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偶然って何ですか
私の性格がおかしいのか、他の人より異常に猜疑心が強いようで”偶然であることを信じない”様な気がします。 又、物事には必ず必然性があって意味がある。 と信じる性質の様です。 このためか、全般的な人の解釈とはズレた理解をしやすい様に感じています。 こうした性格はどうして形成されるのでしょうか?
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こんにちは。 興味深い御質問ですね。難しいことは分かりませんが・・・。 一個人が何事も「必然である」と受け止めることと実際の「現象としての」偶然か必然かは別次元の問題かと思われます。ので 心理学カテですし性格の形成、というかたちで御質問されておられるので先に、こちらから考えてみました。 何事も必然である、つまり因果応報という考えで物事を受け止めようとする思考形態は宗教分野においては特に顕著にみられますね。 私ちと疲労気味なもんで、いきなり飛躍するようですが宗教の、そもそもの出自というものを探ってみると、これは、この自然世界への恐れ、生きるうえでの苦しみや不安、こうしたことが母体になっているでしょう。 そして宗教には必ず何らかのストーリー性、意味付けといった側面が強く伴い易い。 そのせいかどうか往々にして宗教家または宗教に熱心な人というのは信念と言えばかっこいいかも知れませんが、まあ要するに思い込みが激しいタイプが、よく見受けられる。そして大概、何らかの深い悩みを抱えておられたりする。偉くなった人は、どうか知りませんが・・・。 これは別な言い方をすれば(また少し飛躍気味に言わせていただくと)「身を守ろう」とする動きに入って行きやすい動機がある、発展して事象の先取りを図ろうとする、(テニスの先読みも入りますか?)早い話「心配性」と言ってもいいのかも知れないですが、これが病的に嵩じてきますとアラ不思議、何故だか「攻撃的」になってきたりする。 或いは「心配するのに疲れ果て」有り難い神サマに全ておまかせしてみたり、とか。 身を守らなければ、すっごい不安、そんなとき人は気持ちに余裕がなくなりますよね。どういう仕組みになってるのか生まれつき「防御本能」が強い人もいるし。またこういう人は「攻撃は最大の防御」と心得ていたりする。そのため些細なことでも過剰に反応する傾向が出てきたりもする。 ただし、こうしたタイプの人が自分自身を、こういうタイプである、としっかり自覚してるかというと、そうでないことのほうが多いかも知れない。「不安感」が強い人ほど気持に余裕がありませんから冷静に自己観察なんてできない。 本来なら自分を守ろうとする気持ちが強いからこそ敏感に防御・攻撃的態勢を調えようとしたはずなのに皮肉なことにエスカレートするにつれて行動がズレてくる。自分の置かれた情況をクールに分析することができなくなるからでしょうか。 もしも本当に御質問者様が「異常に猜疑心が強く必然性と意味を信じ全般的な人の解釈とズレた理解をしやすい」としたら(ちょっと信じにくいですが)上記に挙げた理由が当てはまる、かも知れません。 別の角度で検討しますと、その必然性と意味が妥当なものであるからには、それを判断したときの当人の心理は冷静にして沈着でなければならず、ズレなど生じるはずもなく「常軌を逸した猜疑心や攻撃的傾向」などあってはならないわけです。とは言え、そのズレを無理にはめ込むために自分の側ではなく周りのほうを変えさせようとする人がいることも、ままあるわけです。 蛇足ですが「現象」としての偶然必然というものを少し考察してみましたが厳密に詰めれば詰めるほど、どこまでが偶然で、どこからが必然かという境界も非常に煩わしい問題を含んでいると思われます。 たとえばコインを振った。その瞬間の腕の振り具合、手首の捻り具合、果ては大気や気圧の具合まで(よく分かりませんが)全ての条件を全く寸分違わずに行ったものであれば、ず~と片方のみが表になるというのは何かあるんじゃないかと思いたいのは人情です。と言うか何かあるんでしょう?? しかし何かの結果を、これは必然であり有意味性が認められる、と定めるためには、およそ現実的でない諸条件をクリアしていかなければならない。のではないでしょうか。 したがって、ここ心理学のカゴにはそぐわない議題になってしまうんで、これくらいに・・・(ホントは私だって分からない!) でも個人的には過去を振り返って「あ、あの時こうしてたらこうなってなかった」と思うことはありますよ、たくさん。これがこうだから可能だったこうじゃないから不可能だった・・・で結果が必然的だと思えるから遡って、あの時のあれは必要なことだったのだなあと思えるかどうか、ですよね。