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文学作品の普遍性について
「文学作品に普遍的な価値がある」という通念が あるようですが、何を根拠にそういうことがいえる のか教えてください。 認知心理学の研究では、読書の際にテキストの内容と自分の知識(記憶)を参照しながら読書をおこなっているといわれています。つまり、ロラン・バルトをまつまでもなく、知識は人によって違うので、テキストから読み取る意味は人によって違うことが科学的手法によってしめされています。 また、文学作品が広く読まれるかどうかも、書かれた(語られた)言語が国家語かどうかが影響しているように思います。琉球語で書かれた組踊りの戯曲について論じられることがすくないです。クレタ文明の文学について語られないのは文字が解読されていないことと無関係とはおもわれません。 また、東南アジア文学や南アジア文学について日本で語られることが、アメリカ文学に比べてすくないのは、その地域についての知識が少ないため、深い意味を読み取れないということも影響しているのではないでしょうか。 イーグルトン『文学とは何か』でも、文学に普遍的価値があるということを前提にはできないだろうと書いています。 文学作品の評価は時代によって異なるように感じています。『竹取物語』は、中世にはあまり評価されず、本居宣長によって評価されることで再評価されるようになったという記述を読んだことがあります。同時代には受け入れられたけれども、今日では高く評価されない作品があるようです。また、映画では、「キネマ旬報」のオールタイムベスト10の上位のほとんどが、その年の1位になっていません。
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文学作品の普遍性と作品価値の普遍性を取り違えてはいけません。 作品の価値付けをするのは自由ですが、それを批判するのもまた自由なわけで、所謂そういう場が設けられるという事が重要だということです。 ご質問の内容が既に回答になっていると思います。
- kaienn
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私の浅い知識を考えですが・・・。反論前提で書かしてもらえば・・・。 文学作品に普遍的な価値があるというのは、人間の普遍性ということではないでしょうか。人の価値観は時代によって変わりますし、人それぞれが違う価値観を持っています。性に奔放である生き方がいい、力を抜いて生きていてもいい、群れないであっさりとした人間関係で生きていく・・・(ちょっと昔のJ文学みたいですね)しかしこれらはあくまでも時代性と関係あると思うのです。 いくら時代が変わっても、どんな人でも嫉妬する感情はあるし、人を殺せば罪の意識にさいなまれるでしょう。これを文学に表すことが「普遍的な価値」なのではないでしょうか。だから漱石は読み継がれ、ドストエフスキーが読み継がれるのではないでしょうか。今『なんとなく、クリスタル』を読んでも、「・・・だから?」ってなりますし。 『竹取物語』の竹の中からかぐや姫がでてくる(=出産)、育てあげて結婚を申し込む男たちに無理難題を出す(=男性を惑わせる女性)、やがて月へ帰ってゆく(=愛する者との別れ、死)、不老不死の薬を残していったこと(=人間の永遠の願い)という具合に象徴できると考えれば(かなり詭弁かもしれませんが)、人間の本来持っている願望や価値観を描き出していると考えられないでしょうか?人間の本来持っている性質や創造性を書いた文学が普遍的なのだと私は思います。
文学作品の価値は主体的なものなので普遍性はありません。
お礼
回答ありがとうございます。 文学作品の価値づけをしている人が何を根拠にしているのか、理解できないことを多く経験しています。 価値付けをしているある人の評価が主観的であることを科学の手法で証明した著作など、ご存知でしたら教えてください。
もし、古代から現代に到るまで、一番のベストセラーであり続けた最も普遍性のある文学があるとすれば それはキリスト教のバイブル「聖書」です。 バイブルは読んでいると何て文学的なのだろうと思いますね。日本人はあまり読んでいる人いないので ピンと来ない人多いでしょうが、世界中で最も 愛され、説得力があり、吸引力があり、浸透性があり 座右の書足りうるものです。今のところ聖書に太刀打ちできる文学は皆無でしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 「聖書」のうち「新約聖書」はユダヤ教徒はバイブルとしていないわけです。 いま、イスラム圏の人口の増大がキリスト教圏の人口の増大より多いため、将来はイスラム教が世界最大の信徒数を持つ宗教になるといわれています。 そうなれば、人は「新約聖書」より「コーラン」を重視する可能性はないのでしょうか。
- walk-hawk
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こんにちは。シロウトが専門家相手におこがましいとは思いますが、少し感じたことを。 「普遍的」であるということには、過去・現在はもちろん、未来もまた含まれると思います。人間の本質的な性質はどの時代であれ変わらないでしょうが、時代に応じて、また階級によって、思想や価値観はクルクル変わります。戦後の日本や中国の文革のように、ある時を境に180度変わってしまう場合もあり得ます。ですから、ある時には非常な高評価を博していた作品が、何年か後には誰もその名を知らぬ、ということも、不思議ではありません。しかし、そういう作品が、埋もれたきりにもならず、何年か後、ふとまた読まれるようになれば、それにはいくらか「普遍的な価値」があったと言えるのではないでしょうか。 数十年、あるいは数百年のブランクを何度か挟んでも、結局消滅せずに、読み継がれて来た作品には、「普遍的価値」があるのではと思います。そういう作品が文学に存在する、だから文学は普遍的価値を有するのだ、という論は、いわば理想論であるように思います。書いたその時点ではその作品に「普遍的価値がある」かどうかは、誰にも分からないでしょうから。 今現在、まったく評価されていない作品も、何年か後には傑作扱いされているかもしれません。あるいは琉球語やクレタ語の文学も、いずれそうならないとも言えません。評価は時代毎で変わります。しかし、忘れられたり笑われたりする時を経験しながらも、結局なくならず存在し続けた作品が、真に普遍的価値あるものと言えるのではないでしょうか。普遍的価値の有無は、一時代だけでははかれないものと思います。
