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なぜ花束は沖へ急ぐのでしょうか
沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し 堀葦男 この句は、好きな句のひとつなんですが、 この句を知った時から、トラウマ状態になり 影響もありまして、一時創作もしていたことがありました。 ある俳人の方は、この句は葬式の句だろうかと 解説されていて、背景にはそのような出来事が 有ったのかもしれませんが、なにかピンとこないのです。 わたしには、なにか時間と空間の俯瞰図のような イメージが湧いてくるのですが、 皆様は、この句を読んでどんなイメージが思い浮かんで きますでしょうか? どんなことでも結構ですので 暇な時にでも、書き込んでいただければ ありがたいなあと思います。
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「はたらく」は、「働く」のもともとの意味である「動く」の意味にとって見たらいかがでしょう。 沖へ急ぐ/花束はたらく岸を残し 出港したてのこの船はピッチを早め、どんどん岸から遠ざかり行く。 もはや岸壁に見えるものといったら左右に動く花束らしき影ばかり。 私が手渡した花束を打ち振るその人物は、もはや識別できない点景となってしまっている。 私の身体は益々沖へと向かっているが、私の思いは未だその「はたらく」花束の傍に残されているかのように…。
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- zephyrus
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ご質問の当初から気になっていたものの、No.1さんの回答を拝見するに及び、一言も付け加える言葉などないことを思い知らされ、控えておりました。 今もって回答と呼べるほどのものとて何もなく、こうなれば開き直って、あらぬことを口走ることにしました。まず、ご寛恕を乞うておきます。 「はたらく」とは思い切った語の選択だと思います。即物的というか、ぶっきらぼうというか、ここに何を持ってくるか大いに悩むはずなのに(そして大いに悩んだはずなのに)、よりによって「はたらく」とは。 ズブのしろうととしては、心大いに悩まされ千々に乱されるのです。 沖へ/急ぐ/花束/はたらく/岸を残し この一句、斜線のところでそれぞれ区切ることが出来、どこで切り、どこで繋ぐかで色々に解釈が可能のようですが、結局は無難な 沖へ急ぐ/花束/はたらく岸を残し が、妥当でもあるというふうに落ち着いてしまいます。そしてやはり、 「はたらく岸」それは熱鬧(ねっとう)の此岸、あくせく働く日常、活気と猥雑の現在形であるこの世のこと。 そして花束が急ぐ先は広漠とした忘却の海、彼岸ではないかと思うのです。 人は死ぬ。その膨大な知恵と経験、喜怒哀楽と人となり一切をひっさげて。 けれども周囲は、何一つ滞りなく、いつもの一日をくりかえしている。 この惨めさ、非情さ、慙愧の念。 残された者たちが結んだ花束は沖へ向かって急ぐしかないのではないかしら。 冥福を祈ることしかするすべがない。向うはやはり「浄土」なのだから。 以上、感想文おしまい。 思い入れたっぷりで、つまんない回答になっちゃった。(^_^;) ※ 追記です。引用された句、 ◇すべてが去りすべてが在り浮桟橋の動揺 ◇ぶつかる黒を押し分け押し切るあらゆる黒 これらもまた、すこぶるつきで言葉のヴォルテージが高いですね。恐ろしくなります。 先日の回答で一緒した時のお言葉、拝見しております。こちらこそ、今後ともよろしくご教授くださいませ。
お礼
風邪をひいて、めずらしく寝込んでしまい、 気になりつつも、なかなかお礼が出来ずに、失礼いたしました。 いつも気を配っていただいて、ほんとうにありがとうございます。 私自身、本来の俳句というものがどのようなものかほとんどわからないです。 句会にしばらく顔を出していたぐらいで、季語とか定型の必要性も、 いまだあまり理解できていないと思います。 ただ、もし俳句が、詩的なものの一環として読めるなら、わたしのようなものにも 多少は理解できるのかしら、こんな感じで接してきたのではないかと思います。 もし人のこころのなかの揺れ動く気持ちが「音楽」に一番近いものなら 俳句のなかの世界にも詩とおなじようなものがあるのだろうか。 こんな感情から、おそらく本来、俳句の世界では、異端的だろうとおもわれるものに、 妙に魅せられて結構読んでいた時期がありました。 