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般若心経について

般若心経について簡単に教えてください! よろしくお願いいたします。

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  • o24hi
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回答No.2

 おはようございます。 (般若心経とは)  おそらく、多くのお経の中で最も有名なのが般若心経ですね。  日本で一般的に知られている般若心経は、西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵の翻訳によるもので、これは、全600巻という膨大な量の「大般若経」から、エッセンスだけを抜き出してまとめた、いわばダイジェスト版のようなものです。  簡単に言えば、「悟りをひらくための智慧を説いた教え、その核心」のお経という事ですね。 (内容)  「空」の境地を説いています。空の境地とは何事にもこだわりのない心のことで、悟りにもこだわるな、煩悩の克服にもこだわるな、と教えます。煩悩の克服や悟りにこだわると、それが執着になってしまい、かえって悟れない結果になってしまいます。こうしたこだわりをすべて捨てれば、おのずから空の境地がひらけるという事ですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C

その他の回答 (8)

  • neil_2112
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回答No.9

般若心経の性格には、なかなか微妙なところがあります。それは、いわゆる「空」を説くとされる部分が全体の大半を占めているにもかかわらず、末尾で突然、「咒」が説かれる、という不思議な構成を持っているからです。 「空」とは、一言でいえば、この世界の一切の存在や現象、それからその認識にともなう私たちの概念、それを可能にしている言語、こういったもの一切がそれぞれ単独で成立し得ないものである、ということを認識せよ、と説く論理です。もう一方の「咒」とは、言葉(というか音)のシンボリズムによって論理を超えたところで聖なる世界と通じ合おうとする行為だといっていいでしょう。 論理的な内容と、超・論理的な内容が脈絡なく合体しているところに、般若心経の不思議な性格があるのです。 したがって、般若心経については、インド・中国・日本それぞれで膨大な数の解釈がなされてきましたが、この複雑な性格を反映して、大きく言えば般若心経を「空」の立場から理解する立場と、密教的な立場から受け止めようとする2つの立場が並立してきました。前者にたつのであれば、実践面で「こだわるな」という現在よくある解釈も、さほど突飛なものではありません。また後者にたてば、当然咒を重視することになります。 裏からいえば、立場次第でどちらの解釈も可能だ、ということになりますが、どちらの立場をとるにせよ、論理的にすっきりしない点(「中観になぜ咒が必要なのか」、あるいは「なぜ咒だけではいけないのか」)を抱え込むことにもなります。そのあたりを、それぞれの立場に引き寄せてやや強引に解釈してきたのが心経の歴史ではないでしょうか。 (先に密教的な解釈のご回答で、心を表すフリダヤという言葉を咒と受け止める解釈がされていますが、これは密教独特のものです。インド仏教全般的に見ると、例えば有名な「阿毘曇心論」にもフリダヤが当てられているように、「肝要なところ」「精髄」という意味の用法のほうが一般的でしょう。これは批判的に書くのでは全くなくて、立場によって色々な解釈の違いがあり得る、というはなしです) なぜこのようなことになったのか。その答えを考えるためには、むしろ大般若経を見たほうが意味があります。というのは、般若心経は大般若経を集約したものではありませんが、ほとんどそう言えるほどいろいろな面でたくさん共通点があるからです。 