すぐ前の回答が気になったので追加です。これは質問者様にとっても良い回答です。どうか読んでください。そしてこの回答も多くの人に伝えてください。メールやネットで。と、いうのは嘘です。ただ、いい文章なので広める価値はある気もします。
善とは何でしょうか。この世はユートピアになりうるのでしょうか。私達は繁栄すればするほど地球はどんどんと疲弊していきます。私たちが使う道具は全て地球を犠牲にしているからです。本は木を犠牲にします。鉛筆は鉄鉱石を犠牲にします。机も木を犠牲にします。機械は金を必ず使うそうです。電気は石油などを犠牲にします。プラスチックは石油を犠牲にします。樹脂も石油を犠牲にします。道路を作るためには山を切り開かなければなりません。家を作るためには地面を掘らないといけません。鉛筆のためだけにいくつもの鉱山が犠牲になっています。机のためだけにいくつもの森が犠牲になっています。私たちが原始時代に戻って道具を全く使わない生活になればユートピアになるでしょう。逆に言えば原始時代よりも優れた生活をすれば地球はどんどん消耗していっていつかは破綻します。モアイ像のあるイースター島では木を切り過ぎて滅亡しました。中世ヨーロッパでも森林が極端に減ったり、大気が汚れて大問題になりました。少なくとも現代文明と同等の生活を送ったとき、地球は数世紀以内に崩壊します。それは仕方の無いことです。
この世では幸せはありえません。それは全ての人が幸せにはなれないからです。毎日、私達は食べ物を食べます。それは他の生物の命です。他の生物を殺して生きています。毎日。殺さないと生きられません。そして今、69億人いる地球では、全ての人が食べていくだけでも地球はもう持たないでしょう。8秒に1人が飢えて死んでいます。この世に愛と優しさに満ちたユートピアの建築は不可能です。それはどうしようもないことです。仏陀は言いました。『この世は苦である。』残念ながら、それは真実です。そもそも動物や植物をムシャムシゃ殺して食べておいて幸せと言うならば、その人は真実を見ていません。私達は生きているだけでホロコーストも真っ青の大量虐殺者なのです。生物を殺して生きているのですから。私の為に犠牲になった植物や動物のことを考えるだけでも私は幸せになれません。そして向上した人なら尚更そうでしょう。他の生物を殺して幸せではいけません。人間だけが幸せではいけません。全ての生物が幸せであること。これが本当の幸せの条件です。弱肉強食では幸せは成り立ちません
あなたはまだ気付かないかもしれませんが、必要悪はあります。つまり必要な悪です。人と人がいじめ合うのも必要です。もし現代社会からいじめが完全になくなったとしたら、ストレスから病気になって死ぬ人が大勢出てしまいます。現代の文明は高度です。そのために現代の文明の維持は大変です。それで現代の文明はストレスが多いのです。ストレスの多い社会ならいじめも多いのは仕方の無いことです。昔は高校でもDNAすら習いませんでした。勉強が簡単で楽でした。ストレスの少ない平和な時代でした。それが昔です。
私は善を勧める宗教は大好きです。しかしそれなら何故、近所にゴミが落ちているのでしょうか。ゴミ拾いに出掛けると2,3時間で大体100個は空き缶・空きペットボトルを拾います。なぜ、それほどにゴミが落ちているのでしょうか。善を勧めるのならばなぜゴミが落ちているのでしょうか。このあたりを善を勧める宗教には聞いてみたいです。なぜゴミ拾いをしないか。なぜホームレスを救わないのかも気になるところです。ホームレスを尻目に教会では賛美をしていたりします。どうなのでしょうね。中世では司祭に初夜権があったという話もあります。その信憑性は怪しいですが、宗教は無知な一般民衆を操るには最良の方法です。
向上とは何でしょうか。みんなに優しかったら向上している存在でしょうか。違います。それほど素晴らしければストレスが溜まって病気になってしまいます。私の知人では優しい人は皆が自殺しています。もし向上して、優しくなったら自殺してしまって他人を不幸にするのかもしれません。愛の器が大きくなった時、生きること自体に耐えられなくなります。なぜでしょうか。こうしている間にも貧困国では子どもがバタバタと死んでいます。誰かがいじめられて泣いています。誰かが病気で苦しんでいます。誰かが絶望に打ちひしがれています。誰かが自殺を試みています。誰かが後悔で苦しんでいます。誰かが寒さで震えています。そして毎日、ホロコーストです。ええ。本当に愛の器が大きくなると、それらが見えてきて人生が非常に辛くなります。ZARDの坂井泉水さんも優しすぎて自殺しました。歴史の西郷隆盛という人も優しすぎて自殺しました。国語で出てくる太宰治も優しすぎて自殺しました。また、良い人は白血病などで死にます。夏目雅子さんは有名ですね。良すぎる人は早死にします。それは知人でもうなずけます。人生は苦しみだらけです。だからこそ悪を犯さないと生きていけません。それが人です。人も他の生物と同じです。ただ子孫を少しでも増やしたいのです。人間の本質はそこです。善にかたむくと体を壊して周りが不幸になります。
