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他人を認めない子供
昨日のニュ-ス・新聞等で紙面を賑わしたあの17歳の 少年の事件・・・・・ こうどうして、他人を虫けらみたいに安易に傷つける 行為をするんだろうか~また、考えるのか? 自分だけは他人に認めてもらいたがるのに、相手を 相手の価値を認めようとはしない・・・・矛盾してるね 相手を認めることで、自分と比較してしまうのかな~ 他人より劣ると自己嫌悪しそれが、「邪魔な存在」 と、でも考えてしまうのか? 他人と比べること自体そもそもおかしなこと 自分は自分でいいじゃないか- できの悪いとこもありの違う部分でいいところもある。 みんなそうじゃない~???? それを素のまんまの自分を好きになって、どれもこれも いろんな面の自分をみとめて行けば・・・・・ でも、そうできない大人も子供おおいね~ 他人を思いやることってそんなにむつかしいことなのだろうか~~? こんな事件が起こるたび、耳にする都度、やるせない 感情におそわれる。 子供の事件のようにおもうが、大人も一緒だと思う。 こどもは、大人の背をみて育っている。 たてまえだらけの大人の姿から、直さなくっちゃ 子供だけに目をむけて対策練ってもなにも 解決の糸口はみいだせやしない。 大人も素のまんまんでは生きれないんでしょうか? 自分らしくあるには、まずどうすべきだと みなさんは、どう考えますか?
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- opq2001
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>自分だけは他人に認めてもらいたがるのに、相手を >相手の価値を認めようとはしない・・・・矛盾してるね 確かに・・・。 でもこの矛盾を持っていない人が世の中にどれほどいるでしょうか? 他人を思いやることは難しいです。 どうして他人を思いやれるんでしょう? 嘘っぽいと思います。 意見の食い違う人や,理解しがたい人をどうやって思いやるんでしょう。 >他人と比べること自体そもそもおかしなこと >自分は自分でいいじゃないか- 生きてて理不尽さを感じたことがある人はこう言いきれないところがあるはずです。他人をねたんだり、恨んだりすることって極々普通だと思います。それこそ、素じゃないですか。
- greenhouse
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>自分らしくあるには、まずどうすべきだと >みなさんは、どう考えますか? 1)他人に認めてもらうことにこだわらない。 他人の評価はあくまで「参考」。他人がどう思おうと譲れない自分の「意志」や「やりたいこと」「めざす方向」をはっきり認識すること。 2)「自分」を他人に押しつけない。 自分の意見や価値観、好みや善悪の判断を他人に強制的に認めさせようとしない。他人の意志や好みを「尊重」し、自分のまわり以外にも様々な他人の「世界」があることを素直に認める。自分の知らない、わからない世界があっても、疎外感からそれをバカにしたり見下したり「関係ない」と無視するのはやめる。 私は、この2つにつきると考えます。 --- 【補足】「アイデンティティーの未成熟」と「素のままで生きること」について 上記のことが、当たり前に、自然にできる人もいます。しかし、不幸にも「そうでない人」にとっては、かなりの葛藤を乗り越える必要があるかも知れません。なぜ困難かというと「そうでない人」にとって上記の考え方をとりいれることは「妥協」であり、 「今の自分がなくなってしまう」 「素のままの自分が否定される」 と感じられるからです。誰しも「自分が否定される」ことには本能的に強い反発を覚えるものです。 ですが、そもそも、今、私たちが認識している「自己」はモノではありません。様々に変わっていく可能性を秘めているのです。それを「今の自分」「素のままの自分」という考え方で限定する必要はありません。 「ありのままの自分」「今の自分であり続けること」にこだわる限りは、どうしても他人の目が気になり、他人の評価が自分の行動の絶対基準になりがちです。そして他人にも無意識に「変わらないこと」を期待してしまう=押しつけてしまうようになります。 しかし、実のところ、どう変わったとしても私たちは私たち自身でしかありえませんから、今の自分にこだわらず、どんどん自分の可能性を追究していく「発想の転換」が必要だと思います。そうすれば「変わっていく他人」「自分の知らない他人の世界」にも寛容になれるのではないでしょうか。 したがって「自分らしくある」ための第一歩は「自分を変えることを恐れない」こと、と言えるかも知れません。ちょっと難しい用語で言うなら、これが「自分らしくある」ための「アイデンティティーの確立」につながっていくのです。 なお、ご質問の17歳の少年は「アイデンティティーの確立に失敗した」「未成熟だった」と言えます。つまり、自己と他人の区別が、本当のところはついていなかったのです。すべては自分の世界にあり、自分以外の世界があることを認められない。だから、自分の世界の一部であるはずの家族や他人が、自分の思い通りにならないことに、私たちが考える以上に腹が立ち、許せなかったのだと考えられます。 「素のままで生きる」という表現は、たびたび「アイデンティティーが確立できていない未熟な心のままでいる」ことと混同されがちですが、ここはきちんと区別すべきところだと思います。--a_a
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- 個人的意見です。ご参考まで。
お礼
