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目には目を、歯には歯を。
最近、再び例の虐待の事件を見ました。 「食事をほとんど与えず、保護されたときには 体重は平均体重の半分以下の25キロほどにまで落ちていた」 こういう事件を見るたびにいつも思うのです。 じゃあ、犯人には同じことを経験させればいいのではないか、と。 子供に食事を与えなかったなら、犯人にも食事を与えない。 また、これを書くと「法律カテゴリー」に行けといわれるかもしれませんが、 現在日本には死刑制度がありますが、 死刑にせず、死ぬほどの労働をさせるのはいけないのですか。 周りの人に意見を求めましたが、「それはいけない」との答えでした。何故ですか? 苦しみを味わって欲しい。 「死」をもって償う、それは何を償っているのか。 思いのままの回答をお願いします。
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[目には目を、歯には歯を]ですか。 江戸時代には、「あだ討ち」制度がありましたね。江戸時代300年の間にあだ討ちがすたれたのは、被害者の遺族が職を捨て長年、仇を探すことで疲れ果てたのを回りの人々がみたからでしょうね。江戸市中引き回しの上、張り付け獄門(首をさらす)というのもありましたね。中国や北朝鮮あたりでは、みせしめのためにいまだに公開処刑もあるようですね。こんなのを日本の都市でやっても見に来るのは、コメンテータが反対反対と大騒ぎするTV局ぐらいですね。見たくもないですね。現代は、被害者と加害者の間に第三者としての司法制度が介在していますので私憤を晴らすことは出来ないようになっていますね。これは、私憤をはらす行動が互いの一族間の抗争に発展し、しいては村や町間の戦争にまで発展したという過去の経験があるからですね。多数が住む社会では、好むと好まざるとによらず、第三者に裁定と刑量をゆだねることが良いということなんですね。そこでその第三者の立場では、だれも[目には目を、歯には歯を]はやりたくないでしょう。原則2人以上殺せば死刑、1人ならは無期懲役、などの法律に従うのが適当ですね。無期懲役というのは曖昧なので、終身刑の導入も考慮すべきではありますが、畳2,3枚の檻の中で一生自由もなく動物のように暮らすことは人間にとって最大の苦しみであることも事実ですね。肉体的苦しみは一時的なものですが精神的苦しみのほうが依り罰として大きいと考えることも出来るのですね。ということで近代社会では[目には目を、歯には歯を]は、ふさわしくない、あるいは適用不可ということですね。
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被害者に対しては許すことを、加害者に対しては償うことを、教える助けになる事が人間社会の正しい法だと思います。 それで犯罪が減るかどうかは解りません。 私は犯罪者は全員、精神病患者のようなものだと思っています。 隔離と治療が必要だと思っています。 今の刑罰のあり方が正しいかどうかも正反対の意味から疑問です。 これにはいろいろな意見が合って良いでしょう。
お礼
私もそう思います。 どんな刑罰を与えたところで、 犯人に「償う気持ち」が芽生えるのだろうか、と。 精神的に正常なら人は殺せない。 本当に「人を裁く」とは難しいものだと今回の質問と 皆様の回答で改めて感じました。 ご意見、ありがとうございました。
- yyhakase
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あなたのおっしゃること,もっともですね。本当にあなたと同じように思うこと,何度もあります。 ルーブル美術館に黒い玄武岩に刻まれたハムラビ法典があります。日本にもいつだったか展示されたことがありあました。イランにもバスタン博物館だったかな?,この模型があります。私は実際に見たことがあります。 No.1の方がおっしゃる通り,ハムラビ法典は「同害復讐法」とも言われますが,これは「目をやられた場合,復讐するなら,せいぜい目だけにしておきなさいよ」ということを意味します。憎しみのあまり,目だけか命をも奪いかねないというのが人間の世の中ですね。すると,今度はやられた方が,なんで命まで奪うの? 俺たちそこまでやってないじゃん・・・,となって,また復讐。復讐の連鎖を防ぐためにもハムラビ法典が必要だったのですね。 人間の心は見えないから,私たちはなんとか同じ苦しみを相手に・・・と考えますが,犯罪者は罪を犯すことで世に知られ,自由を奪われ,毎日寝られないほどの苦しみを味わっているかもしれませんね。「許す」ということも人間にしかできない価値ある選択かも知れません。勿論,身内を殺された方に,「許してあげたら」などと安易で無責任なことは言えないのですが。他人には簡単に言えることでも,自分のことになると難しいことばかりですからね。
お礼
きっと、誰しも一度は「犯人は同じ苦しみを味わえ」と思うと思うのです。 でも、そう単純に思考を結びつけることができないんですよね・・・。 日本の絞首刑では、どの執行官が実際に「殺した」のかが分からないようになっていますが、 ハムラビ法典のように「目には目を」の場合、誰かが直接的に犯人の目を潰さなければなりません。 人を殺してしまった恐怖というのは相当の苦しみであると思います。 霊の存在を肯定する意味ではありませんが、 いつも「見られている・・・」というような恐怖で怯えなければならないと思います。 うーん・・・難しい。でも、もし私が家族を殺されたら、 「同じ苦しみ」どころか二倍三倍の苦しみを与えたいと思うでしょうね・・・ 回答、ありがとうございました。