そもそも他人を幸福にすることが出来ると思いますか? 良かれと思ったことが他人を不幸にすることはいくらでもあります。人生など不幸だらけです。他人を不幸に出来ると思ったら、それは人生を甘く見ています。他人など救えません。救えると思ったらそれは傲慢(ごうまん)です。私は人助けをしても、相手が不幸に遭って絶望するのをいくらでも見てきました。
あの世で裁判があります。よくある考え方です。人生は不平等です。幼い頃から愛をそそがれた人は他人を愛して生きていけます。そうすればその人は死後は良い世界にいけるのでしょう。幼い頃から人に憎まれて生きていくと他人を愛して生きていけません。その人は死後は悪い世界に行くのでしょう。これはおかしいと思いませんか? 人生は不平等なのに死後に平等に裁かれること自体がそもそも矛盾しているとは思いませんか? 幼い頃に愛をそそがれたか、悪をそそがれたか。それで人生などいくらでも決まってしまいます。それなのに幼い頃に愛をそそがれた人も憎まれた人も死後には同じように裁かれる。これはおかしいです。
悪は悪です。しかし悪を否定するのも悪です。悪は自分の気に入らないものを否定します。暴走族が世の中を否定するのも同じようなものです。極道が犯罪をするのも同じです。しかし悪を否定したら悪です。暴走族が世の中を否定するのは世の中の矛盾が辛いからです。学校の教師が勉強する理由を説明せずに勉強を押し付けるからです。学歴で人間を決めるからです。実際、社会に出たら勉強はほとんど役に立ちません。極道が世の中で悪いことをするのは悲しいからです。日本で最高の学校である東大。しかしそこの卒業生の集まりである官僚が日本を破綻させようとしています。私から見ても財政政策は完全に失敗です。学校の先生が理想としがちな東大卒が日本を破綻に追い込んだといっても過言ではありません。私は東大生の知人も割と多いですが、彼らは大体は金持ちです。挫折していない人達です。そういう人達には不幸な人の本当の悲しみや苦しみは分かりません。そのためか意外とエリートの知人は腹黒い人が多いです。そういう上の地位を見て暴走したくなる気持ちは非常に分かります。私は洋書を沢山読んでいます。洋書とは英語で書かれた海外の本です。実は洋書では過去完了、未来完了などのマニアックな英文法の知識はほとんど使いません。SVOCなどの文型も洋書を読む際には使いません。私は結局、文型は覚えないで英語を覚えました。学校は社会で使わないかもしれないことを教えて順位付けします。そういう矛盾に気が付いたなら、暴走したくなる気持ちが分かります。私は極道の知人もいますが彼らは間違いなく悲しい人生を送っています。彼らは割と貧乏な人が多かったです。そもそも幸せだったらみんなから嫌がられる極道にはなりません。幸せだったら悪にはなりません。あなたも幸せだったら極道にはなりたくないはずです。不幸だから悪になるのです。だからこそ悪を否定してはいけません。悪を許さなければいけません。悪には悪なりの理由があります。学校制度に矛盾があり、大人は嘘をつきたがる。会社でも上司はいばるばかりです。同僚は足の引っ張り合いです。人を教育すべき上の方が醜いことはいくらでもあります。社会に出た時に出世する方法は上に従うことです。それでサラリーマンは酒を飲むのです。この世は矛盾だらけです。苦しみだらけです。悪になってしまうのも当たり前です。
地獄は存在しません。私が神様なら全ての人を天国に送ります。地獄におちるべき人間はいません。この世には。誰もがこの苦しい世界で悲しんでいます。なぜ地獄に落ちる人がいるのでしょうか。どんな犯罪者でも必ず悲しみを抱えています。幸せなら悪になりえません。この世は苦しい所です。そのような場所では醜くなって当たり前です。神様は自分の気に入らない存在を地獄に落としてはいけません。そういう神様はワガママです。自分の気に入らない存在を地獄に落とす。悪を否定する。それこそが悪です。上に書いた暴走族や極道と根本的に同じではないですか。それは神様としてあるまじき態度です。極道の人は非常に不幸です。私は彼らの悲しみや苦しみを知るたびに辛いです。悪人の苦しみや悲しみを全て分かったとき、この世には地獄におちる人がいないとわかります。地獄におちる人などいません。絶対に。
読んで下さり誠に有難うございました。
お礼
ご教授、ありがとうございました。 参考にさせていただきますが、 ↓ 近代カトリックは、聖書そのものも、 人が神と相対する為のテキストとして とらえており、絶対の物ではありません。 自由に考えて良いと思います。 ↑ は、納得できませんでした。 聖書が絶対のものでないとは、信徒さんの言葉とは 思えませんでした。少し残念です。