レスが遅れてごめんなさい。 たくさん、「個人的意見」カキコしてくださって ありがとうございます。 greenhouseさんのものの考え方個人的に好きです。 ただ、今回あたしの書き方がまずかったので あたしがお聞きしたかった点とちょっと、ちがってたのが 残念だったなぁ~と・・・・反省してます。 どなたかが、いっておられたのですが・・・・ 親と子は写し鏡だと、、、、 大人、親自身が、上手く大人になりきれず、親もどきの 状態で子供を育てているから一番弱い子供に影響が及ぶ ような気がします。 リストラの嵐が吹きすさぶなか、親のこころをホロ- してくれる(リラックスさせてくれる)場所なり機関が もっと、あってもよさそうなのに・・・・ なぜかしら、それは個人まかせ。 なんだかおかしくないですか? 子供に手を差し伸べる機関は、たくさん設けられてきているのに・・・・
- mitchell
- ベストアンサー率24% (10/41)
一般の常識で考えてはダメなの。 こういう事件を犯す人間は一種の病気、というか、DNA異常なのです。 カウンセリングのとき、一番に行うのは、この人はいったいどのくらい「母親」あるいは「父親」に心が支配されているのかを調べることです。虐待されていたならわかりやすいのですが、心を縛られた状態にあるとこの手の異常がおきやすいのに、わかりずらい。やっかいです。 この手の人の親はいたって常識的であり、他人には優しく振舞うので世間の評判も良いものです。しかし、家の中では支配者であり、子供や配偶者の心を蝕んでいきます。支配者は常に誰かに頼りきって生きています。例えば、「あなたをこんなに愛しているのだから、あなたも私のために頑張って。」などのような言葉を常に吐きます。すると、この言葉を聞く人は、支配者の言うことを聞かないのは罪悪である、と思い込みます。また、反面、自己を実現できないジレンマにとらわれ、非常に苦しみます。困ったことに、自己実現をしようとすると罪悪感が湧き上がりどうしても出来なくなってしまうのです。 もっといろいろありますが、これは親から子へ受け継がれやすく、連鎖を断ち切るのは至難の業なのです。 自分がこういうことにならないために、親になったら子供を思いっきり可愛がることです。そうすれば子供は時期が来ると安心して自立しようとします。そのとき親は手を離すこと。そして、子供は完全に親離れすること。親離れすることは親不孝することでは無いという事をきちんと理解できる人間を育てなければならないのです。
- K-1
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>他人を思いやることってそんなにむつかしいことなのだろうか~~? とても難しいと思います。 人のことまで考えられるということは、自分自身に自信があるからだと思います。 かの少年は「勉強の出来るいい子」なようですが、 勉強が出来ることは自信に繋がらず、出来ないことはコンプレックスに繋がります。 勉強が出来るということは同級生に嫌われ、親にはそれが当然と思われる。 誉められることも喜ばれることも無いと自分の存在価値に疑問をもちますわな。 「子供だから・・」といっても、子供だからこそ存在価値が欲しい。 この辺の世代の親ですと、親も勉強しかやってなかったので いわゆる論理教育が出来ないのでしょう。 細かいところははしょっちゃいましたが、K-1説です。
補足
K―1さんのレスは、あの少年が事件を何故起こしたか という、少年の心理プロセスをつづられたようですね。 ごもっともなことと思います。 私の質問の書き方がまずかったせいか、皆さんのレスが この少年事件に集中してしまったようですね。 ちょい!自己反省しています。 たてまえでものを言う親の背を知らず知らず見て育っている今の子供たち。 親自身が本音で語りにくくなっている人と人の関係。 「人を思いやること」あたりまえに思えて、できそうで、 できにくいことの難しさ。 わたしたち大人が、少しでもかわんなくっちゃ- 上のような犯罪もあとをたたないんじゃないかなぁ~ その為には、どうしていけば言いのだろうかといいたかったんです。
事件を起こした少年に関しては、この疑問は当てはまらない、と考えています。 なぜなら彼らは、「他人を思いやる心を、何らかの原因によって正しく教育してもらえなかった」かわいそうな子供だからです。 littlekissさんのご意見は、正しい倫理教育が正しく完了していることが前提となっていますが、すべての人間がこれらを正しく学習できているとは限りません。 よって彼らは、このような疑問を持つことすらできないのです。 他人を思いやることが当たり前だと思っている人にはなかなか理解しがたかもしれませんが、他人を思いやるって、実はすごい「高度な」ことなんですよ。 それができない人間にとって、他人を思いやるとは決して「素」の状態ではありません。 ですから、やっぱりこういうことは親がちゃんと教育しないと駄目なんです。 もっとも、間違い電話をかけてしまった子供に対して「さっさと切りなさい」と教えているような親だと、それも難しいかもしれませんがね(--;
補足
「意見の食い違う人や、理解しがたい人をどうやって おもいやるんでしょ?」 と、おっしゃいますが・・・・ 自分を基準にしてものを考えれば当然自分の範疇をこえるものならわからないでしょう~ しかし、そういうかんがえかたもあるんだ。とおもえば また違うところでわかる部分もでてくるのでは? そうでないと、自分の考えに共鳴できる、賛同できる人以外受け入れられないということになるんじゃないんでしょうか~? 「生きてて理不尽さを感じたことがある人はこう言いきれないところがあるはずです。他人をねたんだり、うらんだりすることって極々普通だと思います。」 そうしてまいがちだ、ということは否定はしません。 ただ、それを普通だとは認識していません。 そうしてしまいがちなことも認めて、そんな部分の自分も いると自分自身で認めた上で(欠点)いろんな人と かかわっていけないものか? ねたみ、恨みの感情をいだいていることをかくして 上っ面で、愛想の笑みを浮かべながらたてまえの関係を つづけるほうが、おかしいと言いたいのです。