- tanukiinu
- ベストアンサー率28% (24/83)
私も質問者さまと同じ考えです。 加害者も被害者と同じ苦しみを味わうべきだと思います。 虐待もそうですが、今、残酷な殺され方をされたりする事件が多いです。(北九州の事件など) 被害者は散々地獄のような思いを何ヶ月もして殺されて、加害者はあっさり死刑(絞首刑)というのはちょっと納得いかないです。 『いつ死刑が執行されるのだろう』と日々恐怖心かかえながら生きるのも、それなりの辛さはあるかもしれませんが、死ねば許されるのかというとそれは違うと思います。 「殺してやりたいほど憎い」けど、あっさり死なれるよりは、被害者と同じ思いを加害者にも味わってもらうほうが良いのではと思います。 すごく冷酷な人間かと思われてしまうでしょうけど、被害者の立場になって考えると、こういう考えになるのではと思います。
お礼
以前、「死刑」についての遺族の方の言葉に、 「死刑が何を解決してくれるのか。 私達は確かに犯人が殺したいほど憎い。 しかし死刑制度は何を救い、何を解決したのですか。 犯人には苦しい思いをして働いて、少しでも社会に貢献して欲しい。 死をもって償うなど、何も償ってはいない。 ひたすら殺された私達の家族を殺したことの罪を償う人生を送って欲しい」 というような文章を読んだことがあります。 確かに死んで欲しいと思うでしょう。 被害者より残酷な殺され方で。 でも、同時にそれでは犯人に償いの気持ちは生まれないのではないかと思います。 同じ苦しみを与えたところで反省は生まれるのかと言われれば 必ずしもそうではないというのが答えですが・・・。 回答、ありがとうございました。
- kikiki99jp
- ベストアンサー率12% (132/1021)
憎しみではなにも解決しません。 悪を悪で裁くようなものです。 死刑制度があっても、殺人事件は防げていません。
お礼
死刑制度は「憎しみ」で成り立っているわけではないはずです。 刑罰は悪ではなく正義であるはずです。 それでは「刑罰」というものを「懲役」から 「被害者の苦しみ」に置き換えるのは何故いけないのか。 そうです、死刑制度があっても防げていないのです。 それでは、何故死刑制度を撤廃して、 「死ぬほどの労働」を課してはいけないのか。 憎しみでは何も解決しない。その通りだと思います。 しかし、家族が殺されて、犯人に湧くものは ひたすら「憎しみ」だけではないでしょうか。 犯人を「重い刑罰」に追い込もう追い込もうとするのは、 遺族の「憎しみ」ではないでしょうか。 ・・・といって・・・確かに憎しみでは何も「解決」はしていない・・・。 回答、ありがとうございました。
- hiuewabnx
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>>周りの人に意見を求めましたが、「それはいけない」との答えでした。何故ですか? そればっかりは本人に聞かないとわかりませんが、凶悪犯罪の防止に役立っていると思っているのではないでしょうか。 >>犯人には同じことを経験させればいいのではないか では、人殺しは殺されればいいとお思いなのですか。
お礼
そうですね。人殺しは殺されればいいと思います。 被害者の遺族の方の気持ち、 その人が失った「人生」というものの大きさ、 「死」という苦しみ・・・それを考えると、 犯人は許せません、が、 「殺害」とひとくくりにしても、故意的なのか不意的なのかと分けたときに、 不意的なものであった場合、その人も「殺人=死刑」の式に決まり事のように当てはめることはできません。 回答、ありがとうございました。
- char2nd
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被害者が味わった苦しみを客観的に推し量ることが難しいから、ということになろうかと思います。 質問タイトルになっている「目には目を、歯には歯を」はハムラビ法典にある有名な言葉ですが、これは相手に目をつぶされたら相手の目を、歯を折られたら相手の歯を使えなくして良い、という法律ですが、同時にそれ以上の苦しみを与えてはいけない、という戒めの意味も含まれています。 人が負った苦しみというのはあくまでも主観的な物ですから、それを司法の場で推定し、同量の苦しみを加害者に与える、というのは難しいでしょう。少なくともやりすぎてはいけないですから。 とはいえ、私もどこか理不尽な物を感じざるを得ないこともあります。せめて、終身刑(それも仮釈放の許されないやつ!)を法制化して欲しいですね。
お礼
はい、いつも事件をニュースで見るたび、 ハムラビ法典を思い出していました。 確かに「苦しみ」とは抽象的、主観的ですね・・・。 その事件の一部始終を見ていた第三者もいないわけですから、余計にそうかもしれません。 とても参考になるご意見ありがとうございました。
お礼
そうですね・・・「同じ苦しみを」と思っても、 現実的には上手くいかないのだろうと思います。 公開処刑を日本でやったらますます問題が増えるだけでしょうね。。。 自由を奪われる、それだけは唯一「被害者と同じ苦しみ」ですね。 果たして犯人がその自由が奪われることが 「苦しい」と感じるのだろうか・・・そこまで思えるほど「正常」だろうか? 考えれば考えるほど難しい・・・ 参考になるご意見をありがとうございました。