- 締切済み
幅広く意見を求めています
まとまらない文章になってしまいましたが、そこから何かアドバイスいただければ幸いです。 最近何に価値があるかわからなくなってきてしまったのです。もしかしたら、何にも価値がないかもしれないですし、あらゆること、は価値があるかもしれないとも考えています。倫理的でないこと-例えば、人を殺す。しかも、特に理由なく。それすらも価値があり、また価値がないとも考えています。 また今、体調を崩していまして、仕事をしていません。働かない理由の一つにすることもしないことにも価値を見出せないことが一つかもしれません。 また、生きることについて、死ぬことについても考えています。まあ、これは在学時、また、それ以前からも考え続けたことでありますが。「社会的」(社会という単語もここでは自分は日本語以外の言語が使用できないので日本社会のことを指します)に意味があるとされていることは本当に意味があるのか、建前は意味があると装っていて、実はそこまで辛い思いをしてまで建前を貫き通すことが出来ない人が増えている。そのように、私(のみているパースペクティブ)としてはそう思います。それがニートであり、そこからさらに抑制された状態で、いわゆる「無敵の人」なのだと考えています。 彼らは社会のハイコンテキストな空気に適応出来ず、社会の無言の圧力に抑制された存在なのだと思います。社会の倫理に虐げられた人間に今更、社会の倫理で説得しようとするのは無駄なことでしょう。しかしながら、刑罰という面において従順なのが不思議なのです。それは、おそらく、日本の教育、~しなければならない(must be)が蔓延している結果なのでしょう 最近、永井均や中島義道に興味を持っています。私がその気になれば、すこしくらいなら直接話ができるくらいの距離にいます。 彼らになぜ興味を持っているかと言うと、恐らく彼らも、哲学という手法を用いて意味や価値、生、死について問いづづけた人だからでしょう 今、自分自身がどうしたらいいかわからないのです。社会的には休養して仕事をするという回答をえられるでしょうが、今の仕事は、マニュアル化しコンサルタントによる効率化によって、(世界的も含み)社会がコモディティ化されている。それを経営者はわかっているので、マスメディア的にも経済社会的にも、現在の若者をゆとり世代といい、多くの問題を最近の若者的な問題にすり替えて押し付けている。俺たちの時代もそうだったと昭和世代はいうのだけれど、無縁社会化、監視社会化、昭和的なあなあさの消失、失われた10年、年金問題等々、当時の社会とは違い成長や豊かさという大きな物語が失われたのに関わらずのに同じもの、いやそれ以上のものを求められている。 また、就職活動においてもビジネス化が進み、自分の世代もそうだったが、もはや、通過儀礼(イニシエーション)ともいえるものを乗り越えなければならない。しかも、この通過儀礼は文化人類学的な単純なものではなく、ホンネとタテマエが入り混じり、時にはそれが入れ替わる。欲望、または純粋な希望。そう言ったものが入り混じりそれを通過するにも。とてつもない精神的苦悩のあるものである。 その通過儀礼を通過したとしても、ビジネスモデルとしての使い捨て、いわゆるブラック企業が跋扈している。厳しい競争を勝ち抜いても、その後に、さらに厳しい社会へと放り込まれるのだ。 今の会社はグローバルな競争に向かわざるをえず、主要企業の行っていたビジネスモデルが一年たらずで崩れてしまう。 企業倒産による、失業、リストラ、些細なミスによる解雇、これらは社会においては自己責任であり、手を差し伸べるものでは無くなってしまった。 働かざるは食うべからず。行く場所行く場所そう言われる。 生活保護を受けるのは非国民のような扱いを受ける。そもそも生活保護を受けるのも役人によるしぶとい駆け引きに勝たなければならない。 しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している 障害を持つものも、内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。 重要なのは、働くことのみである。 たとえ儲けが出なくても、働かざるは食うべからずという圧力で仕事が作られる。 駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。 彼らの中にはそういった欺瞞性に気付くものもいるが、どうすることもできない。運営してる福祉ですら、その欺瞞性を飲み込んでいかなければならない。 