマッチするという保証がいったいどこにあると思っているのでしょう。  語るに落ちたようです。

  • tensukan
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回答No.12

>禅譲の様な平和的(?)な政権交代でなくてもさっさと殺して別の血筋の王朝を築こうと思う人がいてもおかしくない様に思います 中国ではその時々の政権は天の代行者であり天の意思がその朝廷を見放し次の政権が誕生するということになります。 日本では覇者は常に氏(藤原氏、源氏等)を名乗りそれは天皇を頂点としたシステムの中に組み入れられますので単純に中国の革命との 比較は難しいような気がします。 天皇を否定することはそれから派生する自分の位置も否定することになるので自己矛盾を生じるのではないかと。

  • IXTYS
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回答No.11

> 天皇はなぜこんなに長い間続いたのか教えてください。 時の権力者は、朝廷の権威を利用するだけ利用して、役に立たなくなると適当に処分するという姿勢で一致しています。  その代表な犠牲者は、108代の後陽成(ごようぜい)天皇と次の後水尾(ごみずのお)天皇です。 後陽成は信長、秀吉、家康の三人の権力者と付き合う羽目になりました。 流石に最後の家康は、彼を座敷牢に幽閉、息子の後水尾を立て、これの後盾になって、自分の権威を保全しています。 陽尊陰背(ようそんいんぱい)という言葉があります。 表向きは奉っているが、陰では背いている。 これは、時の権力者が天皇に対して取って来た態度を象徴的に表した言葉です。 さて、話題を戻して、109代の後水尾天皇です。 何事にも疑り深かかった家康は、二代将軍秀忠の娘を中宮として送り込みます。 これは藤原氏も曽我氏もやったことです。 彼の凄いのは、天皇家の石高を一万石に削減し、力を弱めています。 その代りに将軍家より、薬師(くすし)をスパイ代りに派遣しています。 後水尾には側室に生ませた19人の男子がいましたが、これが都合良く次々と幼くして他界。 誰だって、その理由はわかります。  業を煮やした後水尾は、即位10年余で位を娘に譲り、退位しています。  110代の明正(めいせい)天皇で、家康の曾孫に当ります。 後水尾と将軍家との綱引きは秀忠、家光と続きます。 将軍家は将軍の娘を中宮に出してはいますが、天皇家には一切経済援助はしません。 するのは、人材派遣のみ。 目的は明確で、将軍家への報告の為。 110代、明正から122代孝明まで将軍家の干渉は続きます。  天皇家が長く続いたのではなく、利用できるように適当に改造したのです。 ですから天皇家の方にも、生き延びる為の『ノウハウ』が存在しています。 今の天皇が絶対に会おうとしなかった人が二人います。 ひとりは三〇由〇男、もうひとりは中〇根〇弘です。 彼らがどう利用しようとしているのがわかっているからです。

  • koon1600
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回答No.10

シナが本来的に蔑称かどうかはまったく持って問題なく、相手が嫌がっているかどうかが問題ですね。 言ってしまえば、ジャップだってもともと蔑称ではありません。ニガーだってそうです。今は小説とかでも消えた黒人、という表記も同様です。インディアン、インディオも今は表記が控えられていますが、蔑称ではありません。 でも、いずれも現在は使ってはまずい(またはあまり好ましくない)言葉になっているはずですが? 代替の言葉があるのにわざわざ嫌がる言葉を使おうとするのは、いかがなものかと(現状、chinaやそれに類する派生語で有力なものが存在していない諸外国と、簡単に置き換えられる言葉を持っている日本語を同じ土台に置くことがそもそも間違っているような気がしますね。そして、日本という言葉のもともとの意味も考えれば・・・)。 まあ、天皇の話とはまったくもって関係ないので、これ以上は突っ込みませんけど(他の質問で出尽くしていますし)。 島流しは、タタリ云々ではなく、ただ単に「殺すと新しく建てた天皇との関係が険悪になる可能性があるから」という現実主義的なものかと(もし先のを殺してしまうと、自分も殺されるのではないか、という疑念を抱くのは普通かと。それならば、ある程度は生活が保障されている島流しなどにしておいたほうが、はるかに良い)。 また、親王には危害が及ぶことは多々あったため、少なくとも天皇家には手を出してはいけないというものでもないようです。 タタリで考えれば、天皇の身内を襲うのもはばかられるはずですが・・・ また、都から無理やり追い落としたり、引き渡すタイミングはいくらでもあったにもかかわらず一緒に入水させたりと、決して優遇とは言えない扱いを受けている天皇もおります。暗殺説がある人もいますし・・・ もっとも、少なくとも中世においては、亡き後に弔いなどが厚遇されていますので、タタリ云々はそのあたりで帳消ししようとしているのが見えるため、ある程度までは意識していたとは思いますが・・・ 土壇場になっても天皇の御身を重視していたかというと、必ずしもそうではないという例が多くあります。つまり理由の1に上がるものではないかと。 なお、この場はあくまで回答する場でして、論議は控えるようにとされていたはずです。質問者さんに対しても脱線論議は失礼かつ迷惑なので、控えたほうがよろしいかと。

