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逃避への意志
死からの逃避,そのために 神を作り,宗教をつくり,倫理を作り,模範を作り,あるべき姿を作り, 期待される像をいくつもつっくてきました。 死を考え出した時に思考停止に陥らず,かつノイローゼにならない処方箋のようなものはないでしょうか。 実は,友達が生物系の学生で鬱病になってしまったのです。 教官との相性が悪かったらしいのですが,私は命を研究のために取り扱っているとどうしても無神論者にならざるをえない状況におかれるような気がします。 私も研究をやっているとどうしょうもない現実の無意味さに襲われることがありますが,なんとかニヒルに無意識に差別したり優越感に浸ったりしてやりすごしています。私は釈迦にはなれないし,悟りも開けそうにありません。 テロ事件があったときも感情が死んでいました。 ペットが死んだ時はあんなに悲しんで涙したのに。 世界が良くなれと祈る時はいつも平安なときで,安全地帯にいる限り祈る気持ちは嘘偽りかと思えてしまいます。
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greatcatさんは、もしやなにかの答えを期待しているのでは ないかもしれません。宗教や科学や政治の問題が、さまざまに 「いま生きている」あなたを危機におとしいれ、不安をしいて いるのでしょう。その声にならない叫びのようなものです。 しかし、ふと何故あなたがここに投稿されたのか思い起こして ください。あなたは心ならずもSOSを発信され、そして私は どこの誰かもわからないのに、あなたの言葉を深く受け取りました。 私はこの言葉について、私の生き方で生きようとするでしょうし、 簡単に忘れはしないでしょう。 さて捕食される生物は、自分が食い物だとおもって生きているわけでは ありませんよね。するどい歯によって食われているときでさえ、自分のために 生きています。けれどその死が食らいついた生物を生かすのです。 死をさしださなくても、誰かのためになど考えたこともない生命系が みごとに生命同士をいかしています。 個人的な感情や、認識をこえたところにこそ、本来の生命の任務があるのでは ないでしょうか?わたしがあなたの言葉でいかされるように。あなたの 不安や認識の外側に、理解すべき生きる原理があるのではないでしょうか。 たとえ自分にとって意味のないことでも、あなたが生きているだけで 救われる人もこの世にはいるということです。
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- sokura
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私も「死ぬのはイヤです」。しかし、怖くはありません。なぜ「イヤ」かといえば、「痛い」からです。「痛い」のがなければ、「殺されようが病気で死のうが仕方、ないな」と思っています。 そして、何があっても「死ぬ」んだから、いいよ。とも思っています。このさき、次第に老いて、とぼけて、汚くなって…。「死ぬ」ことも「老いる」ことも、本当に「イヤ」なことですが、訳のわからないうちに、いきなり「死」にます。きっとそうなると思います。 「死」は「死」んでみなければ、経験できないので、どんなものかは知りませんが、それを考えることは、しかし、「未来」を夢見ることでもあるのです。 「よりよく死にたい」、世の哲人は、そう思って哲学に励みました。あの世で神様に「よりよく生きたからこそ死ねたのだ」と言ってもらいたかったのかも知れません。 「死」を考えることは、したがって、未来を「夢」みることです。恐れる必要はありません。アメリカの反撃は、どれくらい過酷なものになるのだろうか、と明日を考えるのと同じ「意識作用」です。だからこそ、人は、この意識作用から免れることが出来なくなるのです。どうしても「イヤ」なら、意識させないことですが、 人が明日を夢見るのは、宿命です。こうした意識作用と、毎秒毎秒つきあっていかねばなりません。そして「老いて」、誰もが哲学者になって死の間際、言うのでしょう。 「これでいいのだ」--カント。 私もこれでいいのだ、としか言いようがないような気がします。ですから、「死」を考えることは、逃避ではありません。ましてや、「闘い」でもありません。呼吸をするような、そんな日常茶飯事の出来事です。 それでもつらい、とすれば、「そうだ、仕方がない」とつぶやいてみてください。そして、「誰でも死ねるんだから、いいよな。完結しないのに、完結するんだから」と諦めてみてください。 私が言いうるのは、この程度ですが、…。
お礼
私の文章のつたなさで迷惑かけてごめんなさい。 存在の無意味さは感じるもので,死を考えるのとは少し違います。 死の恐怖から逃れたくて神様を作った訳です。 私の意味するところは死の恐怖から逃避したいがためにいろんなものにすがることです。 最後に,私の場合はもがき苦しんで死ぬと思います。未練たらたら生への執着を残して。 その姿を見て観念的死から体感的死を他の人の脳裏に焼き付けて死んでいければと思います。
