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本能寺
法華嫌いの信長が なぜ上洛時の宿舎を、法華系の本能寺にしていたのでしょうか?
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信長は本能寺を京都における定宿と決めていました。記録によると当時の本能寺は現在の本能寺(京都区寺町御池下ル)から西南西へおよそ1.5Km四条西洞院にあり、壮大な伽藍を誇っていたといいます。本能寺の変の際の火災のため当時の寺の様子を知る直接の手がかりは失われてしまいました。わずかに、天正(てんしょう)元年(1573年)、狩野永徳が描いた『洛中洛外図』やヤソ会のビィレラが同規模の繁栄を誇った法華宗の本国寺、本法寺の記録を残していることから推測できるのみです。 それによると、敷地は1万5千坪、東西50メートル、南北おそらく320メートルくらいの広大な寺域を持っていただろうと思われ、境内には塔頭が整然と建ち並び、その数30~40近くあったと思われます。そして最盛期には3百人以上の僧侶が住んでいたのではと推定されます。寺の周囲には、全て堀を割りめぐらしてあり、堀の内側には、高さ3メートル近い土塀がありました。この堀と土塀の間にはさらに、堀を彫った時の土を利用して土堤がもうけてあったというまさに城のような構えの寺です。 信長が上洛のたびに本能寺を宿舎にしていた理由は、本能寺がこのような城構えをもった軍事的要塞だったからです。加えて、当時京都の町衆=有力財界人がほとんど法華信徒であったという精神的に安らげる面からも信長にとってこの本能寺は、京都における最大の安全地帯だったと思われます。
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- reny
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信長の外交僧で朝日日乗という人が一時期権勢を持ちますが、確か法華宗の人だったと思います。 きっかけは、京都の町衆(法華宗が多い)が信長を懐柔するために、便利のいい本能寺を提供したのではないでしょうか?
- rczd
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永禄十二年の初寄宿以来、度々寄宿先として本能寺を利用し、元亀元年十二月には定宿とする旨、信長から本能寺へ禁制が出されました。 この禁制によると、信長の定宿とするため、他人の寄宿を停止するとあります。 本能寺にとってはありがた迷惑な話で、その寺の宗派や教義などは信長にとってどうでも良い話ではなかったかと思われます。 信長は主に二条妙覚寺、二条御新造、天正八年頃から本能寺を本格的に主な寄宿先として利用しています。 選定理由は、位置、規模などが考慮されたものと思われます。