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今までの中流家庭というものが次第に下降気味となり、一方で大もうけする人間もいる。それがさらに進むと、勝ち組負け組がハッキリするような二極分化が進むように思われます。それを嫌って、自分ももうけるぞ!と意気込む人もいるでしょう。 そこで思うのは、市場に任せると概ね(すべてがとは言わず)万能なのか?ということです。あくせく働くことで、良いメリットはあるでしょうが、悪いメリットもあるでしょう。また、そうしないと世界規模で捉えた場合日本が世界の国に飲み込まれるという危機を考えるかもしれない。 しかし、ここはそんな悲しい世界なのでしょうか?わたしには、生存競争的厳しさを人間にさえ見るのを悲しく思います。これは、わたしが傲慢だからかもしれません。競争競争という世界、後ろから針の筵が迫ってくるような世界、そんなイメージです。 環境について世界で考えようと会議が行われたりします。それを克服するには、本当に協力する姿勢を見せて、行動する必要があると思いますが、現実は何だか先に行動すると自分が損するような感覚がある。だからと言って、こんな社会関係を辞めませんか?とは言わない社会。 大量に生産し、余ったものは捨て、または再生産する。貧しい国には、分け与える。そうして、お互いを助け合う社会に見えますが、その裏には「助けたのだから、見返りはあるよね?」的な考えもなくもない。大量消費社会は終わらないのか?精神的豊かさが真の効用と認められる社会とは、ならないのでしょうか? *内容と外れるのですが、わたしは、物事を見ているようで、実際はやはり感覚で物事を言うタイプなのかもしれません。それは自分も嫌っているのですが。。そうならない方法なんかはありますか? 論点がまとまらなくて、申し訳ありません。
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まず現代の市場社会のメリットについて考えられるところまで考えてみるべきだと思います。市場は万能か、という命題じたいが少しずれているかもしれません。万能かといわれれば、万能ではありません。 過去からこのことは何度も肯定され、否定され、また肯定される、というプロセスを繰り返しています。最も単純な図式は、市場VS国家というものです。 経済学の祖といわれたアダムスミスは、ご存知かと思います。彼は完全な自由放任主義を問いたのではありません。自由放任主義とは何もかも市場に委ねてしまえということです。彼は、『道徳感情論』という著書のなかで、人間が「共感」能力を持っているのだということを論述しました。 市場を強く唱える人たちは、かならずしも人間の本質を否定してきたわけではありません。いやそもそも人間の社会は競争的だったのです。それは最近の社会哲学的あるいは人類学的アプローチから明らかです。 今の社会はともかく過去が競争のない共同体社会であったかのような妄想に酔いしれていますが、そのような時代はどこにもなかったのです。 あなたが指す競争はお金のイメージ一色ですが、教育ということを考えるなら、これは良いものに見えるでしょう?なぜなら、点の競いあうことは、互いの相乗効果だからです。逆に仲良くみんな50点で我慢しようね、なんていわれたらやる気をなくすのが人間の本質です。現にこれは似たようなかたちで問題になりましたね。 おそろしく矛盾が起きてしまうのは、精神的豊かさたるものが市場社会からも供給されるということです。欲望というのは、社会学的にはそもそも優先順位があるといいます。それはまず生存に近いものから、嗜好品へというかたちです。 あなたを含め、私は日本人です。日本ではすでに物質的に豊かです。ところがそれを所与にして議論してしまうと、市場から精神的安定が与えられていることがすでにどこかへ飛んでしまっています。 まず極端なかたちから想像してみるべきです。自分の周りに今スーパーが消え、コンビニが消え、モノが消えたら、あなたはどうするのでしょう? 結論からいいますと、現代においては市場それじたいを否定することは馬鹿を露呈することでしかありません。 環境に関しては、市場に最も信頼を寄せる人々はこういいます。すなわち、経済発展を促すことによって、エコロジーな技術もまた発達する、と。だから大丈夫なのだと。それはある程度まで歴史的に見れば、事実です。特に自動車など見ていれば一目瞭然ですし、社会はたえず監視能力を発していますから、公害問題などが発生するとすぐさま改善する技術を用いなければならないような状況に追い込まれます。 1992年の環境サミットか何かで、開発と環境を両立させる「持続可能な開発」という発言されました。持続可能とは、環境破壊して、地球それじたいが滅亡へ向かって「長続きしない」開発ではなくて、エコロジー的なことへも目を向けて、「長続きする」開発を考えようということです。 これは市場主義的な立場と一面反していますが、一面表裏一体です。大量消費社会は終わりません。少なくとも商品それじたいが失われない限りです。 まだまだいくらでもいえますが、後はあなた自身がもう少し勉強することが必要だと思います。問題は、競争かどうか、市場か否か、大量消費かどうかではないのです。もう少し精密なものです。