初めは人を救うという意志があったものの、欺瞞性や政治の結果、福祉の人として道を外れてしまい、いわゆる「腐った福祉」になってしまう しぶとく、適応性があり、あらゆることに精通しており、強く、人に従い、文句を言わず、逆らわず、なんでもやってくれ、生活できればどんな安い賃金でも耐えられる人間をどの会社も欲している 朝。そこには雀の気持ちいい鳴き声すら気づかない。 昨日の疲れが取れなかった苦しみだけが残る。 殺気立った満員電車に突っ込み、 痴漢冤罪にならないことを恐れなければならない。 改札のタッチミスで舌打ちが聞こえ、時に電車が止まる。 人身事故だとしても、その人を心配する人はおらず、 むしろ遅延証明書と遅刻の報告のほうが重要なのだ。 知らない人間の命は関係ないーー こういった風景を見てきてどうすればいいかわからなくなりました 。どうすればいいでしょう
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
- inochi_bf
- ベストアンサー率7% (10/127)
確かに、今の社会はどこか病んでいるように思います。 その中で、あなたが苦しんでいるのもよくわかりました。 あまり良いアドバイスはできませんが、「自分」の立ち位置を少し見直してみてはいかがでしょうか? 何か新しい発見があるかもしれません。
- eizip2006320
- ベストアンサー率36% (54/148)
私はそういう事を考えたことがないのでどういえばわかりませんが、働くということは、私は自分を生かすための手段であると考えています。 それだけのことです。 それは機械運動のように永久に続くものです。 私は病気で身体障碍者の40代の娘がいますが、20代後半で病気になりましたが、普通につべこべ言わず働けと言いました。 車椅子で働きに出て、今は杖を持って働きに出ている。 ちなみに障碍者雇用ではありません。 働くというのは、自分を生かす行為、それが出来ないなら死ねばいいのです。 それが自然というものです。 ですが日本国民は社会的に生きる権利を持っているので働かなくても生きていける生活保護があるがそれは選ばないでにリハビリ病院に叩き込んで、歩く、動く練習をさせる。 痛い、辛い、そんな言葉はいくらでもきいたけど、それでも自分で生きて欲しい(=働く)から、それを伝える。 娘は精神は正常ですから、理解できる。 ただ、肉体と精神は繋がっているから、肉体が動かなければやはり心も動かない。 それを理解と共に、動くという、働くという実践でわからせるだけだとして、そうしました。 私は病気を持つ人も、障碍を持つ人もどんな人であれ働くことは必須だと思っています。 できる人は、できる分だけでいいからやるべきです。 ただね、それが最近はハードルが低い。 簡単に出来ないと諦める人が多いと思いますね。 出来ない人はできる限りそれに近づき努力すべきです。 私はどんな理由も病気も働かないでいい理由などないと思っています。 障碍でお菓子を売る人も売れなくても作る、頭のある人は売れないなら何故売れないか考える。 売れなくても作り続け、毎日働きにでる、なにかを作業する、それが働くことだと機械運動のように覚える。 意味などない。 でも、それが生きていくということでしょう? これは欺瞞でもお役所仕事でもありません、働くことの基本の基本です。 ところでその疑問をお書きになっている哲学者たちに問わないのは何故ですか? 近くに答えがあると思うならきけばいい。 彼らならばあなたの納得できる答えがあるからですか? 彼らから、いいから働けと言われたらあなたは納得できるのですか? あなたは働かなくても生きていける環境がある。 だから考える。 それはあたかも働かなくても生きていけるから働くことに疑問を唱える、考えるのでは? あなたは毎日働く人を馬鹿にしていますか? 考えず生活のために働く人々を。 愚かにも考えず働く人々の税金によって福祉や生活保護が成り立っているとしても馬鹿にしますか? 電車が定刻に走り、店が毎日きちんと開くのも考えない人々によって動いていると思いませんか? そもそも、働くという事に考えることが愚かなのではとは思いませんか? 考えてもお金は落ちてきません。 働きながら考えるならわかりますがね。 少なくとも、あなたには親・妻子は養えない。 確かにあなたの書くように親や妻子は養う義務はないのかもしれない。 しかし、あなた自身を養う必要性があることはどのようにお考えですか? 自分自身を生かすために、働く。シンプルで最も大切なことです。 広く意見をというのなら、働くという事に疑問すら持たない人もいることを考えてください。 