補足
回答ありがとうございます。 私は文学に関しては素人です。 今は国会図書館などがあるので、残っていること自体価値があることの証明にはならないように感じます。 昔の文学作品の場合、焚書にされて残っていない作品というのもありますが。 時代によって価値が変わるということ自体は「普遍的」な価値のないことの証明になっていないのでしょうか。
- yano_cha
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ご質問内容ですが、「普遍的な価値がある」と「普遍的な(高い)評価をされる」がごっちゃになってしまっていないでしょうか。 価値があっても、評価されるとは限らない。価値がなくても、売れてしまえば評価される。 こう言ってしまうと価値や評価について考えるのがばからしくなる気がしつつ、でもその中にやっぱり「なんと言われようと存在する、普遍的な価値」があるということを、言いたい言葉のような気がします。 肝心の >何を根拠にそういうことがいえるのか教えてください。 は、私にはちょっと難しいですが。 文化、価値観の違いから、全人類に普遍的な価値が文学にあるとは私にはちょっと思えませんが、もう少し狭めた範囲でなら同じ価値はあり得るんじゃないかなー、とは思います。
補足
「普遍的な価値がある」といっている人自体が、本が売れていることを根拠に「普遍的価値がある」という主張をしていることがあります。(「源氏物語」や「南総里見八犬伝」が今でも読まれているから価値があるという主張など) 質問欄に書いたように、文章の受け取り方は、人によって異なることは科学的に示されていますし、テクスト論の立場は作者の意図を重視しません。 文学作品の価値が一つに決まるという通念の根拠からして理解できません。
著名な文芸評論家の方と、ときどきお茶のみを しますが、彼が言うには、文学作品というのものはいったん売れてしまえば、構成がめちゃめちゃだろうが、「てにをは」が確立していなかろうが、ハチャメチャなストーリーだろうが、非常識なものであろうが 「売れたもの勝ち」なのだそうです。確かにそうですね。基本を守っていようがいまいが、売れてベストセラーになれば、それは時代の寵児としての地位を 確立した事になり、一種の普遍性を放つ文学作品足りうるわけですよね。ご指摘のように美人であることも 一つの才能であり、それを買う人々がそこに価値を 認めているから、勝ち組なのですよね。逆に、歌も芝居も下手で不美人の子でも売れる時代なので、 正に「何でもあり」そこに普遍性を見出すことは 難しく、現在売れている人がその時代の普遍性の 見本なのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 井伏鱒二の「山椒魚」、「黒い雨」「ジョン万次郎漂流記」が盗作だという指摘があるのに、出版社も研究者も黙殺し、池宮彰一郎や田口ランディの盗作は出版社が本を回収するという行動にでるのなどの違いはこのあたりで説明できそうですね。
補足
回答ありがとうございます。 「売れている作品には価値がある」ということですね。
昔は英米文学の日本語訳のものは結構多かったのに比べ、日本文学の英訳ものはあまりありませんでした。そしてその頃には、日本人の書いた本なんて欧米人には受け付けられないよ、みたいな考えがあったと思いますが、現在では、続々と和書が英訳されて、欧米でポピュラーになっているものが数多いです。日本人が 欧米化してきて感覚があまり変わらなくなってきたという事もあるでしょうが、それにしても「源氏物語」のようなものが外国で読まれていたりというのは 日本の地位が上がり、日本の国の古典文化を理解したいと思う外国人が増えたとも考えられます。 東南アジア文学や南アジア文学について日本で語られることが、アメリカ文学に比べてすくないのは、その地域についての知識が少ないため、深い意味を読み取れないということも影響しているのではないでしょうか。 それもありますが、そういった国から、本を輸入してもあまりメリットはないとか、経済的、政治的要因も絡んできたりで、実際にアジア圏の文学が大々的に宣伝された場合、大ヒットするという可能性もあるかもしれません。無名の小さな文学賞などを取った方の作品ばかりを集めた本などを読むと、素晴らしい文才をお持ちの方ばかりで、今世紀のベストセラーなんかよりほっぽど文学的価値の高いものが多いです。 才能があっても、作家デビューできない人は山ほど いるし、それらに普遍性がないとは言い切れないと思います。世の中で普遍性があると認められる為には 様々な政治的要因、コマーシャル力、経済力、売り出し方のハウツーなど、文学以前の問題がとても多く 絡んできます。
補足
経済的要因ですか。なるほど。 ここは質問が800字以内なので、質問文にかけなかったことを以下に補足させてください。 「源氏物語」には「須磨返り」ということばもあり通読した人は少ないことが予想されるのにすぐれた文学だといわれています。日本人に愛国心教育が必要だという人が通読(ひらがなばかりで句読点もない作品なので通読できる現代人が多いとはおもわれません)もせず、日本が優れた国家であることを示そうと、「源氏物語」の評価を押し上げている影響もあるのでは、と思っています。 「すぐれた」文学作品がどういうものであるかという定量的な研究も私は知りません。(文学作品に関する定量的研究はいくつもあります)あるのでしょうか。 また、本の売れ行きなどは、筆者が美人で若い女性だとあがったりする効果があるように考えられます。若い女性の書いた本(文学に限りません)は帯に女性の顔写真が載っていることが多いことなどが、それを示しているように思います。
お礼
回答ありがとうございます。「人間の普遍性」という語も安易には使えないようになってきたように感じます。 クローンによって増やすことが主流になれば、女=妊娠して産む性、という見方はゆらぐと思います。 また、ステロイドを服用することで肉体改造できることが、オリンピックの記録によって明らかになっています。 科学が進歩することで「人間の普遍性」なるものが将来も「普遍」とされるのでしょうか。