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虚無主義に対抗するには?
『こんにちは。実は最近悩んでいます。 みなさんは、生きている事など虚しいことだ、なんて考えた事はありますか? 思ったのですが、どうせ私達人間が、どれだけ努力をして社会に貢献し、文明を発展させたとしても、何万年後か後に人類が生き残っているなんて言う保証はないし、もっと未来の百億年ぐらい後には太陽系すら消滅しているのだから、巨大な宇宙に比べて一人の人間の存在なんてちっぽけなものにすぎないのではないでしょうか?圧倒的な虚無の前には、人が生きている意味など皆無に等しい。ましてや、意味や概念などは、人が生きるために作り出したものではないか?そんな風に考えていると、かつては美しいと感じていた正義とか愛、自由や平等といった数々の理想が、全く信じられなくなってきます。信仰する宗教でもあればそこに逃げ込めるのですが、残念ながら無神論者です。最近では、自殺も考えます。生きている事が苦しみの連続なら、むしろ自ら命を絶ったほうが幸せではないでしょうか?だいたい、私が今日死ぬのと、明日死ぬのと、どれほどの違いがあるというのですか?家族が悲しむ?そんなの、ささいな問題です。あ、でも一人で死ぬのは癪だから、道連れに大量殺人でもしてやろうか、なんて考えています。』 といった感じの、虚無主義にはまった鬱病患者が知り合い(友人とは呼びたくないが)にいて困っています。彼を説得して人生に対して意義を見出させるにはどうしたらよいでしょうか?それともこんなアナーキストみたいな奴、ほっといたほうがいいのでしょうか?
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寂しい話ですが何故生きているかの意味は無いような気がします、 "殺人"又は歴史に残るような偉業を成し遂げたとしても、 後の世代の目に付くときには、きっと新聞や教科書の一行程度の過去でしょう。 社会秩序から外れた意見ですが、文明社会での生活の手段や生きて行く作業は 自分以外の多数の生命や財産を守る社会人の法的秩序であって、 本来自然の営みの中では死ぬも生きるも個人の自由意思だと思うのです。 仕方無しに生きている、しかしその人が無意味だと思いながら生きている空間にも 生きていく事の楽しさを寿命の限り追及してきた先人が脈々と行なってきた 生きていく事への"技"が受け継がれていると思うのです、 "面白き事無きこの世を面白く"以前意見を頂いた方に教えて頂いた高杉晋作の 辞世の句ですが、必ずその方も人生に楽しさを探せるはずだと思うのです。 下にも意見がありましたが、情報過多になって何を楽しんでいいか 判断出来なくなっている状態ではと思います、 今は単純に自分を探す時間が必要なのではと思うのです。 自分を探すことは迷路を彷徨う事にも似ています、 その方は口ではあきらめていても、きっと出口を探していると思うのです。
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- aruberihi
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私の極論についてくる人が居ることを嬉しく思う(笑) さて、数件わからない事があるようなので私なりに考察した結果を論じよう。 >哲学が「なぜ?」と問うことをはじめ 私の立場から答えるならば「なぜ」と言う言葉じたいに意味が無い。 なぜならば、宇宙に意味など無いからだ。 宇宙は「ある」だけに過ぎない。 ただし、宇宙に意味は無くとも宇宙の起源を探求することには意味はある。 なぜならば、人は「知識を探求する欲求」があるからだ。 この場合、意味があるのは人間であり、宇宙ではない。 「意味」「理由」は人間に帰属するものである。 ただし、これらを探求しようとする意思そのものが進化論的過程のもとに本能プログラムに組み込まれたことを忘れてはならない。 つまり、意味・理由を探求しようとする「意思」そのものが物理法則の体現なのである。