例えば、まず内容面。 大般若経には繰り返し「色は空性である」「受想行識も同じく空性である」という内容が語られますが、これは般若心経に説かれるところと全く同じことを表現しています。基本的に、咒を除けば般若心経に語られる言葉は、そのままの言葉ではないにせよ、同じ内容が大般若経に網羅されているといえます。この意味で、心経は大般若経の圧縮版といってもいいでしょう。 また、形式を見ても両者はやはり似ているのです。というのは、大般若経は善現(つまりスブーティ)という仏弟子を主人公として、仏や帝釈天らとの間で空についての問答がなされるのですが、実は般若心経と同じく舎利子(シャーリプトラ)もよく登場して、同じように問答をするのです。 特に最後のほうでは、舎利子の問いに善現が仏に代わって答え、仏がその内容を肯定する、といった場面も出てきます。つまり、「空についての舎利子の問いに、仏に代わって菩薩が説法する」というスタイルは、どちらの経典にも共通したものなのです。 そして、最重要な点ですが、言葉を尽くして空を論理的に説こうとしながら、突然、論理を超越したかのように咒が現れるという、肝心の不思議な点も似ているのです。 般若心経では「ギャーティ・・・」の咒が説かれるのに対して、大般若経では「ノウボバギャバティ・・・」といった別の咒(複数)が説かれていますが、重要な点は、「般若波羅蜜多がすなわち咒である」とも説かれていることです。 (面白いことにこの点は、「甚深般若波羅蜜多は是れ大神咒、是れ大明咒、是れ無上咒、是れ無等等咒なり」と、般若心経と全く同じ表現を用いて表されています) つまり、膨大な言葉を尽くして、「空は言葉で表現できない」ことを表現しておきながら、一方では短い言葉にすぎない咒を持ち出して、それを「表現できない真実を表す言葉だ」というわけです。 このあからさまな自家撞着こそが、大般若経と般若心経との最大の共通点なのですが、大般若経のこの「般若波羅蜜多がすなわち咒である」という言葉には、「表現できない」される真理をなんとか表現したい、という人間の宗教的エネルギーを読みとるべきではないかと思います。 簡単に書きますが、「中観派」と呼ばれる正統な見解にたてば、世界が空なるものとしてそのまま肯定されます。まさに「色即是空、空即是色」ということで、むしろこの世界に涅槃や悟りといった新たな概念を持ち込むことこそが涅槃を遠ざけることになるというのです。 しかしこの立場では、聖なる存在が解体されてしまいますから、理論的なインパクトはあるものの、何を求めてどのように修行すればいいのかが明示されません。大多数の人間にとっては、「ではどうすればいいんだ」、ということになってしまうのです。 乱暴にいえばこの問題を調停する方策のひとつが、「言語で捉えきれない真理」そのものを、言語によらないイメージとシンボリズムで超・論理的に実感できるようにする体系づくり、すなわち密教化だったわけで、大般若経ではそれが「般若波羅蜜多は偉大な咒である」という言葉に結晶しています。大般若経や心経は、空を説きながらも「初期の密教経典」とも位置づけられることがありますが、これはそういう社会的な要請が背景にあるのです。 したがって、空の立場から見れば、心経に咒が付属していることは、ある意味では「世間におもねた零落」という厳しい見方もできますが、大乗仏教ならではの適応、ある種の社会化であるともいえるでしょう。 また密教的立場から言えば、咒だけでなく空を説く部分が残されているのは、「空を踏まえてこそ 仏教的な咒の意義がある」からだといえるでしょう。咒が単に「ありがたい言葉」を唱えるのに過ぎないのであれば、それはお釈迦さんが否定したバラモンのヴェーダ至上主義と同じになってしまいますから、咒には常に「空である世界と通じあう」という前提が刻印されなければならなかったのです。 要領を得ない説明で申し訳ないのですが、ごく短い般若心経にも、宗教的な思想と行の歴史が琥珀のように凝固していて(と私は思うのですが)、それゆえに一口で表現できない多様な魅力と意味を持っているのだということではないでしょうか。

