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統一教会の原罪の解釈の仕方とキリスト教の原罪の解釈の仕方
統一教会の原罪の解釈の仕方(ネット上にある原理講論から引用しました) 罪を犯す前、アダムとエバは裸でいても恥ずかしく思はなかった。しかし、彼らが堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉を持って下部を覆ったのである(創3:7)もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかと言えば人間は恥ずかしい所を隠すのが本性だからである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったためで、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。 統一教会では裸を恥ずかしがるというより、下部をあらわにすることを恥ずかしがっており、キリスト教では裸であることを恥ずかしがっているように見えます。ここで質問です。統一教会では葉で下部を隠したということを上記のように詳しく説明していますが、キリスト教ではあの創世記にある「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」という部分で、なぜ恥ずかしがって先に腰の部分を隠したのですか?キリスト教の場合ではここはどう解釈しているのですか?
補足
>聖書は部分的に切り離して解釈するものではありません。あくまで全体的な面から聖書(神)は何を語っているのか、考察すべきです 確かにそれは私も思います。原理講論は聖書を部分的に引用して、都合の良い様に作られているようにみえます。 「先祖の恨み」などとよく統一教会では言いますが、聖書の申命記の18:11では「神」が、 「呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。」 と言っています。これは「神」の命令を無視していますよね?このようなところがあると疑問を感じます。 神が言ったこととしてアダムとエバの問題のところを引用するなら、この申命記の神の言っているところも無視できないはずでは?と思ったりします。