質問させていただいた俳句はその中のひとつで、 なぜか、この句がいつまでも、なまなましく記憶に残っているんですね。 たしかに、仰られるように「はたらく」という言葉は、いとも簡単に書かれた様相ですね。 もうすこし練りこまれた言葉もあるような気もいたします。 ただ、なにか、わたしには「花束」と「はたらく」の「は」と韻を踏んでいるところが トゲのように、いつまでも、解明されないまま残ってくるのです。 (おそらく、わたしだけの思いかも知れません) この韻を境に、何というのでしょうか「もうこれで絶縁だよ」「来ちゃいけないよ」と 言っているように思えてきます。 そんなことを考えると、やはり「葬送」の詩なのでしょうね。 人は目に見えぬ悦びと苦悩をたずさえて生き、その死とともに消滅する。 しかし世界は嘘のように日常を繰り返していく。 もし生存しているわたしたちが、唯一できることといえば 花を束ねることぐらいなのでしょうね。 こころのなかの感情を言葉に表現するには,人知れぬ 時間と苦痛が伴うのにもかかわらず、思い入れのある文章で表現していただいて ほんとうに感謝しております。 今後ともまたご指導していただければと、お願いしつつ これで失礼いたします。
- sirayukihime
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初めて知りました。こういう句があったのですね。意味深で気にかかりますね。 各回答者の皆さんの御解釈も、それぞれに頷けます。 私なら・・・そうですねえ、「花束」が魂の象徴のようにも感じられます。或いは夢見る心。それが血と汗にまみれ汚れた騒がしい此岸つまり俗世間など未練もなく、うち捨てて清浄な海の彼方目指し一心に沖へ沖へと漂い出ようとしている・・・そんなイメージですかね。やはり、お葬式にまつわる句でしょうか?沖縄で言う「ニライカナイ」だとか「即身成仏」ということばまで浮かんできました。 そうね、「時間と空間の俯瞰図」・・・ この世から、あの世へと移り行かんとしている儚くも高貴な美しいもの・・・そんな印象を持ちました。
お礼
なにか、自分でもはっきり掴めない質問に 真摯に回答していただき、たいへん感謝いたします。 有難うございました。 質問者さまとは先日同席させていただきましたね。 HNがユニークなので覚えております。質問者さまがご紹介されてた ヘッセの本は十代の頃、読みまして、あの中から「聖書」と 「千一夜物語」を買った記憶があります。どちらも、いまだ完読していない、 ていたらくですが。(^_^;) 最近書店で見たのですが、ハードカヴァー本で今でも売られているようで なんだか懐かしかったです。 (関係ないこと書きましてすみません) やはり花束には象徴のようなものがあるのでしょうね。 魂、あるいは夢見る心。 これら一切の願いが封印されているのでしょうか。 俗世間から解き離れて、沖の向こうにある静寂の世界へ早く入っていきたい。 しかしこころの内ではいまだ此岸に多少の未練が残っている。 ちょうど禁じられたものを振り返ってみたくなるような そんな気持ちもまたあるのかも知れませんね。 >この世から、あの世へと移り行かんとしている儚くも高貴な美しいもの・・ もし、わたしたちに、このような瞬間が約束されているなら 生きていく甲斐も充分にあると思いました。 風邪をひいているせいでしょうか、なんだか、ちょっと湿っぽいお礼文になってしまったかもしれません。 お許しください。 「ニライカナイ」のこと、「即身成仏」のこと、 深いテーマがあると思いますので、この機会に一度調べてみたいと思います。 どうも有難うございました。
- itab
- ベストアンサー率50% (431/861)
◆沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し ご質問のタイトルに誘われてお邪魔して、文面を拝見した途端スタコラと逃げ出そうかとも思ったのですが、妙に具体的なイメージに囚われてしまって、おそらく書き逃げになってしまうのでしょうが、「ど」の付く素人の戯言とでもあきらめを付けて読んでいただければ幸いと存じます。 想像力乏しい私は、どうしても花束が沖へ急ぐ方法は船に乗ってとしか思い浮かばず、しかもその場合の花束は、誕生日や愛の告白のために束ねられたものとも到底思えず、やはり、黒衣の女性が胸に抱きかかえているとしかイメージできません。 急いでいるのは繁忙期の漁師であり、迷惑そうな顔や言葉を胸にじっとしまって、ひたすら前を見ています。 海岸に立ちそれを見ていた作者は、黒衣の女性と漁師とのコントラストをとらえて・・・・。 でも・・、でもそれは作者の思い違い。漁師は心底彼女に同情していて、真摯な気持ちで船を操っている。 ん~・・ 自分でも訳がよく分からなくなってしまいました。(-_-;) これ以上、恥の上塗りをしないうちにお暇させていただくことに致します。