  • yuhkoh
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回答No.8

追記  般若心経を“『大般若経』600巻の集約”とする考えも誤りです。大般若経は対告衆(経典の内容を象徴する人物)として、解空第一の「須菩提」が登場し、「ギャテイの咒」は説かれていません。  対して心経は、対告衆として智慧(般若)第一の「舎利子」であり、現行のものや旧訳のものを含めて「ギャテイの咒」が説かれないものはありません(今まで記してきたことを読めば当然ですよね)。心経は「空」が主題でなく、「般若波羅蜜多」を説き、そしてその「心(真言)」が主題であるのも、舎利子が登場することからも明らかです。  釈尊が舎利子に「般若波羅蜜多の心(真言)」を説き、その修行の実践者が「観自在菩薩」です。ですので観自在菩薩は特定の尊格というよりも、修行者を象徴するものです(ですから舎利子も、われわれも般若波羅蜜多の実践を行えば「観自在菩薩」です)。

  • mmky
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回答No.7

参考までに 般若心経は、釈迦如来が、空をよく理解している(解空第一)のシヤーリープトラに、観自在菩薩(霊的に自在に物事が見える)境地の菩薩の段階に入ったときの空(霊的エネルギー)と色(物質)の関係を説明しているものですね。 空といえば転生輪廻のことを意味するのですが、解空第一のシヤーリープトラには、現代物理の特殊相対理論のように霊的エネルギーがその思いによって物質化しているに過ぎないということを説明しているのですね。現代物理学の最先端を2500年もの前に説いているのですから仏の教えはすごいですね。こんなことは当時のほとんどのお弟子さんにも理解できなかったでしょうから普通は「無記」といって答えてはいませんね。「無記」とは理解できない者には話は出来ないという意味ですね。そういう意味でシヤーリープトラは立派なお弟子さんだったのですね。

  • yuhkoh
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回答No.6

 なお、般若心経が般若波羅蜜多の心(真言)を説いたことであるという証拠として、法隆寺に収蔵されている、現存する最古の般若心経の梵本(インドのサンスクリット語で書かれた経典)である「貝葉本」の巻末に、「ギャテイ<中略>ボウジソワカ 以上が般若波羅蜜多の心である」と締めくくられています。古代インドにおける般若心経の成立自体がこの般若波羅蜜多の心である「ギャテイの咒」に対する信仰に基づいているからです(なぜ日本に現存しているかというと、インドや支那では新たに書き写したり、翻訳した定本となる梵本は、焼却されていたからです)。  現在、般若心経は“「空」を説く経典である”と解釈が大半ですが、これは後代に広まった説(西暦500~700年代ごろからか)であって、心経の長い歴史から見れば新説ですので誤解なきようにしてください(ましてや最近の本では“こだわりの心を捨てる教え”などの珍説がまかり通っているのが現状です)。  般若心経の主題は“偉大なる般若波羅蜜多の心(真言)である「ギャテイの咒」。これを誦する瞑想修行(観法)により、「一切の苦厄を度する」ことができる。だから修行を実践せよ”です。  なお、『密教21FORUM』「『般若心経』のほんとの意味(宮坂宥洪 編)」のURLを紹介いたしますので、こちらもご参考ください。インド哲学の伝統に基づいて心経が解説されています。

参考URL:
http://www.mikkyo21f.gr.jp/hannya_honto/concept_hannya.html
  • yuhkoh
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回答No.5