物理法則に意味は無いように「意味」「理由」には意味は無い。 理論が巡回しているように感じるだろう。 まさにその通りである。 物理法則の体現たる人間そのものに意味は無く。しかし、「意味」は物理法則の体現たる人間に帰属するものなのである。そして、人間は宇宙に「意味付け」をしようとする。にもかかわらず、宇宙は純然と「ただ存在するだけの存在」として「意味の無い存在」として存在する。それでも人は進化論的過程から発生した「意味付け」「特殊化」を行なおうとする。 そりゃ、解けないわな >物事に優劣をつけたがる傾向にあるように見える それは真理である。 これは進化論的立場から回答できる。 世界にある絶対的な真理は「強いものが勝つ」である。 これだけは確かだ。 物は引力が強い方に引き寄せられる。 原子は結合が強くなるような方向に化学反応を起こす。 人間の場合はよりすぐれた人間の子孫を残したいと思う。 逆にいうと自分の子孫を優れたものとして残す為には優れた異性の気を引く必要がある。その異性もまた優れた人間を探し出そうとしている。 ならば、自分は他とは違う「より優れた存在」として認めさせなければならない。 優劣の概念はここに起因していると言えるだろう。 >生命と物質が同価であるという思想 正確には違う。 どちらにも「価値(意味)がない」のである。 意味付け、価値付けは人間に帰属するものである。 >「殺人は悪」という論理は(中略)変わる新しい論理も見当たらない 「殺人は悪」という思想はルールである。 本能に帰属したルールと言えるだろう。 ”限定つき真理”と言う言葉はまさに的をえているように思う。 >殺人が善であるということを、論証できる場面も、社会にはあり得るだろうか…? 裁判における死刑判決がこれにあたると思うが? いや、違うな。 害悪を抹殺するという意味があるだけで善ではない。 カマキリの話しを思い出した。 カマキリのメスは出産直前にオスを食べる。 栄養をつける為だ。 これは同族殺しとも言えるかもしれないが、カマキリにとっては当たり前の事であり、その社会の中では善である。 そもそも、善と悪という言葉自体が人間の主観によるものであり、自然界では無意味である。人間でも種族、宗教などで善悪が変わる事を忘れてはならない。 以上
- aruberihi
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はふん? いいね、いい感じだねぇ。 オッケーだ。ナイスだ。 おおいに悩み賜え。 って感じだな。 だが、他人に愚痴るのはエレガントとは言えないな。 こういう問題は自分で結論ださにゃいかんな。 そもそも、見ていて鬱陶しいしな。 そう言う奴に私から一言 「進化論的視点から人間の発生過程を考えて見ろ」 「物理法則の視点から人間を考えろ」 ですな。 ----------------------------------------- 補足説明 私自身がいつも取っている立場から意見を言わせてもらおう。 私自身は無神論者で「人間とはそこら辺の石と変わらないただの物である」という意見の人間だ。唯物論とは少し立場が違うように感じるので唯物主義者と自称してるがな。 どう違うかというと霊や神の存在を否定しないところである。化学的証明のしようのないものは「存在する立場」と「存在しない立場」の両方を取るということだ。また、「精神」の存在も考慮する。精神も物理法則が体現した一つの形態とみなす。 話を戻そう。 閑話休題 この立場をとった場合、進化とは「物質の進化」のことであり、人間とは物理法則を体現した一つの形態にすぎない。 その価値は魚やそこらの石ころ、太陽、星々と同価値である。 ところで、「価値」とは何だろうか? 人がなにかに価値を見いだすときとはどのようなときだろう? それはある物事に対して「他とは違う状態」「特殊性」をもって初めてそのものに「価値」を見いだすのである。 ここで唯物主義的立場からするとすべての事象、物は同価値である。 等価であり、優劣はない。 