  • Gantz10
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回答No.9

 No.6 に多々事実誤認があるので正しておきます。読む人が誤った知識を持ってしまうと困るので。  ただ、いろいろ解説が必要なのと、事実誤認の箇所が多いことから、一度ではなく数回に分けます。 1.シナについて  これはそもそも蔑称ではありません。世界中の国で使われている言葉です。例えば国連の公用語で中国語とアラビア語を除くと、英語(China)、フランス語(Cine)、ロシア語(キタイ)、スペイン語(China)と、ロシアを除いて全てシナです。契丹をもとにキタイと呼ぶのも、秦をもとにシナと呼ぶのも同類でしょう。で、これらのシナについて共産党中国が文句を言ったケースは、皆無です。  日本だけにこんなことを言っているので、客観的にみて不当な別扱いをしていると言えます。これを普通の日本語では差別と呼びます。まあ、共産党中国がどういう差別をしようと彼らの勝手なのですが、それに日本がつきあう筋合いはありません。  むろん、多少の歴史的経緯はありますが、この経緯事態がそもそも言い掛かり的な内容ですから、応じてしまった外務省に問題があると言えるくらいです。  次に、シナの代わりに使われることのある「中国」という単語を見てみると、これは特に、日本で歴史の話をするときは紛らわしい単語です。  まず山陰・山陽地方を合わせて中国と日本では呼びますから、日本においては第一義はこれでしょう。続いて、中華思想における自国の美称としての「中国」があり、これは日本の文献で日本のことを指して「中国」と呼ぶ事例が古代から明治維新の頃までいくつも見られます。その次くらいに、中華身人民共和国の略と中華民国の略が、同列くらいで並びます。あと、古代が絡めば「葦原中国」の略としての中国も出てきます。中華思想は水平的広がりを持つ概念ですが、「葦原中国」の場合は上に高天原、下に根の国を想定した垂直的な意味での「中国」ですから、別の意味と解すべきですね。  このくらい、日本で歴史の話をするときには多義になって紛らわしい言葉を、なんでわざわざ使う必要があるのか、その方がどうかと思われます。逆にシナなら、意味は明確です。しかも、大陸にあった歴史的継続性のほとんどない覇権国家群を過去から現在まで特に指定せずに一語で指せるので、使い勝手も良いですし。 2.島流しについて  「何かやったら」の中に島流しを入れていますが、この時点でタタリについて誤認していることが分かります。  皇族が流された場合、地元の名士に経済的な支援をされて、都とはむろん雲泥ですがその地の貴族としての生活は保障されます。単に中央の政治に関われなくなるに過ぎません。  そして、タタリを下す怨霊になったかどうかは、現象面で見れば必ず結果論で評価されます。言い換えると、事前にその人が怨霊になるかどうかは、判断が付かないということです。具体的には、死後数年~十数年くらいの頃に疫病や天災や戦災が生じたり、政敵だった人間が怪死した場合、タタリと見なされるのです。  それが現代の目で見れば偶然としか思えなくても、当時の人々は同じくらいの確信で怨霊のタタリとしか思えないわけですね。  これが何を意味するかというと、邪魔であってもうかうか殺せないし死なせられないということです。他方で明白に牙を剥いた政敵は排除しなければならない。それゆえの島流しなのです。この点を分かっていないということですね。  ちなみに地元の名士が流された皇族や貴族を厚く遇するのには、これも理由の一つではありました。都の雅を学べるというスノッブ精神ももちろんありましたが。  今回は、とりあえずここまで。

