よく教科書に載っているような説明であれば、デカルトの有名な句『ゴギト・エルゴ・スム(我、思う故に我あり)』によって発展した認識論の流れにたつ議論でよく出てきます。
つまり、デカルトは「考える自分(=自我)」という存在は疑えない、という第一原理から出発して自分の思索を展開します。
ちょっと考えてみてください。つまり、自分以外の存在者はもしかしたら幻想かもしれない、って疑うことはできませんか?デカルトはそう疑ったんです。でも疑えないものが、自分、というものだったんですね。
その意味で、これを突き詰めていくと、(永井均さんの言うような)『認識論的独我論』(つまり、世界を認識するのは自分だけで、自分がいなくなれば、世界を認識する者はいなくなる、自分がいなければ世界の物が存在するということもなくなる、という論)になります。
自分に置き換えて考えてみてください。
自分が居なくなったら・・・と、死後にも世界を確かめれるような不死の魂とかを考慮に入れず、まったく存在しなくなったら、それでも「ここにリンゴがある」と言えるでしょうか?もしかしたら、地球の裏側で起こっている出来事は全部存在していないかもしれない。・・・そういう風に考えていったら、なんとなく「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もある」という主張がなぜなされるのか、理解していただけるのではないかな、と思います。
極端なところでは、ヒュームやバークリといった哲学者の著作を読むと、考えさせられますよ(^-^)
哲学科の博士課程修了者の一言でした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 うーむ 考えさせられますね。
補足
質問の補足 (ご回答をして頂ける皆様へ) この説を否定する説はあるのでしょうか? あるとしたら、それはどのような論理を用いて否定しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。