優劣がないと言うことは特殊性がないと言うことである。 一方、人間は進化論的人間発生過程において、自らの特殊性を主張したいと本能的に考えるように作製されている。 つまり、人間は自らに意味づけをし、特殊化しようとする。 しかし、等価であり特殊でない人間を特殊化しようにも出来るわけがない。 よって、自己矛盾が発生し悩む。 自爆してるわけですな。 愚かなり(合掌) ---------------------------------------- 私の立場からすると「正義や愛や自由、平等が美しい?その成り立ちをよく考えてから言ってる?」とか「正義って何?自由って何?」とか言っちゃいます。 信じてる?……愚かです。 人間が作り出した幻想です。 んで、このような主張な私だが死にたいと思ったことはあるのか? ありまくりだ。 というか、精神的には常に崖っぷちだ。 崖っぷち状態で15年以上生きているな。 我ながらしぶといものだな。 自殺するくらいなら死ぬ気でなにかやってから死のうと思っているからかもしれんがな。 それに本能は「生きよ」と命じるし。 「好きなこと」たくさんあるし「責任」もあるし……ま、いろいろ現世に縛るものがあると言うことですな。 --------------------------------------- 彼の人の言動に対して一言ずつ述べる >生きている事など虚しいことだ そう感じる場合、あなたは好きなことはなく、他人から見放されているように感じている可能性がある。まず、それを解決するのだな。 >どれだけ努力をして社会に(中略)巨大な宇宙に比べて一人の人間の存在なんてちっぽけなもの 人間と宇宙の価値は等価だ。 宇宙に物質があるように宇宙に人間があるのだ。 その発言は人間の主体である「私」の存在を絶対視しているが故に出てくるものである。主体たる「私」は他と自分を区別し「特殊化」するためのものである。「特殊化」するが故に優劣を決定しようとするのだ。物に優劣はないようにただの物にすぎない人間の価値に優劣はない。人間と宇宙は同等である。 >意味や概念などは、人が生きるために作り出したものではないか 生きるために必要かどうかは知らないが人間が作り出した虚像であることは確かだ。 しかし、虚像であることを知りながらその意味に固執しているのはあなただな。 生きている事が苦しみの連続ならというが「苦しみ」も虚像だ。同時に「幸せ」もまた虚像だ。 結局、お前は虚像だらけの世の中で何がしたいんだ? 幸せをつかみたいのか? 「幸せ」も虚像にすぎないのに? 自己矛盾だらけだな(やれやれ) >あ、でも一人で死ぬのは癪だから、道連れに大量殺人でもしてやろうか よくよく考えてその結論に達しなたらやっても良いが自分の無知、考えなしを棚上げしてないか?自分は何?自分の意見が人間代表の意見見たく勘違いしてない? 聞いてる分だとただの馬鹿で愚か者だぞ? よく考えて主張があるならやってくれ賜え。 -------------------------------------- ま、なんにせよ。 ここら辺の悩みは自分で悩んで自分で結論を出すしかないんじゃないかな? http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=115914 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=116514 上記のURLでも同じような悩みの輩がいるな。 115914の方では生きるための原動力について考察している。 参考になれば幸いだ。 以上
- plankton
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先程、私がすばらしいと思える文章に出逢えました、 その方がどう受け止めるかはわかりませんが機会がありましたら是非。
- firee
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どうして「一人で死ぬのは癪」なのでしょう。 この辺からせめては如何ですか?