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ご希望にしたがい、再度説明しましょう(笑)。 環境問題は、簡単にいえば楽観論か悲観論かというところで割れています。 楽観論はすでにいったように、ある程度市場の調整能力に信頼します。調整能力というのは、環境破壊が進めば、社会からの反発が必ず、特に民主主義では起こりますので、結果的にエコロジーな意識は持たねばならなくなるので、何とかなるという見方です。あるいは工業が発展すれば、エネルギー消費が軽減されるから、大丈夫だというもの。 悲観論はそんなことではいけない、一刻も早く、人々の消費をおさえるような制度を作らねばならないのだ、というものです。これはどちらかといえば、積極的なものです。 ただ政治レベルでは、京都議定書に見られるように、確かに進行はしているのです。自動車などに関しては、日本も積極的に水素を原動力としたものなどの開発にあたっています。 ある人たちは、環境破壊はともかく地域でなすべきだといって、エコロジー運動を積極的にミクロな領域で展開します。ところが実質的にいえば、これは否定はしませんが、マクロにはほぼ無意味です。 ですから、腹八分精神を人々にもたらそうとするなら、それは訴えではありません。率直にいって、制度なのです。法律です。 もちろんここには結局世論が求められてくるわけなのですが、当然誰かが「みなが100円ずつ出せば、アフリカの貧困の1パーセントが改善される」といったとしても、現にみな100円出さないのが社会です。人の関心はみな違っています。会社の利益を考える人もいれば、必死に貧困を考える人もいれば、ただ自分の子供のことに精一杯な人たちもいれば、何かの開発に手がいっぱいの人たちがいる・・・ では悲観論が正しいのか、といえば話はそう単純でもない。「持続可能な開発」という言葉に「開発」が残っていることは意味があるように思います。「開発」とは非常に肯定的なものです。とりわけ市場社会を否定するどころか、積極的に引き続けようとするイメージがあります。 なぜか。それはいまや物質的豊かさを否定することは困難だからです。いまの主流の考えでは、下手に国家介入するな、という見方が強い。なぜなら、それは経済を破壊し、国民をかえって苦しめるはめになる・・・環境税などはまさにエコロジー政策といっていいと思いますが、先送りのようになってしまいました。当然、企業などがこれに反発したからでしょうけど。 法律により制限をかける→消費をおさえる、ということは モノが売れなくなる→企業の収益が下がる(給料が下がる) わけでバランスを考えないと、われわれ一人一人にこれがダメージになってくる。ひどければ、治安さえ悪くなるかもしれません。 ここが難しいところなのですね。 まず普遍的価値を作るということは相当困難であることは確かです。というか無理といったほうがいいかもしれません。社会にはありとあらゆるステークホルダー(利害関係者)がいます。 これを世界に拡張すると、必ず得をする国や損をする国が出てきます。たとえば、石油それじたいを使用禁止!!などにすれば、今中東経済は石油資源で豊かになっているわけですから、破綻同然なわけです。当然、反発するでしょう。ここまでいくと、話が国際政治などにまでからんできますから、なおいっそうややこしい。 ここでは答えが出せない今なお多きな問題です。しかし、個人的には多様なアクター、国家だけでなく、市民社会(NGOなど)を「政治的な場」へ参加させていくことが鍵だと思っています。が・・・ここもいろいろとややこしい(笑)。 平等という言葉も今なお終わらない議論ですが、単に社会主義(共産主義)な、みな同じ釜から同じ量の飯を食えばいいのかといえば、これは失敗しました。最近ヨーロッパに出現したのが社会民主主義的な新しい観点です。第三の道と呼ばれています。これは機会の平等と呼ぶ見方を強めたもので、ともかく結果の平等、つまり給料は同じにしようということではなく、機会の平等つまり誰もが同じスタートラインに立てるようにすればいいのではないか、というものです。 そのためにこの見方からすると、相続などは没収。