それは確かめようがありません。個人的に気持ちは分かるんですけどね。やっぱ自分は、こうなるべくしてなったんだろうな、だから、あの時イヤでもこうだったんだな。 もっとも私の場合、結果そのものに納得行ってないので「なんかの間違いだろう!?」と、ハメられた感じがしてしょうがないのですが・・・。 結局は、「ある結末を導くために」「必要であった」のなら偶然必然を問うこと自体、空しいわけで。 今度は「宿命って何ですか?」とでも題して哲学カゴへいらっしゃいますか・・・あ、でも、この手の質問、時々立てられてるみたいですね。 あまりキチンと考えられなかったので、かなりイイカゲンな書き込みになってしまいました、失礼致しました。
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- setoren
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ご質問者さまの望んでる回答ではまったくないと思われますが・・・ごめんなさい。 私もまた物事には必ず必然性(意味)があると信じるようになった者です。 子育てをしてわかってきました。 あの時(とんでもない昔。それも自分が子供だった頃)あの行動をとったのはただの偶然ではなく、 今ここに結びつくために必要だったのか、と答えが自分なりに出た時非常にドキドキしました。 紙ヒコーキが落ちるように早く答えがでないので、たいていは忘れちゃうんですが。 こじつけと言われて終わっちゃいますし。 あ、なんで子育てをすると分かってくるかですが、 成長っていう時間の繋がりを見ていると、偶然より必然性で繋がっているのだと私は思うのですよ。 ご質問さまのお礼の中に 偶然と考えるか、必然と考えるかで物事の意味が変わってくる とありますが、必然と考えていると多少嫌な事でも、これはあとでどんな答えで帰ってくるのかな?とちょっと楽しく過ごせます。 ご質問者さまが必然性があって意味があるという解釈をする性格になったのは、その必要性があったからですよ。 なんで必要性があったかは、世の中にそういう人が必要だからです。きっと。
お礼
世の中にそういう人が必要だからです。きっと <言うと愚痴になるところです。 きっと 回答ありがとうございました。
補足
. 皆様どうもありがとうございました。 .
- kaitaradou
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自分あるいは自分の存在に対する確信度と関係のあることではないでしょうか。人によると自分というのは分からないと決めている人もいるし、自分といっているものが自分の所有物だったりする場合もあります。こういう人にとっては偶然も必然も何だか分からないというような感じで一生終えるのではないかと思います。わたしもそのひとりですが、少しは不安でも考えているうちに忘れてしまうか、分からなくてもしようがないやという感じで諦めてしまうのが通例です。あなたの場合には自分に対する信頼感が非常に強固なためにそのように考えることができるのではないでしょうか。
お礼
回答有難うございます。 あなたの場合には自分に対する信頼感が非常に強固な <っていうか自分に対する”不安”感がある者です、きっと。 これも、予想どうりかもしれませんけど。
- vagabond_0710
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お礼を読んで思ったのが、量子力学の世界みたいですね。詳しいことは忘れましたが、光速を越えたというか、一瞬でつまりテレパシーで情報が渡る・・・ようなことが本にありました。そして今では、ニューサイエンスなどがうまれ、科学と宗教と哲学の境目がなくなってきています。そもそもこの世界をカテゴリーに分けたのは人間の勝手ですよね。その境目がなくなってひとつに向かっていくのは自然だと思います。 >偶然と考えるか、必然と考えるかかで物事の意味が変わってきますよね そもそも「意味」とは何か?(すでに哲学^^;)結局人によって意味の捉え方が違います。なので人によって意味があったり、なかったり。しかし事実は目の前の通りなのではないでしょうか。事実の捉え方も人それぞれだけど。 >実際は不思議な事だらけの様な この世界は不思議なことだらけですよ!何ひとつ確かなことなんてないのでは?こうなるともう心理学の話じゃなくなっちゃうけど…。でも、世の中不思議なことだらけだからこそ、人間は生きていけるのだと思ってます。 >全般的な人の解釈とはズレた理解をしやすい様に感じています。 それこそ人間的な人間だと思いますよ。直観でこの世界を捉える。その直観こそが発明をしたり発見をして世界を開いていくのではないでしょうか。
