かなり素朴に
私の場合、「所有」というとき、主体となるものがその主体とは別個にあるものを他の主体に対して排他的に所有するとき、のことをいうように思います(もちろん共同所有の場合もその共同体の他に所有可能な主体があるという状況を考えます)。
なので、
【1】登場人物:「主体」と「あるもの」と「その主体以外の(所有する行為をなし得る)主体」
【2】「所有」:主体がすることの一種で「あるもの」を「その主体以外の主体」に対して排他的に利用することができる状態
【3】暗に含まれていること:「その主体以外の主体」がいるということ。また、「その主体以外の主体」が「あるもの」を所有していないということ
ですから、たとえば、
『身体が、「わたし」を所有している』
状況は、「所有」というものを拡張して、唯物的に、
身体という「主体」を考えて、「あるもの」を身体が取りうる「わたし」という状態に対応させ、
他の身体が取りえないという理由から「排他的にもつ」という意味合に拡張している
という意味で、「所有」しているといってよいのではないでしょうか?
ただし、私は勝手にfishbowl66さん質問に下記のことが暗に含まれていると考え、この点についても議論が必要と考えます。
【「所有」は包含的なもので、「主体」は「所有」することにより「あるもの」を自己の一部とするような感じがするにもかかわらず、逆に、「あるもの」が「主体」を「所有」するようなことになることもあるのでは?特に物質で構成されたものの上に現れる特性のようなものが「主体」となりうる場合には相互に所有するような構造になるのでは?】
これについては、特に【1~3】の構造をもてば人間の認識として「主体」のようなものを設定することができて特に相互に包含的であってもおかしくないと考えます。そして、そのような構造を持つ場合、他から見ると「所有」する方もされる方も不可分な存在「個」として見えるのではないでしょうか?
補足
いろいろ考えざるをえない、ご回答でした。 最後は、「労働」とはなんだろう?と・・・飛んでますね 他者の存在は、私の、今のプロフィールの疑問と同様、 「所有」に関係しているような気がします。 私は、考えることが好きですが、身体は眠りたいのかもしれません。 遅くなって済みませんでした、有難うございます。