  • cse_ri2
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回答No.8

天皇家が長く続いた理由は、他の方の回答にあるように歴史の途中で権力を手放して、権威のみの存在であったからです。 同じような存在としてヨーロッパのローマ教皇、イスラムのアッバース朝があります。 ローマ教皇・イスラムのカリフ・日本の天皇は、宗教的な権威を背景として、その時々の権力者を認定することで、永らえてきました。 ローマ・カトリック教会は、教皇領をもつなど、政治的存在でもありましたが、中世以降は政治的権力を手放すことで、現代に至るまで続いています。 アッバース朝はイスラム教の開祖であるムハンマド(マホメット)の叔父の家系で、ムハンマド直系の子孫が絶えた後は、その権威は大変なものがありました。 アッバース朝はウマイヤ朝のあと、中東全域を支配しますが、945年に政治的権力と領土を失ったあともその宗教的権威は失われずに、1258年のモンゴル侵入まで継続します。 (日本の天皇家が長続きしたのは、鎌倉時代の元寇でモンゴル軍を追い返したことも、大きな理由の一つでしょう) >中国とかでは、ある程度利用しといて、価値が無くなれば禅譲を迫ると >いうようなことがあったように思うのですが。 >それに、禅譲の様な平和的(?)な政権交代でなくてもさっさと殺して >別の血筋の王朝を築こうと思う人がいてもおかしくない様に思います。 これについては、古代中国において儒教の孟子が、著書の中で徳のない天子は追放して、徳のある人に変えてしまってもよいという革命理論を確立してしまったからです。 そのため、中国では王朝が衰えると、その時の権力者や外部からの侵入者が、実力でもって前王朝の権力を奪い取ることが正当化されました。 部下が主人の地位を奪うときは禅定という手段を用いましたが、異民族の侵略の場合は、そういう手続きはあまり取らなかったようです。 日本にも古くから儒教は伝わっていましたが、この孟子の革命理論だけはなぜか受け入れられませんでした。 むしろ江戸時代になると、日本の本来の主人が天皇であるということが儒教によって再確認され、幕末に至って権力が幕府から天皇に戻る際の理論的根拠となっています。

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.7

#3さんの権力証明書発行機関っていいネーミングですね。私もそのとおりでだと思います。 日本の天皇は「統治すれども支配せず」を地で王権です。また、司馬遼太郎氏の言葉を借りると天皇のような統治方法は「この国の型」になっていて、ほかでも見られるようです。 たとえば、#3さんが書いておられる実権のない社長も現代に見られる型かもしれませんし、幕末の長州藩の毛利敬親などは「そうせい候」と呼ばれ、部下が上げてきた内容はすべて「そうせい!」と言って承認していたそうです。 また、みなさんが指摘していないことがあるのでひとつ書きます。 それは土地の所有権のことです。 日本の土地は誰の所有でしょう?農民です。当たり前ですね。ところが世界的に見てこれはとても珍しいことです。 ふつうその国の土地は、王様を初め貴族の所有になっていて、農民は耕す権利を持っているだけでした。農民には土地の所有権はなかったのです。(耕す権利も持たず、土地についている農民は農奴といいます) ところが日本では、まだ天皇(朝廷)が実権を持っていた743年(天平15)に墾田永代私有法が出され、最初は貴族や寺院が土地の私有を認められ、その後武士階級(ここに後の農民階級も含みます)が興るとともに、開墾開発は武士が行うようになり、租税権を実力で自分たちが持つようにりました。 そうすると朝廷にはお金が入ってこなくなるため、幕府を開いたものは、朝廷から租税権などの国権をもらって(征夷大将軍)、国を動かすようになっていきました。(つまり、従わない奴は国に反抗しているとして、成敗する正当性をもったということです) この方法がうまくいったため、最初の鎌倉幕府から江戸幕府まで、朝廷からお墨付きをもらって政治を行うというのが型になっていきます。 ちなみに、このときなぜ朝廷がお墨付きを出せたかというと、実は 大宝律令が生きていたからです。武士の階級が勝手に決めた自藩の法律は勝手に出来るけども、他国との取り決めや、藩に属していない農民(土地の所有権を持つ農民)の扱いは基本的に 大宝律令に準じなければならなかったのです。 では農民がなぜそれほどの力をもっていたかというと、もともと武士と農民が別れていなかったからです。太閤秀吉の刀狩以降、武士と農民の階級が別れましたが、もともと力がある農民は自分たちで武装して、国取合戦には参加しないけども、自分の土地は守るということをやってきました。 ですから、土地は墾田永代私有法によりその農民のものだったわけです。 そうすると幕府を開いたものは困ります。自分たちは朝廷ではないですから、税金(年貢)を取り立てる権利を持っていません。無理に取ろうとすると、せっかく政権を取ったのに、また戦争(一揆)になってしまいます。 そこで朝廷から租税権などの統治権をお墨付きをもらい、農民から年貢を取ることが出来るようになったのです。 ちなみに大宝律令は明治憲法の発布と共に廃止になっています。有名無実化していたとはいえ、天皇制はこのようにしてずっと日本を統治してきました。 それは、中興した武士階級だけではなく、土地の所有者である農民階級が望んだことでもあるのです。