お礼
まさか五七五の名手の方から回答いただくとは 予想もしていませんでした。 有難うございました。 質問文はカッコつけてますが、中身は(たぶん)がらんどうのような者なので、いろいろと教えていただければと思います。「時間と空間の俯瞰図」なんて偉そうなことを書いたのは、この句を読んだ時こんなイメージが湧いてきたからなんです。 この句の視点が何か上空から眺めているような感じで、 まず海原を花束が沖の方へ流れているカットがあります。そして「花束」「はたらく」に意識的か無意識的かわかりませんが、「は」という韻を境に今度は、どこかの工場地帯か、煙突から煙が出ているような陸地のカットが見えてくるのです。 この対比の仕方がすごく印象的でいつまでも忘れられない俳句になっているのではないかと思ったりしています。 回答者さまのこの句の印象を読ませていただいて、 なにかイタリア映画のひとシーンなんかが思い浮かんできました。 花束を胸に抱きかかえている黒衣の女性のこころのなかに去来しているものは何だろうか。 黙して船を操っている猟師のこころのなかは・・ いやあ、素敵ですね。 回答者さまのストイックな姿勢が見えるようで、感動いたしました。 書き込み有難うございました。 回答者さまのおかげで随分元気になったように思います。
- alchera
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>どんなことでも結構ですので ほんとですねっ!(と予防線を張った上で) 読んで首をひねった句ですので、あまりイメージは広がらないのですが、私見を一つ。 「花束」「残し」で哀悼の花束を連想するのはまことに自然なことだと思います。が、わたしはその内容では「はたらく」という言葉にひっかかります。 「働く」は死と相対させるには、少々限定的。本来「死」と対峙させるとしたら「生」ですが、生には働くばかりではなく、他にイロイロありますよね。(しかしもちろん生を「働く」で代表させたという可能性もあります) わたしは「働く」の対比として「夢」を考えます。 なので、花束は「色鮮やかに夢を追って生きる自分」であり、沖は「夢がかなう理想郷」……ちょっと言葉がダイレクトですが、(現実に有り得るほどの)理想郷なのではないかと。 つまり、現実の生業にとらわれている作者がいつか叶うかもしれない場所を・未来を憧れをこめて見つめている図、その願い、という一句だと思います。だからこそ「急ぐ」。いや、もう作者は花束と共に沖へ向かっていますね。 ちょっとゴツゴツした、こなれない話ですみません。わたしも俳句を読んでいる方だとは言えないし、当然根拠は希薄ですので、あまり信じないでいただけますようお願いします♪
お礼
回答有難うございました。 以前にも、読書について、たいした質問でもないのに 丁寧に答えていただき、読書家の方だなあ、という印象がありましたが、今その記憶が甦ってきました。 前回とあわせましてお礼申しあげます。 この俳句なのですが、心象風景を描いているのか、具体的な風景を描いているのか、読む人によって、さまざまな印象があるように思いますよね。 作者の堀葦男さんの略歴はあまり詳しくないのですが、ほかの俳句などを読むと心象風景というか、人間の根源的なものが表れている俳句が多いような気がします。 たとえばこんな句なんですが、 すべてが去りすべてが在り浮桟橋の動揺 ぶつかる黒を押し分け押し切るあらゆる黒 そんなことを考えますと、回答者さまの解説のように、 労働者というか、一生活者の、願望のようなものが表現されているのかもしれませんね。 「沖」という言葉はイメージの膨らむ言葉だと思うのですが、その向こうには、やはり待っていてくれるものが あるのでしょうね。 回答を読ませていただいて、自分が持っていたこの句に対する 固定的なイメージが随分変わってきたように思います。早い話が、分けがわからなくなってきたとも言いますが。(笑 書き込み有難うございました。 回答者さまのおかげで、だいぶん元気がでてきたように 思います。
- simasimafish
- ベストアンサー率41% (389/927)