- caballero
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シロクマからの逃げ方があるように、精神に対する圧力からの逃げ方もあると思います。しかし、あなたの友達の経験するものが、精神の内面変化である場合、同じく変化をもって対処するべきだと思います。 水槽の水かえをしている時に、ネオンテトラを一匹、こぼしてしまいました。二階の窓から排水していたので、当然行方不明です。あっっ!?ってかんじですが、殺してしまった気持ちも薄く、細工ガラスを割ったような、気分になりました。これは倫理の喪失ですか?意志があるかのような反応をみせる植物、大事にしたくなる綺麗な石とか、舞台装置と俳優の違いのように、精神の変化は、どこに視点を置くかということで大きく変わると思います。 ただならぬと思われている自分の死は、見えないところで水がこぼれるのと同じ事です。 なんともいえなくてすみません。
お礼
回答ありがとうございます。 シロクマからの逃げ方は相当の訓練と修行を積んだ人でないと厳しい気もします。 死から逃避するのもそれなりのテクニックが必要ですね。 その友達は本人いわくかなり前からそういう傾向はあったらしく 家系もそういう人が多いといってました。 結局,私は自分の都合のいいように生きていくのかな。
- i-junkie
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こんにちは。実際にお話したわけではないので、greatcatさんの一つ一つの言葉が、何を意味していて、何に由来するのか、私に完全に理解できるわけではありません。そうした空白は私の予想で埋めていくほかないのですが、あなたが考えていることと、すれ違っていたらゴメンナサイ。 私は「神様が人間に何か生きる意味を与えてくれている」とは思いません。全ての存在は、存在する価値を持って生まれたわけではないと思います。つまり、「私は何のために生まれたのか」と考えても、本当は「何のためにも生まれていない」のだと思います。 しかし、人間は意味付けできます。他の存在やシンボルに意味付けするだけでなく、自分自身をも意味付けできます。そして、唯物論的には無価値かもしれない「生」にも「死」にも意味付けできると思います。「全ての存在は無価値である」という命題からでも、生きる意志を生み出すことは可能だと考えています。 でも、そのためには何かきっかけ、魂を揺さぶるような経験が必要だと思います。それは万人に共通のものではないでしょうね。私の場合は、アラスカの木々でした。説明はできないですが、その雰囲気に触れて、私は宇宙のなかでちっぽけな存在である、しかし、それを精一杯、無心にもがいてあがいて生きてやろう、と感じました。生きていて、大気を感じ、大地を踏みしめれることは素晴らしいことだと嬉しくなりました。 死は、これは何か星野道夫に関連した言葉であったかと思うのですが、次に生きるものたちへ生きる場所を譲る行為だということです。死ぬことは決して無ではなく、空間や想いをあけわたすことであって、「生」の前に戻ることだと思います。とはいえ、痛いのや辛いのはいやですけどね。 生き物を扱う学問であるからこそ、命の不思議、素晴らしさは感じていたいものですね。また、人間はその命を奪わずにはいられないのですが、痛みにマヒせず、痛みを見つめて、生きて死ぬのだと思います。大変だと思いますが、ご学業、頑張ってください。 なお、アエラ・ムックで「死生学がわかる。」という本があります。哲学をもともと専攻されていない方には読みやすいかとも思いますので、機会があれば手にとってみてください。また、すでにご覧になったことがあるかもしれませんが、カーソンの「センス・オブ・ワンダー」、ぜひご一読ください。
お礼
回答ありがとうございます。 ふと思ったのですが,屠場で働いている人などは生き物に対して, 命をいただいていると言う気持ちは強いのかなと思います。 私は命を奪うのが嫌で嫌でたまりません。それでもお肉は好きですし お魚も大好きです。殺生を人任せにしてきたことは確かです。 そういう生命に対して私は優しいんだというポーズをとってきたのかと思います。 魂を揺さぶるような経験も時とともに薄くなりました。 全ては自然の流れに任せようと思います。 その自然と言うものもこっちの都合のいいようなものかな。 災害はいやですし。
お礼
回答に感謝! 人間も食物連鎖の中にいるのですね。 これからは,ご飯を食べる時にもうちょっと感謝の気持ちがもてればと思います。 生きるためには,他の動物を殺さなければならないという実感がもてません。 人間(私)を食物連鎖の頂点においておくのには余りにも尊大すぎますね。 私は日本の農業を軽視する考えに反発を覚えます。 自給自足は生きるための大原則だと思います。高度情報化社会ではだれも聞きはしませんけど。情報の洪水によってTVをみる感覚は麻痺しきってしまいました。