  • koon1600
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回答No.6

こういった場で、相手が言ってほしくないという蔑称を連呼する人はどうかと思いますが・・・これはまあ置くとして。 簡単に言えばお飾りはお飾りであれば良く、お飾りは利用しておけばよい、というのが理由です。 平安末より天皇家は実質的な飾り物になります。 そうですね・・・文化財指定(ただし個人蔵)の宝石の装飾品を考えてみましょう。 ああいったものは、つぶしたり捨てたりするものではなく、あくまで身に着けるものですね。つぶそうとすると文化財を保護している人とか団体から苦情が来ます。また、あまり無下に扱っても苦情が来ます。でも、身に着けていればそれなりに豪勢には見えますし、姿にも箔がつきますし、たまに磨いてでもいれば文句はきません。 天皇家も同じです。一応天皇家の周りには公家とか、一応支持している寺社がありますから、ちょっかいを出してもめるよりは、とりあえず利用しておけばいいのです。 でも、飾り物が飾り物以上になろうとした場合は、なんらかの対処をします。 承久の乱や建武の新政といった武家政権と天皇家の争いというのは、どちらも天皇家が飾り物から脱却しようとしたために起こったのです。つまり平安末~幕末にいたるまで、主流は「天皇家は飾り物であるべし」というものです。 なお、天皇家については(飾り物化以降にも)明らかに暗殺されたと考えられる死に方をしている人が多少いますので、手出しをしてはいけない、という表向きの了解はあっても、あくまで表向き程度だったようです。 天皇家に何かやったらなにか悪いことが帰ってくるとなれば、島流しだってあれですし・・・ また、天皇を政治から完全に排除して国づくりをしようとした人はいます。平将門です。 彼は新皇を名乗り、関東に政庁を置きましたが、新皇とは文字通り新たな皇(王、つまり天皇に類するもの)、ということです。結局は鎮圧されるのですが、明らかに天皇家を除いて新たな国を作ろうという意図が見えます。 信長は、死ぬまで正二位(武家の棟梁)の位は保持していたので、ちょっと違うかな・・・ なお、中国の場合は日本とはまったく違います。中華思想とは本来的には完全な実力主義社会です。今でもそうですが、天下の大義とか、天下の権威といったものは後からついてくる、というのが根底にあります。 日本の天皇家のようなアマテラス云々というのがないのは、政権が乱立したり、興亡が激しかったためですね。実際にはいろいろと作ったのでしょうが・・・ なお、一応歴史書では黄帝という皇帝から出たというのが中国の皇帝では常套句となっています。 日本という国は力のないものもある程度は生かしてくれる、といういわば生ぬるい、とでもいう社会風潮と、権威を箔付けしないとついてこないといういわば箔主義とでもいうような奇妙な風潮の上に成り立っています(箔付けするためには、やっぱり天皇家を使うのが最良なのです。つぶしたら箔を作る場所がなくなってしまいます)。 まあ、こういった生ぬるい上にわけわからない奇妙な風潮が、明らかに世界のスタンダードな考えから浮いているのですが・・・これはまあ別の話ですね。 結局のところ、世界的にも異常なくらい天皇家というものが長持ちしたのは、日本の風潮によるところが大きいですね。「つぶすよりは利用したほうが良い」という考えもこれに尽きるのかと思います。 宝石の宝飾品の話を又引き合いに出しますが 諸外国の考えでは「宝飾品についている宝石が他にもっと良い使い道があるならば取って丸裸にして壊しても良い。残った金属は溶かして再利用するのが良い」と考えられるかと。 日本は「たとえ宝飾品についている宝石が他にもっと良い使い道があっても、壊さずとっておくべき。傷もつけないようにしておくとなお良い」とでもしましょうかね。そういった考えの違いが、天皇家を他に類を見ないほど長続きさせた原因です。 なお、エンペラー(皇帝)とは、本来的には神の代わりの統治者ということなので、本来的にあがめている神が違う天皇はヨーロッパの考えでは「エンペラー」ではありませんし、向こうでいう皇帝のニュアンスとは大きく外れています(それに大英帝国、なんていう言い方があるように、向こうの皇帝、国王といった境界は非常にあいまい。)。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2212789 この質問でいろいろ出ていますが、天皇家と皇帝の違いはこのあたりですかね。 また、天皇家は数回断絶している可能性が高いことは研究ではっきりしています。参考URLに載せておきましたが・・・ ここまでして、天皇なるものを残そうとしたのは、やはり日本人の風潮なのでしょうね。