鬱・・・。そう書いてあって少し変に思いました。大変親しい友人に,鬱病に悩まされている方が一人いらっしゃいます。いろいろ理由があって治療は受けずじまいなのですが,今回お教えいただいた知り合いの方とは,何ともタイプが違っているようですね。わたしが知っている鬱というのは,『人間が生きている価値がわからない』のではなく,『自分が生きている価値が判らない,自分の存在に罪を感じる』といったものです。人間そのものが,虚無の対象になっているというのは,なかなか,本心ではないような気がしてなりません。鬱病ではないのか,もしくは,その発言は本当の心に気付いて頂きたいがゆえか,どちらかなのだと思います。そういった自分の暗い部分を,visnuさんに知って欲しかったのではないのでしょうか。そしてそれでも,visnuさんに,変わらぬ友人でいて欲しかったのではないでしょうか。visnuさんは,きっと彼に頼られているのですよ。visnuさんなら,彼の心を開く事もできるような気がします。話を聞いてあげてください。彼の存在を受け入れてあげてください。見知らぬ医者よりもずっと,visnuさんは彼の心を開く事が容易だと思います。彼そのものを認めてあげれば,彼は死んだりはしません。visnuさんが,悲しむ事になるのですから。今は強がっているだけなのだと思います。こういう形でも,彼を想っていてくれているvisnuさんは,優しい方ですね。ですが,それが帰って重荷になってしまわぬよう,お気をつけて,気長に相手をしてあげてください。そして,もし宜しければ,またこのように開かれた場で,近況や,困った事をお教えください。少しでもお役に立てれば何よりです。
- cotiku
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空海は10歳のとき自殺未遂してますね。 松ノ木にひっかっかって命があったのでこの世にご用があるのだろうと生きることにした。最期は不治の病にかかって食を絶って死にました。 鬱病は結構頭が良いのかも。 昆虫などは食べて生殖して死んで・・生きがいなど必要ないように見えます。 人間も生きがいを必要としないのが原点で、ただ退屈凌ぎに生きがいなんて言葉を作ったと考えれば、お知り合いに人生の意義を持たせようと考えなくて良いのではないでしょうか。その方は空海のように哲学者になる人なんだから「うん、そこまで考えたか!次はどうなるのかな」と言ってあげてたら? なお、殺人は(本来は自殺も)犯罪です。命が人工的に創られず神(?)の領域にあることを考えてみれば、禅の考案の「どこから来てどこに帰るのか」といった、内面的解決に向かうと思うのですが・・ 仏教ではこの世のことは来世に持ち越します。それだけでも教えて上げたい気になりますね。 >生きている事が苦しみの連続なら、むしろ自ら命を絶ったほうが幸せではないでしょうか? ・・死んだら終わりではなく、その続きは来世に持ち越すだけですよ。
- cse_ri
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実は何千年も前に同じような課題で悩み苦しんだ人がいました。誰かといえば、 仏教の教祖であるお釈迦様です。 「四苦八苦」なんて言葉も現代に残っていますが、これも仏教からきています。 四苦は「生・老・病・死」です。(八苦は忘れた...) 生きるのが苦しい、年寄りになるのもイヤだ、病気はつらい、ましてや死ぬのも... なんて、まるでvisnuさんの友人のようですね。 これらの問題に正面から取り組んで、修行の末に悟りを開いたのが仏教の始まり なんですが、まぁ仏教の経典なんて読んでも難しいだけですので、まずは 手塚治虫先生の「ブッダ」あたりから始めましょう。 手塚治虫先生の「ブッダ」はもちろん漫画ですしフィクションも相当入っていま すが、それでも随所に人生のヒントや生の希望が散りばめられています。 先ずは一読を!
- uglyel
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私も 無価値主義です。 残念ながら虚しいという方向に考えた事はないですが ほっとけば良いと思います どのような説得にも無効化にできる考え方ですから でも 自殺をしようや 大量虐殺をしようなんて 人生に意味をもたせようみたいな感じですね そんな事しても意味がないのに 意味がないからこそやってもいい 矛盾が生じます この世のあり方へのわるあがきみたいな感じですね そう考えると みんなのやっている 社会貢献や 文明発展と同じ わるあがき ただ 何もせずこの世を流れておくのが嫌なんでしょ だったら 自分がしたい気持ちいいと思える事をすればいい ってな感じですかね 言うとしたら それとも これから素っ裸で 東京を練り歩き 東京タワーで叫んでもいい 意味なんてないならできるはず 出来ないと言うのが答え やりたくないと言う感情が答え みたいな
お礼
確かにそうですね。 話し合うことですら無価値だといわれたら、もう進展しませんから。 だけど「虚しい」と感じるということは、かつては何らかの価値を信じていたと言う事だろうか?信じていたものに裏切られたから、「虚しい」と感じたのか それとも自分の価値を他人が賞賛してくれなかったから「虚しい」と感じたのか、あるいは自分の望みがかなわない事に対するいらだちからだろうか? ということは何か原因のある感情なのだろうか? まあよくわかりません。
- Masato_a
- ベストアンサー率21% (13/60)
>どうせ私達人間が、どれだけ努力をして社会に貢献し 私が言うのもなんですが、その方は、本当に努力して社会に貢献した経験がない方だとお見受けしました。 一度、達成感や協調感、無償の汗を流す楽しさを経験したほうがいいでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに労働して汗を流す喜びを知れば、また別のことに興味が向いてくるのだろうと思います。ただ、そういった行動力がある奴だったら、人生が虚しいだなんて感じないと私は思うのですが、一体どうなっているのでしょう?