 まず巷の書店で多く見られる心経解説本は読まなくて結構です。それどころか読まない方がいいものが大半です。タレント仏教学者や、尼さんの仮装をした小説家などが書いた、“仏教語を多用したエッセー集”に過ぎません。  「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」の般若波羅蜜多ですが、通常、般若が「瞑想によって得られる智慧」。波羅蜜多が「悟りに至る」という意味があるので、「悟りに至る智慧」と訳されますが、実際は「般若波羅蜜多」はひとつの固有名詞です(つまり前者の考えは、「松島」という固有名詞を「マツの島」と理解するようなものです)。ですから般若波羅蜜多とは「般若波羅蜜多」であると理解していただいたら結構です。  そしてこの般若波羅蜜多の「心」を説かれるのですが、この心とは梵語でフリダヤ(hrdaya)といい、通常われわれがイメージする精神的な心(これを梵語でチッタ<citta>といいます)ではありません。フリダヤは先のチッタをも包括する偉大にして深秘な心であり、「肉団心(にくだんしん)」とも呼ばれる“心臓”のことです。古代インドでは、心臓は命を司る神秘的な臓器とされ、生命の中心であり象徴でした。また心臓の姿が、今まさに開こうとする蓮の蕾(開花した蓮は悟りの象徴)の形であるところから、「仏性」を象徴するものでもあります。ですから一切衆生が仏性を宿すという考えは、観念的なものだけでなく実在的なものでもあるのです(こういうところが、情緒的なものに美意識を抱く日本と、情緒性を廃し徹底的な合理主義に基づくインド哲学の伝統の違いでしょう)  そしてこのフリダヤは、祈りの言葉である「マントラ」と同じ意味で使用されます。このマントラは支那では「咒」・「真言」とも訳されますが、般若波羅蜜多の心(真言)とは、「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボウジソワカ」のことです。この「ギャテイの咒」を唱えるという瞑想修行の実践こそが般若心経の主題です。この偉大なる真言念誦修行によって、  経の初めに「観自在菩薩」とありますが、この菩薩はいわゆる礼拝対象の観音さまのみを指すのではなく、「観」とは瞑想のことです。  瞑想というと支那の老荘思想の影響を受けた“無の境地”を前面に出す「禅宗的」なものをイメージされますが、インドの瞑想は、まず初めに視覚や聴覚などの五感によって具体的な事物を象徴として観念し、観想して思惟することです。ですから密教では曼荼羅や肉体的な仏像を祀ることを重要視されるのも、それらを「観る」ことが瞑想だからです。先に述べた心臓も「仏性」として「観る」ことが瞑想であります。ですから観自在菩薩は「自在に瞑想を修する大乗仏教の修行者」ということであり、般若波羅蜜多の真言を誦するという瞑想を行ったことで、大乗仏教の中核を担う「空」の境地に至り、「一切の苦厄を度する」ことが出来るのです。そして、この観自在菩薩は般若波羅蜜多の修行を実践するものですから、より深い意味ではまさに心経を唱える己自身が、「観自在菩薩」なのです。  ですから般若心経とは「ギャテイの咒」が「一切の苦厄を度する」力があるから唱え続けられ、そしてこの唱えること自身が修行だからこそ唱えられたのです。その点では弘法大師の『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』はインド思想の伝統と、般若心経の成立の基づいて解説され、端的に般若心経を「大般若菩薩の大心真言三昧地法門なり(般若波羅蜜多のフリダヤマントラによる瞑想修行の実践を説くものである)」と述べられています。  現在書店で売られている心経解説本で読む価値があるものとして『真釈 般若心経』(角川ソフィア文庫・宮坂 宥洪) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043760019/qid=1105872506/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-6352629-1265144 をお勧めします。また弘法大師の『般若心経秘鍵』については、『般若心経秘鍵入門』(大覚寺出版部・村岡 空) http://www.sagagoryu.gr.jp/jpn/shop/hiken01.html を読まれるとよいでしょう。 参考 『般若心経秘鍵入門』(大覚寺出版部・村岡 空) 『真釈 般若心経』(角川ソフィア文庫・宮坂 宥洪) 『般若心経の総合的研究』(春秋社・福井文雅) 『真言宗全書』 『大正新脩大蔵経』「般若部」

参考URL:
http://www.sagagoryu.gr.jp/jpn/shop/hiken01.html
  • TREX555
  • ベストアンサー率16% (61/367)
回答No.4