参考URL:
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/kousitu1.htm
  • Gantz10
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回答No.5

 「利用したほうが良かった」というのも、理由の一つですね。  政権を安定維持させようとしたら、実力だけでなく権威も必要で、権威とは正統性に付随するものだからです。  ただ、「天皇」の条件はアマテラスに連なる男系男子という物語が、天皇家を脅かす権勢を持つ藤原家が現れた600年代後半には既に確立していました。だから、天皇という地位に着くことは、血統に連ならない余人には不可能でした。ちなみに「物語が共有されている」という点が大事で、事実かどうかは本質ではないのです。  なお、代わりに「皇帝」にならなれます。皇帝の条件は、シナの中華思想によれば徳があることです。だから、即位した後「オレには徳があったから即位できたんだ!」と言い張れば可能です。シナではそうやって王朝交代が何度も起きましたし。  ちなみに日本でも称徳天皇が自称で「皇帝」と称し、道鏡に帝位を禅譲しようとした計画もありました。また後醍醐天皇も天皇を止めて皇帝制を作ろうとしました。共に失敗しましたが。  いずれも、天皇自身が試みたというのが象徴的ですね。自分が既に権威を持っているから、権威を担保するシステムを切り替えることができるわけです。他者がやろうとしても、周りの者に成り上りと見なされて決して成功しないでしょう。各時代の権力者たちは、それが分かっていたから天皇を廃さなかったのです。そのくらい、正統性というものは重要な要素なのです。  なお、例外が一人だけいて、信長です。  信長は、天皇は無論、皇帝にすらなろうとしていなかったようですが、具体的なプランは文書で残っていないので最終位の名称は不明です。  もう一つの大きな理由は、タタリです。  福沢諭吉などが明治維新に啓蒙思想を広めました。功罪いろいろあるのですが、罪の一つにこのタタリという宗教感覚を歴史的知識としても欠如させてしまった点があると思います。あなたの質問も、その結果ですから。  明治天皇ご自身が、即位に当たって真っ先に行なったことは、天皇家を呪って大魔縁と化した崇徳上皇の慰霊と京都への勧請です。そのくらい、つい最近までも強くタタリというものは信じられてきていました。  天皇家を手にかけて滅ぼしたりしたら、必ず怨霊となってタタリを受けるという感覚を、今で言う核テロくらいの危機管理意識として各時代の最高権力者たちは持っていたということです。  ちなみに、すごいというあなたの感覚はまっとうで、世界的に見て現役の「エンペラー」は、日本にしかいません。国際的な貴賓のランクで、天皇、ローマ法王、イギリス国王の順序でトップスリーです。つまり、天皇が世界最高峰。これだけ、世界は天皇家の正統性(=その伝統)を認めているということです。  男系という伝統を失ったら、天皇も新興帝国の元首の座に滑り落ち、この序列も変わってくるでしょうね。

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