深刻な状況ではないと仮定してお答えします。 大量殺人を準備していたら最寄の交番まで知らせてください、病気だったら医者に任せましょう。 それ以外の場合は、説得するのは難しいですが、ほっておくのもかわいそうです、積極的に説得しようとするよりあなた自身が生きがいを持って明るく生きている事が、日常の生活の中で、問題の彼に影響を与えることに期待しましょう。彼から相談されたら説得するより話を聞いていろいろ質問するほうが有効かもしれません、あなたと話すことで生きる楽しみを見つけるかもしれません。あなたは自分と違う意見が聞けて、幸せと思えると、よろしいのでは。
お礼
これが一番現実的な手法だと思います。 この質問のレベルは1、「暇なときに回答ください」に設定したとおり、私はこの問題をあまり深刻にとらえていないのです。なるほど説得する必要もあまりないのかもしれません。
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お礼
なるほど、批判をすると言うことは何らかの価値観に依拠したものであって、おおよそ人間界で教育を受けて育ち、風土的な影響を受けてきたものは、信仰する立場を捨てて思考することは難しいのかもしれない。 確かに私も言葉の枝葉をとらえて、矛盾を追及することはできるが、それでは結局本質的な疑問には答えられないのだ。 哲学が「なぜ?」と問うことをはじめ、歴史が記録されてから数千年たつというのに、私達は、なぜ宇宙は存在し続けるといった面倒な事を続けているのか?いつ宇宙は生まれたのか?人間の知りうる事には絶対的な限界があるのだろうか?我々はそもそもどこからきたのか?そしてどこへ行けばよいのか?といった、いくつもの根源的な質問に答える事は、まだできない。(といっても、数千年経ってわかっていないという事実が、時間的に遅いのか早いのか、比較する対象がないからわからないが。) そういう疑問が解ければ、理由がわかればもしかしたら人間は生きる事に対して何の疑念も抱く必要もなくなるのかもしれないが、結局、今の時点では私はそういう疑問には答えられないのだ。だけど、解くべき命題が残っているというのは、生きる理由に充分なるとも思う。 ところで人々は、価値観というものが社会の産物(もしくは遺伝子の?)であることに気づいても、物事に優劣をつけたがる傾向にあるように見える。もしかしたら人類には価値体系を欲しがる習性を持っているのだろうか? 生命と物質が同価であるという思想に、反論するだけの論拠は見当たらないが、それだと少々困ることが起きるとも思う。 もしかしたら人々は、そういう科学にはカバーできない分野を宗教という非論理的なものに求めているのかもしれない。 「殺人は悪」という論理は、全宇宙的に考えれば真理でも何でもないが、少なくとも人間界では、この意見はかなりの広範囲にわたって流布しているものであるし、割と優れた論理でもあるので、”限定つき真理”といって差し支えないだろうと思うし、それに変わる新しい論理(殺人が善であるということを、論証できる場面も、社会にはあり得るだろうか…?)も見当たらない。