少し補正と補足を入れます。
補正)
>もともと原始仏教では、釈迦も阿羅漢の一人でした。つまり阿羅漢と仏陀は、本来は同義語なのです。
「同義語」は言い間違いですね。仏陀は悟った人のこと。阿羅漢は、尊敬されるべき者の意味。ただし、両方とも原始仏教では、悟った人を指す言葉で、同じものを指すことに変わりありません。
>とくに説一切有部というある種の特殊な存在論を説く学派に対して、自分たちの立場から批判を向けものです。
これもおおむねその通りで、大乗の人々(とくに有名な龍樹などはそうです)が具体的に批判したのは、説一切有部という、ある一部の仏教学派ですが、広い意味で、自分たち大乗の教えこそが一番優れていると思っているので、その意味では、テーラワーダなど、自分たちの奉じる大乗以外の仏教諸派も、一段劣ったもの、小乗的なものとして、捉えていたということは言えると思います。ただし、実際のインドでは、大乗と小乗という対立関係は、それほどなかったとも言われています。経典など記録されたものは、ある一面を誇張して伝えていることも多いようです。
補足)
>チベットでいう阿羅漢の定義とはなんなのでしょうか。
私はチベット仏教の個別論(後期タントラなど)については、よく知りませんが、インド大乗仏教の理論を基本的に引いていることを念頭にすれば、この点についての大まかな説明はできると思います。というのは、チベット人も、例えば『法華経』等の大乗経典を読みますし、私たち日本人大乗仏教も『法華経』等の大乗経典を読みます。この『法華経』は、阿羅漢のことに触れていることで有名ですが、使っている経典がほとんど同じなので、大乗仏教の流れを引く派は、基本的な思想は近いのです。テーラワーダでは、『法華経』や『阿弥陀経』などの大乗経典は読みません。よりどころにする聖典がかなり違います。だから、教えの内容も、かなり違います。
阿羅漢の定義。まずは、先程もあるように、自分だけの救いを求める小乗の聖者という意味があります。これを押さえてください。これは、チベットでの定義というより、大乗共通の定義になります。なお、ご存じないと行けないので、念押ししますが、チベット密教は、インド大乗仏教の理論を厳密に引き継いでいると言われ、大乗と密教を別のものと考えているのでしたら、それは少し違います。密教は、大乗仏教の理論をもとに、インドの他の宗教などの影響も受けつつ、さらに修行や実践面などで展開した宗教です。大乗の世界では、仏陀・・菩薩・・阿羅漢・・声聞(仏の弟子)というように、新しく位を組み直しました。「菩薩」を新しく造って、阿羅漢の上に置きました。大乗の人は、阿羅漢を、「自分だけの救いを求める小さい聖者」と低く定義づけました。彼らは、阿羅漢を真の意味での聖者だとは思っていません。真の聖者のあり方は、「菩薩」以上です。菩薩は、自分の悟りよりも、人を救うことを優先します。大乗仏教は、「人を救う」ことを標榜し、それが素晴らしいとしたのです。ですから、最終的な悟りを開いた「仏」も、大乗の世界では、救済者です。阿弥陀仏を見てください。極楽浄土へ迎え入れてくれますね。救ってくれます。ただし、お釈迦様の時代のもともとの仏教や、テーラワーダの仏は、基本的に救ってはくれません。あくまでも、教えを説くだけの存在です。あくまで、自分を救うのは、自分しかないという考え方です。大乗の人は、阿羅漢を「自分の救いしか考えないケチな聖者」とののしっていますが、阿羅漢に言わせれば、「ケチなのではなくて、自分を修めること以外に、他に悟りの道はない(出来ることは説法して手助けするだけ。聞くのは人の自由で強制できない)」と言うと思います。ちなみに、菩薩は強制することもいといません。無理矢理にでも救うことに力点があります。そして、この阿羅漢の考えが、本来の釈迦の考え方です。悟った聖者は、どうなるかというと、「炎を滅した状態」となり、「寂滅」の境地にいるだけです。瞑想しないと、具体的には想像しにくいですが、「無」という状態に近いと思います。ですから、何もしません。同じく悟りを目指すと言っても、大乗の仏は救済志向であり、原始仏教の仏には救済の意志はなく、指している内容は違います。そして、大乗の人々は、そういう原始仏教の仏や悟りでは、物足りなかったのです。真実の悟りは、無になることではなくて、永遠に救済をして活動することだと考えました。ですから、救済者である菩薩は、当然、やはり救済者である仏になれます。悟れると言うことです。しかし、阿羅漢は、どうでしょう。「無」の状態にあるものが、救済することは出来ませんし、無になったものが、もはやいわゆる存在としてあるのかも分かりません。そこで、あるものは、「阿羅漢は、仏になれない」と言い出しました。もう「無」になったんだから。「いや、無と言っても、何らかの存在としてはまだあって、仏になれるんだ」という人もあります。ただし、阿羅漢のままでは、仏にはなれません。菩薩にならないとなれません。つまり、大乗仏教の基本理解では、阿羅漢は阿羅漢のままでは悟れないのです。
大乗仏教は、原始仏教で説かれた聖者のあり方では不満足でしたが、これは世界観の違いによるところが大きいです。「この世は、苦しみであるから脱却しよう。悟れば、この世の苦しみから出られる」というのが、原始仏教の考え方です。でも、それでは満足行かない人も居ます。「苦しいけど、本当はこの世は素晴らしい。気づいてないだけ。だから悟ればそのすばらしさに気がつく」と考えたのが大乗の人々です。だから、大乗の人々から見れば、苦しみから逃れた状態にしか過ぎない阿羅漢は、真には悟っていないし、仏たるものそんなものではない、阿羅漢は自分のことしか考えていない、という主張になるわけです。
大乗の主張には、歴史的な要素などいろいろ絡みます。分かりにくかったかもしれませんが、これ以上は、簡単に書けません。分からない時は、仏教史の本を適当に図書館で読んでみて下さい。ダライ・ラマの本は、宗教書としてはとても優れていて、素晴らしいですが、歴史的なことは書かれていません。大乗も小乗も、テーラワーダもまとめて整理してお話になるので、この手の話を調べるのには向きません。
お礼
解答ありがとうございます。 やっぱりテーラヴァーダイコール小乗ではないんですね。 思ったとおりでした。