私も、「般若波羅蜜多心経(般若心経)」については、ずいぶんと研究(?)しましたが、巷では、いろいろと誤解が多いようなので、その一部について、私の見解を紹介します。 1)サンスクリット語の原典を、玄奘が訳したとされる、「漢文の般若心経」は、「省略」、「加筆」、「誤訳」等があって、信頼できない。 2)般若心経は独立したお経であって、決して「大般若経」を要約したものではない。 3)般若心経は、「空」とは何かを説いたものではなく、最後に提示されている、「マントラ(真言)」を教え広めるために書かれたものである。 4)「般若波羅蜜多心経」とは、「最高の智恵を得るための肝心かなめの教え」という意味であり、「心」とは、「心臓」、「最重要」と言う意味だが、これは、「空とは何かを理解しろ」と言うことではなく、「悟りを得るためには、この最高のマントラを知りなさい」と言うことである。 5)その「マントラ」とは、日本では、「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」と唱えるが、「マントラ」はサンスクリット語で唱えないと意味がない(効き目がない)ので、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」と唱えるのが正しい。 般若心経を素直な心で読めば、「空とは何か」を説明しているのではなく、「悟りを得るためには、理屈はいらないから、このマントラを唱えなさい」と言っていることに気付くはずです。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.3

般若心経を簡単に知るには、仏教の歴史も知ると意外と簡単に判ります。 お釈迦さまが亡くなってから、お釈迦さまの教えを分析、解析する頭脳明晰な人達が、どんどん仏教を複雑、難解なもの(高等学問・仏教哲学)に育てあげていったんです。 いわゆる、仏教のミクロ化です。 で、さらに、それまでの仏教は「出家者」のためのものであって、「出家」という大学の生徒にならないと、お釈迦さまの教えは判らないし、悟りを開くことも、苦から解放されることもないというような雰囲気になってしまっていたんです。 で、これに抵抗した、おそらく在家を中心とした人達が「大乗仏教」という新しいマクロな仏教を創る(創作)んです。 そして、それまでのミクロな仏教を「小乗仏教」と軽蔑して呼んだんです。 そして般若経というのが出来て、そのエッセンスだけを取り出した般若心経というのが出来たんです。つまり、般若心経はマクロな仏教「大乗仏教」の経典なんです。 ですから、般若心経は、それまでのミクロな仏教の教えである、細かい教義をことごとく否定しているんです。(やたらと「無」と付いているのは、そのせいなんです) さらには小乗仏教の象徴的存在であった、お釈迦さまの一番弟子で「智慧第一」と言われた「舎利子(シャーリプトラ)」を攻撃対象に選んだんです。 観自在菩薩という在家の象徴である「菩薩」から、出家の象徴である「舎利子」がお説教を頂いているという想定になっているんです。(もちろん創作です)だから「舎利子」という呼びかけの言葉が二回も出てくるんです。 「舎利子よ、やれ耳界だ、眼界、鼻界、舌界、心界、意界・・・・だと難しい、細かいことを言っているが、そんなものは全て無い、全て「空」なんだよ」と、智慧第一の舎利子が、菩薩にお説教されているという想定なんです。 でも、このお説教のおかげで、小乗仏教のエッセンスがほとんど、この経典に紹介されているんです。 小乗仏教のエッセンスと、それら一切と「空」と見なす大乗仏教の考え方がみごとに内包されている(大乗仏教の)お経なんです。

  • unos1201
  • ベストアンサー率51% (1110/2159)
回答No.1

http://www.linkclub.or.jp/~bitte/hotoke/koumyousingon.html 下の方の解釈から参考にして下さい。 >色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。すなわち、およそ存在するもの、つまり物質的現象は流動的で変化し、また、さまざまな原因や条件によって生じたものであり、実体のないものである。その実体のないものによって、いろかたちあるもの、物質的現象はある。ですから、そのような実体のないあらゆるものにとらわれず、この世のすべては移ろうものであると諦観して、日々を送ることが肝要 現象と実態、観念、悟りの境地をそのまま表現したものみたいです。詳しくは解釈の仕方で変わりますがおおよそはこのような意味みたいです。

参考URL:
http://www.linkclub.or.jp/~bitte/hotoke/koumyousingon.html

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