あまりに、沢山の人がそのように疑問すら持たず、働く、働ける。 私もそうです。 私は68歳ですが、70まで働いたら延長雇用も終了です。 その後は、再度シニアワークなどでまだまだ働く予定です。 何故なら私は夫もいない、病気の娘と独立し結婚した息子しかいない。 息子は小さい子供がいて私まで養える状態ではない。 だから自分で生きていく、働く意味も考えずにです。 誰も私を養ってはくれないから。 だから娘にもそう教える。 毎朝乗る電車で人身事故をみると、真っ先にまたか、と思います。 亡くなったであろう人を思うことはありません。 なくなった人よりも私は生きていて、毎日の予定があるからです。 まず会社にメールして・・・関係者にメールして・・・ それはすべきことが山積みだからです。 でも、ふと死んだ人を思うことはあります。 それは会社が終わり帰るときにです。 何故、朝のこの時間帯を選んだのだろうかと・・・・。 社会へのルサンチマンか、出勤途中で死にたくなったのか、それとも咄嗟の出来事だったのか・・・ 私が考えを巡らせても答えはありません。 電車に乗っている数分、亡くなった方を考えますが、電車を下りれば毎日の生活をこなさなければなりませんんので又忘れるのです。 あなたは外の風景を見ているけど、ご自分自身は見ていないのではないですか? まずご自分をみて、ご自分の口をどう養うのかをまっすぐに見据えるべきでしょう。
お礼
コメントありがとうございます 確かに正しいといえば正しいですが、 >リハビリ病院に叩き込んで、歩く、動く練習をさせる。 勝手に他人のところに入り込んでしまいますが 通常、自分で望んで障碍者になりません。 叩き込んでという表現を使うほど、辛く当たってほしくないです eizip2006320さんのことは全くわかりませんし、どういうやりとりがあったかわかりませんが、 彼女は障碍者としての、一人の人間としてとしてどう生きるかの意志を尊重して欲しかったです いろいろ考えさせられました。ありがとうございました。
補足
コメントありがとうございます 確かに働くのが正しい。という観点ではそうでしょう。 Q 子供はなぜ働くことを法律で禁止されているのか アメリカでは子供もレモンジュースを売っています しかし、日本ではそれをすることはできません 民主主義という、機能してない部分もありますが、 それによって国は成り立っています。 働くという資本主義のみにおいて、国は成り立っていません 子供は働かなくていいという社会的同意があるので、そういう法律があるのでしょうね eizip2006320さんの考えと、私の考えが違うことは民主国家では当然です Q 資本主義がすべてなのか 生きる権利は基本的人権で保証されています。この国の精神の一つです 労働も義務ですが、職業の選択で無職を選択することは可能です。 経済状況によっては失業率が上がります。 失業した人はどうすればいいのでしょうか。 >働くというのは、自分を生かす行為、それが出来ないなら死ねばいいのです。 ホロコーストと根本的には同じ考え方だと思います eizip2006320さんの考えと、私の考えが違うことは民主国家では当然ありうることです そうしない人を「死ねばいいのです」というのはあまりにも恐ろしいです これは、屁理屈ではなく私の恐怖であります 私も働いたことがありますが、どうしても働かなければならないと感じなかったですね >ただ、肉体と精神は繋がっているから、肉体が動かなければやはり心も動かない。 肉体を動かせば動かすほど、働くことへの憎しみが増えていきました
ご質問文の中で、ご自身の境遇の浮き沈みと関係なくずっと考えてきた(そしてこれからも考え続ける)部分は、ご自身が求める人生の中での問題、として位置付けて然るべき人と討論しても良いと思うのですが それ以外については、単に今の不安感が生み出しただけのもの…と捉えると良いと思います。 要は「単なる今の悩み」です。 状況が変われば消し飛んでしまいます。 何が前者で、何が後者かはご自身にしかわかりません。 考えてみて下さい。 つべこべ言わず働け、というのは正論だと思いますし私もそう思わないでもありません。 ただ、質問者さんのこれまでに一体何があったのか。それは他人ではわからない。 働かない人に対して強気に言うのは簡単です。 しかし力の限り突き進んだ先が崖で、そこから転落して辛うじて助かったような状態の人の気持ちは、なってみないとわからない。 そこからすぐに立ち上がれる人ばかりではない…というか、どんなに強靭な精神の人でも、そのキャパシティを大幅に超えるダメージを負えば心が折れる時もあるでしょう。 