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頼朝が義経を嫌ったのはどうしてですか?
義経は平家追討の功労者だったのに、平家滅亡後まもなく仲たがいをしてしまいました。 実の兄弟なので多少の行き違いがあっても話せばなんとかなるとおもうのですが、両者の関係が決定的に悪くなった原因はなんでしょうか? 人間性によるところが大きいのでしょうか、それとも政治的なものでしょうか。 よろしくお願いします。
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判官贔屓のせいか、江戸時代以降現代に至るまで義経に人気があり、頼朝はあまり好かれていないようです。このため、ほとんど歴史ドラマのごとき論がでてくるわけですが。 根本的にめざしているものが違う以上、「実の兄弟なので多少の行き違いがあっても話せばなんとかなる」という事にならないと思います。平安時代史を調べると(たとえば岩波新書「平安王朝」)兄弟で政治的に敵であった例はもう山ほどあるわけで。とりわけ新興武士階級の場合、それまでの朝廷の官位の権威ではなくずばり武力をもって支配を行う以上、対立はすぐさま暴力的になります。 また、#2さんなども書いておられますが、その背景とする勢力が頼朝と義経では違います。頼朝のうしろだては関東の武士団で、その中には実は清盛流以外の桓武平氏も多々ありました(とりわけ北条氏)。またこの時点で頼朝が源氏の棟梁であった、というのは正しくありません。清和源氏の嫡流ではあっても清和源氏そのものが諸源氏のなかでは地位が低く、むしろ清盛一党と対立して敗れた義朝の嫡男としての位置がここでは重要でしょう。そういうものとして関東の平氏や源氏をふくむ武士団の共立する将に選ばれたのだと思います。 一方義経はその最大の庇護者は奥州藤原氏で、これは関東とはまたちがった政治勢力でした。 さらに打倒された勢力の「平家」とされているのは6流ある桓武平氏のうち平高望の流れのなかのいわゆる伊勢平氏のうちの清盛に近い一党なのであって、たとえば北条氏と清盛では6代前が同じ、というこの当時としてはほとんど別の一族です。 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm こういうことを考えてみても、小さい頃から一緒に育ったわけでもない、違う勢力の代表である兄弟はもともと潜在敵であったわけです。 つまり、奥州勢力と関東勢力の連合がが西国中心の平氏清盛流と争った、というのが事の真相であり、その際、関東の求めたものはいってみれば関東の独立(というと言い過ぎでしょうが)でしょう。この場合、あくまで敵を倒すための連合ですから、その後は一方が完全に屈服しない限り対立は続きます。北の勢力は関東にとっては放置するには大きすぎる勢力ですから。 というわけで、もともと対立する可能性の方がずっと大きかったので、その通りになっただけでしょう。
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- Bird1979
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人間的なところはわかりませんが、一般的には政治的理由が大きかったんじゃないでしょうか。 1.頼朝の構想は、東国(鎌倉)を拠点として、「武士による武士のための政治」を実現する、ことにあった。 2.したがって京都の朝廷(後白河法皇)や公家勢力とは一線を画したかった。(朝廷・公家の力と妥協・利用した平家の二の舞はゴメン) 3.にもかかわらず、義経は後白河法皇から官職(=アメ)を与えられるなどして、次第に朝廷に取り込まれていった。 ゆえに、頼朝の構想にとって義経は障害となった。 また、このほかにも 4.頼朝に不満を持つ武士団が、義経や範頼(一応彼らも義朝の子=源氏の嫡流)をかついで謀反を起こす可能性もある。つまり、頼朝にとって、同じ父の血をひく義経や範頼は潜在的な敵であった。(当時の武士社会では血縁が重視され、地縁が重視されるようになるのは室町時代初期=南北朝期からといわれます) 5.さらに、義経には幼少のころ身をよせた奥州藤原氏という「大国」をバックに持っている。鎌倉に作る武士政権を全国政権にするには、いずれ奥州藤原氏との対決は避けられない。頼朝+北条氏(関東武士団)に対抗する形で、義経+奥州藤原氏コンビが誕生すると厄介だ。 以上が通説として、原因といわれています。
- Zozomu
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頼朝は、 同じ棟梁となれる血筋で、 しかも自分より人気があり、 戦で手柄を立てている義経を嫌った と言うのが一般的な説のようです。
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