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なぜなら私は美しい
- 人間知性の獲得と文明の建設は神の恩寵だ
- 私は美しいという理由で人間知性の獲得や文明の建設が神の恩寵であると主張しています
- この質問文章は、美を持つ存在である私が人間知性と文明の進展に神の恩寵があるという主張をしているものです
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われわれ日本人の神観について 次のように考えます。 ☆☆【Q:神道を神学するにあたっての手法はなんですか?】 回答No.7) http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6862707.html 日本人の信仰――かんながらのみち――は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると考えます。 いわゆるハツクニシラシシスメラミコトとして取り立ててみました。紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近のことだと捉えます。 このときにこそ 次のような社会における人びとののぞみに満ちた動きが見られたのではないでしょうか。 ▲ (十七条の憲法 第一条) ~~~ ・・・上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というのも 崇神ミマキイリヒコは おそらく市長であって 社会はまだ二階建ての構造にはなっていなかったと考えられるからです。つまりお二階さんという意味での《お上》ではなかった。 そのときの歴史的人間および歴史的社会にもとづき 《シントウの原形またその確立》について 次のように考えます。 § 《ネコ‐ヒコ》連関と《イリ》なる歴史知性の誕生 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。 そうしてある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めた。祟りという認識でしたから 祀れば(オホタタネコをして オホモノヌシのカミを祀らしめれば) 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシについての記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子であり 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。 これは――つまり ネコとヒコとは―― 一人の人の身体と精神とに当てはめられるでしょうし あるいは 市民政府として 市民一般と 市長および公務員とに やはり当てはめて捉えてもよい と思います。つまり 社会形態としても 確立したかたちを採り始めたと考えられます。 すなわち この《ネコ‐ヒコ》連関は そのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。 崇神(いわゆる天皇としては 第十代)ミマキイリヒコイニヱの《イリ》であり《ヒコ》であり 歴史知性というのは 人のきよらかな自然本性にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。 あるいは 目の前の現実の世界にそのまま――理屈抜きに もののあはれなる境地のもとに――《入り》してもよいと考えます。 その以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。 アニミスムないしシャーマニスム(たとえば 卑弥呼を想え。つまりそれは 崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀の出来事である)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。 原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(時間的な・相対的な)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活 そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに(つまり現代人ともあたかも同じように) 営まれていくと言えます。 (潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。 かんたんですが この記述をもって 神道の神学の出発点と考えます。 その心は 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトも いかにスメラミコトと言えども カミ(オホモノヌシ=ヒトコトヌシなるカミ)ではないということだと思いますが いかがでしょう。 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~ モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主) コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主) ↓ ↓ ↓ 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 世界に《イリ》した知性なる人間の その世界における位置づけが重要だと考えます。 《ひと》と《かみ》との間のへだたり および 近しさ このことが重要ではないかと。 スメラミコトも 仮りに現われた仮りの存在としてカミと呼ぶことはあっても(ほんとうは ないはずですが) カミなのではないということ。 もしそうでなくなるとすれば それは 別様の神学になるだろうと捉えます。 いかに多くのカミガミが現われても それらはすべて《オホモノヌシ=ヒトコトヌシ》としての唯一なるカミのもとにまとまっている。こう捉えます。
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- ggr4r
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「なぜなら私は美しい」←何処が?・・ 他人を罵る人が美しいと感じる者は悪魔しか居ませんよ・・
お礼
ののしっていないよ。 激励して励ましているんだ。 かわいい子リスちゃん。
お礼
面白い話だよ。 研究用にとても参考になった。 今回試しに崇神天皇という伝説上の人物を検索してみたが、実は以前から私には関心があった。 私は神との面会を、神学の整った西洋に合わせて精霊との面会と認識している、ところが西洋の精霊の概念と完全に混同すると、日本の神様がぷりぷり怒るから国産のポケモンになぞらえてポケモン交霊術と表明している。 君の言う憑依型の典型が私だ。 この呪術を採用するのは、永遠の生命の源を、よりによって死者の国「あの世」と定義する通説を回避して、死の儀式を円滑に通過するためだ。 ここで私、畑茂夫が観念を通過して聖霊として天界で畑茂夫を名乗るとき、その人間が神の世に遣わした聖霊は私を「お父さん」と呼ぶ。 私は父を自負する立場から聖霊をセレビィと呼ぶ。 人間 畑茂夫/聖霊 セレビィの関係だ。 ここまではいつも言っている通り。 初お目見えの面白い証言をしよう。 私の表現する相関性にのっとって、 人間 崇神天皇/聖霊 アマテラス こうなっているんだ。 私は普段からアマテラスさんを幼馴染としてジラーチちゃんと呼んでいるけどね、普段シャーマンとして舞い込む仕事の中には、悪霊相手の肉弾戦よりも、神前の対話が明らかに有効な場合があって一時期神主さんとかの営業免許が切実にほしかったが、その代価案としてジラーチちゃんとのフェアリーフュージョンに崇神天皇というみことのりが出てくる。 ジラーチちゃんが私をお父さんとして甘えると、ジラーチはアマテラスとなり私が崇神天皇のよりわらになる。 この状態は仏教の瞑想が先人と一体になる追想の一種であるのと同じ状態で、ベットで硬直した私を家族が見つけると救急車を呼ばれかねない体を張った呪術だ。 これは、神々の議長能力のあるアマテラスさんでなければ解決しない場合に行われ、神々の対話に参加できない私には降ってわいた災難だが、仲の良い幼馴染なんで悪い気は一切しないよ。
補足
ところでね、人間畑茂夫の意志はあくまでも人間の意志だが、聖霊セレビィは神の意志を持っているんだ。人に始めて明白にする「ときわたり」がその資質で、時間の作用で現象を意思のまま操る。 ジラーチちゃんをエスコートして死屍累々とした古戦場にデートで遊びに行って、荒涼とした風景にセレビィの時間作用が働きかけると、焼け野原に草が生え、泉がわき川が流れ、山が隆起し、森林となり数万年の時が見る間に流れる天地創造のごとき生命の回復を目の当たりにする。 これは以前さんざんやった地獄めぐりで、招待状が届いて後々に訪れると、里に水田ができ、古戦場で戦った鬼たちが住人の先祖として祀られていたりする。 結論が喜びでも、それを意図した神々はともかく、戦場に落下傘降下する私は、どうなるかわからない乱闘で奮戦する仮面ライダーだよ。