似たようなケースを持ち出して「自分が大丈夫だったのだから、お前だってできるだろ、甘えるな」と言ってしまうのは、場合によっては残酷です。 質問者さんはきっと、ご自身の許容量を超える何かを身に受けてしまったのですね。 すぐに立ち直るのは困難かもしれません。 しかし日本社会のセーフティネットはそういう人のためのものであるはずです。 少しずつでも、立ち直ってくださいね。 そして元気に働けるようになったら、今は元気でもその時には生活保護に頼らざるを得なくなっている人がいるかもしれません。(私だって、わかりません) そういう人たちを助けるために、ぜひ税金という形で助けて下さいね。 そうやって助け合う気持ちでいれば、良いのではないかと思います。 相手が優しさを失ったからと言って、こちらまで心を黒くする必要はないです。 ちなみに満員電車については… 私も以前まで 「こんな満員電車で毎日通勤とか、やってらんねー」 とか思っていたのですが、今は通勤という概念がない仕事をしているんです。 それで、本当にたまにしか電車に乗らないのですが、その「たまに」通勤時間帯の電車に乗ると、すごい楽しいんですよ。 色々な人がいて…本当に楽しいんです。 前まではあんなに嫌だったのに。 物事は、見方を変えるだけでプラスにもマイナスにもなります。 知らない人の命、関係ないと思っている人ばかりではないですよ。 質問者さんの感情で、そう見えているだけです。 私も今、かなり辛い状況ですが、考え方を変えればそうでもないかもしれません。 お互い、ほんの少し、気持ちを整理して考えてみましょうね。
お礼
ありがとうございます なんか、救いになりました
はー・・・読むのに疲れた。 >どうすればいいでしょう いいから、グダグダ言ってないで汗水流して働けば? それが正解。 それがまずすべきこと。 働かないから働く意味を考える、物事の意味を考える。 いいかい?tenku65820さんは毎日働くってことを全然わかってないんだ。 働く=生きていくってことだろ? つまり、グダグダを塒を巻いて居られるtenku65820さんは誰かの力(親、家族、生活保護その他)など自分以外の力で生きて、生かされているからそんな悠長なことをが言える。 毎日金は出ている。 TVつけても電気代が、パソコン使ってもPC代とプロバイダ金がかかる。 議論している暇がありゃ働けってことです。 毎日の食事も金です。 働けないなら無人島でもいって、【自分の力だけで生きて】行けばいいだけのことです。 少なくとも、年老いた親はtenku65820さんに頼ることもできないし、結婚してりゃ女房子供を食わしていかなくてはいけないのです。 悠長に、自分の足元がすくわれているのに、他人を心配する力があれば己をみろってことです。 >駅でお菓子を売っている障碍者たちは働かざるは食うべからずの精神で駆りだされ売っている。全く売れなくても「そうしなければならない」のだ。 いや 彼らは社会の受け皿が必要です。 社会に参加するということが、駅でお菓子を売る(実際は作る)行為であるのです。 働かざるもの食うべからず、よりもよりはたらかける場所があってうれしいと感じているはずですよ。 そして障碍者ベーカーリーは障碍者支援事業の中でもかなりの収入を得ている。 欺瞞でも自己満足でもない立派な事業であり、かつ障碍者福祉なのです。 まあ、あろはビジネスモデルだ何だと書いてるけど、無職の奴に何がわかるって鼻で失笑する話。 机上の空論。 本当に答えを出したかったら、働いて金を稼げ!ってことが原点です。 それしかないです。 僕の妹は精神疾患だけど、tenku65820さんもその妹に思考がすごく似ている。 働かない奴は、ダメって言われるのは「小人閑居して不善をなす」です。 暇人はろくなことをしない。だから働け、昔からの言い伝えですから、本当に悩んでいるなら働いてみてください。 最低限、自分を養う、貯金があるとか言わないでくださいよ。 毎日家計簿つけてりゃ金は出て行く、無職なら金は無くなるだけです。 だからずっと働く、生きていくために働く、ニートが無敵ならぜひどうぞ。 ただし、ニートに出す生活保護費はないから是非とも無人島でもいくか親の脛を齧って生きるとはなにか?と考えますか? 答えは働くことで見えますよ。 働くってことは生きることです。 働かない奴は生きていくという趣旨に反していると僕は思っています。 毎日ネットでみる生活保護ニートと呼ばれる人たちをみなさいよ。 働けないのは病気、精神科にいけば病名がもらえる。 そうだ、僕らは病気だ!