それはお話のつくりによるのではないでしょうか。舌きり雀は一種の報恩譚(恩返しの話)と勧善懲悪がひとつになった物語であるという部分にポイントがあります。
恩返しと勧善懲悪をひとつの物語にまとめるためには、
恩をかけてくれた人(善行) → お返し(恩返し)
恩をかけてくれずいじめた人(悪行)→ 仕返し(負の恩返し)
という構図で物語を構成しなくてはなりません。舌切り雀での善行は「雀を大切に飼うこと」、悪行は「舌を切ること」です。飼っている雀の舌を切るのは、もちろん隣のいじわるばあさんでもかまわないと言えばかまわないのですが、どちらかといえば飼主であるおじいさんと一つ屋根の下に住んでいるおばあさんのほうが自然です。いくらいじわるでも、隣で飼っている雀の舌を切るというのはいささかゆきすぎで現実味がないのではないでしょうか。
それにもし隣のおばあさんに雀が舌を切られてしまったとすれば、今度は隣のおばあさんとこちらのおじいさんの交渉という一段を話のなかに挿入してあげないとどうもまとまりがつかなくなります。いくらおじいさんがいい人でも、となりの家が勝手にそんなことをしたら文句のひとつも言いにゆくであろう、ということは用意に想像されますが、こういう脇筋を入れると話がもたついてくる。それに「どうしてそんなかわいそうなことをするんだ」といわれた人が、隣にならってのうのうと雀のお宿に出かけるのもおかしいといえばおかしいのです。こっちのおばあさんなら、舌を切ったとは家、おじいさんといっしょになって夫婦で雀を世話してやった、という恩義が、すくなくとも成りたちえますが、これが隣のおばあさんでは「恩ということはなにもかけてくれず、それどころか善良な雀の舌を切ったクソ婆」がおみやげを期待して出かけてゆくということになって、いささか設定に無理がありすぎる。
おばあさんがおじいさんのまねをして出かけ、しかも失敗して帰ってくるには、(1)おじいさんとの共通点、(2)おじいさんとの相違点、の両方が必要なのです。おばあさんは主観的に(1)=恩義、のほうにばかり視点がいっているが、じつは雀のほうは(2)=いじめ、のほうばかり記憶している。だから齟齬が生まれて物語が成りたつわけです。
これはたとえば瘤取り爺さんでもいっしょで、となりのいじわるなおじいさんは、(1)=俺だって踊りは踊れる、(2)=踊れるには踊れるけどヘタクソ、という二つの条件を満たしている。花咲爺さんの場合は、最初の宝堀りは、(1)=同じ犬に探索を任せた、(2)=日ごろの行いがよくない(あるいは自分が育てた犬ではないという消極的な理由)、となって、報恩譚の性格が弱いのですが、物語の核である花咲かの部分では(1)=同じ灰を使った、(2)=でもその灰のもととなった犬を殺したのはいじわるじいさん、と、みごとに報恩譚と勧善懲悪が結びついている。
ひるがえっていえば、もし舌切り雀にとなりのおばあさんが出てきていたら、ちょうど花咲爺さんの宝堀りのように、いささか報恩譚としての骨格が弱くなるような気がします。そのためにおじいさんとおばあさんは夫婦になっているのではないでしょうか。
ついでに言えば、おばあさんの残酷な仕打ちには、現代の視点からすると「雀にばっかりかまけている」というおばあさんの嫉妬も感じられるような気がします。これなどはおじいさんとおばあさんが夫婦だからこそ成りたつ要素ではないかと思います。
お礼
博識と論理的な回答、ありがとうございます。「或る朝」のご回答も読ませて頂きましたが、ここ数日のkankaso uroさんの怒濤の書き込みには目を瞠るものがあります。