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「~したならば」「~したら」について
「桜が咲いたならば~」 「桜が咲いたら~」 という言い方についてです。 「たら」も「なら」も仮定を表す接続助詞で、 「たら」は「た(な)ら(ば)」と省略された結果という説明を見ました。 この省略過程は、単に語数が減った(?)だけなのでしょうか。 それとも「ら抜き表現」の効能(可能の意味を明瞭にする) のようなものがあったのでしょうか? 現在でも以下のように3種の表現が使われています。 「桜が咲いたならば~」 「桜が咲いたなら~」 「桜が咲いたら~」 これら違いの背景や文法的留意点、使い分けの傾向などについて、 なにか関連することなどを教えてください。よろしくお願いします。
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「~ならば」の「なら」は断定を表す助動詞「だ」の 仮定形です(「だ」もまた助動詞「た」が濁音化した かたちです)。 仮定形ですので「~したら」「~だとすると」などの 意ですよね、そうすると 「~したならば」というのは「なら」を付けることによって、強調を表しています。 でも、「桜が咲いたならば」と「桜が咲いたら」では 微妙に意味・使い方が違っているようにも 思われます。 前者はあくまでも、仮定のこととしていますが、 後者は桜が咲くことを確信に近い形で話をしています。 そういった意味では、心情的に同格には 使用できないと思います。
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ほとんどは、おっしゃるとおりです。 ただ、 >それとも「ら抜き表現」の効能(可能の意味を明瞭にす>る)のようなものがあったのでしょうか? は、関係無いと思います。これらの言い回しには「可能」の意味は全くありませんから。第一「ら」が残っていますね。 「たら」と「なら」はほぼ同じ意味に使いますが、使用の形が違います。 来たら 来るなら 古くは、「たり」(過去や完了を表す)「なり」(断定)の助動詞だったのですが、その未然形が「たらば」「ならば」という形で仮定を表したのです。それが二つくっついたのが「~たならば」で、いわば古めかしい表現ですね。 もう一つ「桜が咲くなら~」という形もあり得ますね。
お礼
回答ありがとうございました。 > もう一つ「桜が咲くなら~」という形もあり得ますね。 テンスの差は今回の私の悩みの範囲外だと考えています。 ここにも微妙な差がありそうですね。
お礼
回答ありがとうございました。 >「なら」を付けることによって、強調を なくても通じるものをあえて省かずに入れたというところに、 話し手がその効果を意識したかいないかを問うことなしに、 聞き手は無意識のうちに僅かであれ重みを感じるものですね。 語数が増えるごとに強調される。(何が強調されるかは文脈次第) ということは言えそうです。