こんにちは。 この句ははじめて拝見しました。文学は素人です。 きれいな文章ですね。 私は、海に投げられた花束(=死者を弔う花束)が、 沖へと流されていく光景が浮かびました。 はたらく岸(働く岸 で良いのでしょうか?)を残し、 という部分は、せわしなく生き続ける、残された自分たち (もしくは、その人の死などなかったかの様に変わらず すぎていく日常)をイメージしているように思います。 人の存在の儚さというか、壮大な時間の流れの中での 自分、というようなイメージを持ちました。 うーん、表現力がなくて、旨く表せませんが・・・ 久々にゆっくり文学に触れてみたくなりました。 (thingさんの、創作意欲がわいたお気持ち、 なんとなくわかります)
お礼
早速に回答いただき ありがとうございました。 この句は無季俳句ですし定型でもありませんが なぜか心の中にいつまでも残っているのです。 そうでしたか、やはり花束=死者を弔うのイメージ がありましたですか。そうすると、ある俳人の、 これは葬式の俳句だろうと言われるのも納得できますね。 ただ、わたしには、花束の言葉からくるイメージは 花束=ちいさな幸せを束ねたもの、花束=ちいさな願い を束ねたもの、というような感じで、なかなか弔花に 結びつかなかっのが、しっくりこなかった原因かもしれませんね。 後半の部分は、 かすかに感じていたことをうまく表現していただいて とても参考になりました。 やはり別れの歌なのでしょうか。 去る者のみが自由を受け、その人に見送られながら われわれは、生存を繰り返していかなければならない。 しかし、時は永遠に黙して流れ続けてゆく・・ 残されていくものの悲哀かもしれませんね。 書き込みありがとうございました。 回答者さまのおかげで、すこし元気がでてきたように思います。
お礼
前回に次いで、今回の質問にも回答を寄せていただき、 ほんとうに、ありがとうございました。 この俳句を読む時の視点というのでしょうか、読者のこころの場所が 二通りあるように思えてきました。 ひとつは花束とともにあり、沖の向こうへ流れていく気持ちと もうひとつは岸とともにあり、取り残されていく気持ち このふたつの気持ちのあいだをゆらゆら揺れているところに わたしがなかなか理解できない原因があるのではないだろうかと 思いました。 回答者さまも、沖に急いでいる所から、岸へ視点を向けていると思うのですが その視点の先に花束がはたらいているとのイメージは 予想外のことでした。 どの箇所で区切るかによって解釈が異なることは、N05さまにも指摘されましたが このようなイメージは頭の片隅にも無かったように思います。 回答者さまのイメージでこの句を読んでいきますと、いままでヴェールに包まれていた ものが、急にあきらかになり、鮮明な光景が映り出されてくるような気がいたします。 ただ欲を言わせいただいたら、「これでお終いなの?」との感じが、こころの奥底にいまだに 残っているのですが、教えていただいたイメージはそれを覆い隠すほどに衝撃的でありました。 作者の意向はどうか知りませんが、 いずれにしても別れの詩であることは確かなようですね。 「働く」を「動く」と捉えることをはじめ、教わることが たくさんありました。 また今後とも、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。 有難うございました。 (追信) 「失われた時を求めて」ですが、先日ようやく手元にとどきました。 自信のなさもあって抄訳三巻本のほうですが。 もうすぐ例の「プチット・マドレーヌ」の箇所になります。 さあどこまで、読み続けていけるのでしょうか、神のみぞ知るですね(笑)
補足
☆回答を寄せていただいた皆さまへ この質問も、投稿してから二週間が経ち、はや風景の裏へ散っていきました。 これを機会に締め切りたいと思います。 回答していただいた皆さま、有難うございました。 ポイントの件ですが、 ポイントを付けずに締め切ろうかとも考えたのですが、良かれ悪しかれこのような 制度がある以上、それに従うのも、またひとつの方法かな、と思い、 自分が今までもっていたこの句に対するイメージをコンパクトな文章のなかに 表現していただいたNo1さまと、 この句にたいするイメージを根本から変革していただいたNo6さまに付けささて いただきました。 あとの四人の方の回答には、心の中で、満点を付けさせていただいたことを 併せて、ここに記入させていただきます。 いずれこのQ&Aも、闇の奥へ消えてゆく運命ですので こころのなかの<マイドキュメント>にしっかり保存しておきたいと思います。 最後に、この句を知った当時、作っていた句を書きました。 すこしどころか、おおいに恥ずかしいのですが、こんな時期もあったということ、そして 皆さまへのお礼の印として受け取っていただければと思います。 それでは、いつか会えるその日まで。 これで失礼いたします。 沖へ向く女の足がつめたい昼 僕が売り僕が買いこむ夜の花束 、