お礼
アドバイスありがとうございます。 色々考えていると「自分が立てた質問の動機を忘れて」しまいそうなので書いてみます。 まず「サイコロを振る」時、”予期”した目がでる確率は1/6ですよね、それで予期した結果が出れば偶然ですよね。 1/6が10回続けば確率1/100000000以下ですよね。 これって奇跡的なできごとですよね。 でも、結果がよければ幸運、悪ければ不運「善悪がなければ、あくまでも偶然」なんですよね。 この場合、偶然~奇跡の間は、本人の主観による。 別の例ですと、 たまたま気分のセイで石ころを蹴って、ドライバーにあたって死亡事故が起こり、過失どころか相手が悪くて殺人罪になれば「不運」ですよね。 本当は偶然でも”さだめ”になったりする。 この場合、偶然~”さだめ”の間は、運命というべきなのか客観的要因で決定してしまい、本人無力ですね。 いずれにしても”偶然・偶然”という考えは、現実に目の前の事象(現象)に無関心でいられるか否かの問題ですよね。 つまり私は無関心ではいられない小心者のせいなのか”自分のことで何かあれば自分の責任”だから前もって備えたい性格なんです。 それで質問の動機なんですが、普通の人はどの程度まで”偶然”と考えたり、無関心を装うものなのか心配になった。 という感じです。
- vagabond_0710
- ベストアンサー率26% (68/257)
哲学ですね。^^; 例えば、誰かの計らいがあって偶然を装ったとしても、その事実は一つです。そしてその計らいの元は何?なぜあの人はそう裏で計らったの?となれば、その人の心理、状況など全てに対して説明をつけなければなりません。仏教でいう縁ですね。心理学で言えば、心や行動の問題と原因は複雑に絡み合っていて、単純に何か一つの原因を決めることはできない、とあります。哲学的にこの問題を追究していけば、もう人間の存在自体必然なのか、偶然なのかとなって答えが出ないものになっちゃいます。 偶然と必然。実はそのふたつは一つの心情の表と裏に過ぎません。あの事実は偶然だ、いや必然だ、と言い争っても、僕にとって、どちらでもかまいません。ともに同じ事実には変わりないからです。
お礼
回答ありがとうございました。 >ともに同じ事実には変わりないからです。 ところが偶然と考えるか、必然と考えるかかで物事の意味が変わってきますよね。 「少しおかしくない?」 と言われて初めて気になるのです。 コインの表裏を賭けると1/2ですよね。 実際にどちらかが出た時は偶然ですよね。 1/10000・・・・・・ でも同じ偶然なんですよね。 でも1/10000・・・・ が続くと変ですよね。 何かを(私が)間違えている・・・、という気がするんです。 実際は不思議な事だらけの様な。
- kuchu2
- ベストアンサー率22% (36/160)
>こうした性格はどうして形成されるのでしょうか? ↑ コレに答えろというのは、不可能でしょ。(我々はあなたの生い立ちも育った環境も、あなたが何を考えてるかも知らないのですから...) でも、そう悲観したり思い込むようなことではないと思いますよ。 >偶然であることを信じない コレも別に信じたくなけりゃ、信じなくていいんですよ。それでNEKOhaTORAさんが気が済むのならそれでいいんです。(私に言わせれば、最早哲学の域です。) ただ、NEKOhaTORAさんが偶然であることを信じないように、偶然であることを信じてる人もいるハズなんで、そんな人をみてそれを否定するのだけはやめましょうね(^_^) 私は、どっちかと言えば偶然X必然というよりも、物事は、全てタイミングだと思いますよ。
お礼
私はたまにテニスをやります。 あれって予測して予備動作を上手に動いて、タイミングで打つんですよね。 そういえば最近はテニスをやらない。 >そんな人をみてそれを否定するのだけはやめましょうね(^_^) <そういえば私は攻撃的な性格でした。 なるほど、読んでますね。 アドバイスありがとうございます。
お礼
アドバイスありがとうございました。 知る人は知るですね。 できましたら「補足」のとこ教えていただけませんか?
補足
sirayukihimeさんの回答は”一般的にみられる、又は(信じられない)が十分有り得る”心理なんですね。 実は”哲学は虚しい?”というという質問を出そうかと思っていました。 内容は、慣れた日常から脱して、偶然や意外な動機に触れ合う”例外的な事象”を求める行動が有意義だから・・・というものです。 尤も出しませんでしたが。 質問を立てたら宜しくお願い致します。 一つ、お尋ねしたい点があります >結局は、「ある結末を導くために」「必要であった」 <とは「自分が利用された」という意味では無いですよね?