殺伐した現代社会や毒親による教育で僕らは病気なんだ。 こんなにしたのは社会が悪いからだ。 僕らに生活保護を遣せ!、障害年金を給付しろ! こんな叫びみてたらまともに追徴課税まで払ってる僕は頭に来ますよ。 自分で生きていけ!それが生命の基本である。 仕事は誰も世話してくれない。自分でもぎ取れ! >内臓疾患であれば甘えと言われ、精神疾患も同じく。足がなくとも、同じ状況にある人間ががんばっているんだといい、目の前にいる人間の言葉を無視する。 内蔵疾患は甘えじゃないだろ、精神疾患は一部の人が甘えに見えるのは事実、 ちなみに僕の妹もそうだね、甘えの何者でもないと僕は感じている。 足のない人は会社にもいるけど車椅子で働いてる。 先天性で手首からしたの無い人も会社にいるけど働いている。 なにもフルタイム同じように働かなくてもできる人は働くことが望ましい。 筋疾患など労働の難しい人は是非とも生きる意味を考え続けてほしい。 世の中が殺伐していると感じるのは自分だけが美しい水(無職で居られる水)に浸って呼吸しているからだ。 水がないとき、人はどうする? 議論して、勉強して生きるを向き合うのも結構。 だったらそれを生きる糧にして、収入を得よってことです。 物事には意味もないし、意味もあると僕も感じる。 だけど自分がすべき労働で自分と妻子を食わせていくは人の基本です。 古くから会社組織が成り立つ前から人は、労働をしていた。 それをしない人は生きなくてもいいってことです。 tenku65820さんが本当に汗水たらして働くという事は求める全ての答えになると思うよ。 まず働くってことを10年やってみて、それでも同じ疑問があれば再投稿をどうぞ。
補足
もし、私が働くとして面接官があなただったら、こういうでしょう 「働くことはそんな甘いもんじゃない!」 もし、普通の企業で「お金がほしいから働きたいです」そういったら面接に受かりますか? うかりませんね。でも、金なんでしょう?矛盾してませんか?おかしいですよね あなたは考えることを他人に依存しているんです 学校から就職して会社に入った。そういうレールに乗っかり 考えることを諦め、思考をだいたい周りの考えに合わせているのです >仕事は誰も世話してくれない。自分でもぎ取れ! 妹さんには言わないで欲しいですね。 恐らくとても辛いでしょう。 精神疾患であるなら体調がすぐれないので休養しているのであって、 周りから見て普通に見えるので、息抜きすら出来なさそうな環境で とても妹さんに同情します 生きている意味が仕事だといわれたら、 それが絶対的だと言われたら回復するのは遠くなると思います。
- sunsowl
- ベストアンサー率22% (1025/4491)
質問者がどのように今の世の中を憂えるとしても、社会が質問者の都合に合わせて変わってくれることは1,000%ありません。
お礼
>社会が質問者の都合に合わせて変わってくれる というよりは、 社会全体の負担が減るように変えていきたいですね
- taka-aki
- ベストアンサー率12% (748/6126)
何が価値があることかは権力者が決める。 一般人は従うだけ。 しかし人間なので満たしたい欲求はある。 今は多くの人が見捨てられた状態にある世の中です。 飢えさせておいたほうが簡単に操れるでしょ。
補足
現在のところ正しいですね そのシステムを変えることには興味があります
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (295/2109)
>重要なのは 働くことのみである。< 働くことをずっと考えています。 ある本を読んでいたら、「贈与」と「難民」というキーワードがありました。 「贈与」 今までいろいろ与えられてきたことに感謝する。その通りだと思いますが、こと働くことになると、「いかに稼ぐか」 が重要で、自分のがんばりがいつも問われます。どこに贈与があるのか? 「難民」 逆に社会でがんばれない人は、ある種こういう状態かもしれません。 どちらにしても、「働かざるはくうべからず」 という価値観に相対するものとして、どう認識するかという問題ですが、よくわかりません。
補足
知識のほうが大きいのですが、 贈与は働くことによって生じる社会貢献です 例えば商品を作って、それによって家事が楽になる・・ そういったことでしょうね 今、就職することが、レールから外れてしまった人にとっては とても高いのです これが「難民」なのかもしれません
お礼
なにか、自分の立ち位置がわかった気がします それは、いわゆるレール的社会人的なものではないですね
補足
回答有難うございました