なぜなら、豊かな人間は、その子も豊かになり、孫も豊かになってしまうからです。また積極的に雇用に励む人にはできるだけその機会を与えるよう努力します。そのほかでも社会保障のさまざまな観点で積極的にやります。 これも問題はありますが・・・少なくともわたし自身はまだ注目に値すると思っています。佐和隆光という人がちょうどこの立場でいろいろ本を書いているはずです。直接的には、『第三の道』を書いたアンソニー・ギデンズをお読みください。 最後に最近は結果の平等にもある程度までこだわろうとする有力な議論もあります。アマルティア・センなどがそうです。日本はこの流れが相当強いと思います。今のJICAにはセンの流れをもろに受けた緒方貞子が就任していますし、そのスローガンは彼の提言する「人間の安全保障」という観点です。貧困を考えるなら、この人間の安全保障というものを知ってください。 とりあえずあくまでこれも表面的な議論ですが、少しでも指針になればと思います。
お礼
再度ありがとうございました。 わたしの掲げていた理想は、全くの空想でしかないものがわかりました!勉強が必要ですね! いずれ、化石燃料は尽きるでしょうが、それに代わる新たなエネルギーなどが開発されるかもしれない。市場楽観ではありませんが、理想とする世界に近づくため、切磋琢磨していくしかないのだと思いました。 あまりにも問題を大きく捉えすぎて、大雑把なわたしの考えでしたが、その中から自分が深く考えたい問題をとことん追及していきたいです。 このたびはありがとうございました!
- alfoto
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私もこれから二極化になると思います。市場の自由化から始まったと思います。 すでに日本という国は世界から忘れ去られようとしています。ヨーロッパの学生に「JAPANを知っているか?」と聞いたところ半数ほどが知らないと答えたそうですね。 幼稚な私の考えですが、競争を好むのは上の人(役人とか、政治家とか、競争が関係ない人)ですね。 戦争と同じじゃないですか、自分が死ななければ他人が死ねばいい、競争して、儲けようっていう。これはちょっと言い方が悪いかと思いますが。 そして、競争なしには生きてはいけない。 私は社会主義も悪く無いと思いますが、貧しい人にチャンスを与えようとするなら資本主義になってしまって仕方ないと思います。 グローバリズムは危険だ、という考え方も今少しずつ広がっています。すごく微妙なところに今ありますね。 なんか自分でも書いててよくわからなくなってきました……; 感覚で物を言ったっていいんですよ、私もよくそうします。後で訂正すればいいです。……もう遅いとか言われたら困りますが…… 笑。 すみません。全然参考になりませんが。
お礼
ありがとうございます。 日本が忘れ去られる可能性があるというのには驚きですね。 社会の発展は、やはり国やら世界やらを動かす人間で、その人間の能力を高めていくことが必要だとすれば、そこには教育における競争がひとつの良い効果をもたらすと思います。 わたしの意見では、競争は駄目と言っているようですが、少々短絡的でした。参考になりました!
お礼
ありがとうございます。 自分の勉強不足がとても恥ずかしいです。。ひとつひとつ見ていきたいと思います。 自分が競争をほぼ全否定しているところがありましたが、それはすぐに誤りだと気づきました。競争が駄目でないから、議論(市場VS国家)は完全に終わらないわけで、また日本がそれを推し進めていることからもメリットが大きいからですよね。 精神的豊かさについては、イメージしているところが違うかなと感じました。わたしが思っている精神的豊かさは、腹八分で足りるというイメージに似ています。それを全世界の人間が達成すれば、真に平等な社会ができるのではないかと考えました。 が、問題がぶっとんでいますね。。論理が中途半端で飛躍もしている。。いくらでも突っ込まれそうですね。。 何を言いたかったかというと、地球にある資源が枯渇するという問題があるので、それをどう解決するかを考えた時に、まず大量消費を止めるべきではないかと考えました。そのためには、人間の価値観を変えるような提唱が必要で、ゆえに精神的な豊かさを普遍的なものにすることで達成するかもしれないと考えました。。 しかし、それには可笑しな点がありますね。精神的豊かさを実現できたとしてもどれだけの効果があるのか、またその実現できたというのはどうやって分かるのか。。 解決しようとした問題は、資源枯渇に対してです。この問題はどう解決できるのか、それが市場でのさまざまな努力による新しい技術開発などなのでしょうか? もし宜しければ、再びご意見いただけたらうれしいです。