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自分の気持ちを言語化することについて
初めまして。私は都内の大学院に通う学生です。 専攻は心理学とは全く違うのですが、 「自分の気持ちを言葉にする。」という事に関して 大変興味があります。 私は小さい頃から大学に入った位までずっと 何かに触れた時に生じる自分の気持ちというものを 瞬時に言語化することができないで 黙ってしまう子供でした。 そして恐らく言語化ができないがゆえに、 周りの人が言語化した彼らの気持ちを聞くと あたかもそれを自分の気持ちであるかのように錯覚し、 自分の気持ちとして頭の中に位置づけ、 判断、行動をしてきたように思えます。 今その頃の自分を思い返し、客観的に分析してみると、 何か出来事に触れた時、心の中に 「感情(言葉にはなっていない衝撃のようなもの)」 が生じていたことは確かでした。 周りの人たち(全員とはいいませんが…)と自分は 恐らくそこまでは一緒なのに、 彼らはそれを瞬時に言語化して発言でき、 私はできないという違いがでていました。 そのように考えると、 自分の気持ちを言語化するのには何らかの 必要な「力」というものが あるのではない、 それを具体的に言葉にしたいと考えるようになりました。 自分でも考えているのですが中々難しく、 行き詰まってしまった感があるので、 このような事に詳しい方がいらっしゃいましたら ご回答いただけましたら幸いです。 長々と失礼致しました。
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言語学の非常にマイナーな領域に「一般意味論」と呼ばれるものがあります。これは学問というよりは、人間にとって言葉を使うとはどういうことか、という実践を追求しようとするもので、普通の言語学の入門書や言語学の授業では出てきません。しかし日本でもこれについて継続的に活動しておられるグループがあり、インターネット上でもいろいろな情報が得られます。 一般意味論が主張していることは、人間の直接的な経験・感覚的な気づきのようなものを言葉にすると、その途端に多くのものが失われてしまうということです。昨日食べた料理のおいしさと今日食べた料理のおいしさは絶対に同じものではないのですが、「おいしい」という言葉を使ってしまうと、それ以上の区別が伝わらなくなります。言葉はコミュニケーションの道具として便利なものですが、いわば無限の経験を単純化して最大公約数で示したようなおおざっぱな面を本質的に持っているということです。 私達は日常の生活の中で、非常に言葉を簡単に使ってしまい、現実の感覚と言葉のずれになかなか目を向けることができません。そして言葉を現実と勘違いして、言葉によって単純化されたものを現実と思い込んでしまいます。一般意味論ではこれを戒めて、「地図は現地ではない」「地図は現地の全てを表すことはできない」と主張し、現実の感覚を瞬間的に言葉にするのではなく、判断を少し遅らせてみよう、というようなことを求めています。質問者さんの周りの人たちを含め、普通の生活の中で大抵の人間は瞬間的に気持ちを言葉にしているように見えますが、実際には言葉だけで伝えきれない余った部分を気持ち悪いなと感じながら、しかしそれ以上深く考えるすべもなく過ごしているのではないでしょうか。 参考のURLを一つだけ挙げておきますが、そこからのリンクをたどれば、いろいろな活動や関連の図書についての情報も得られると思います。
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- decidrophob
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私の専門は意思決定分析です。 「言葉にする」という言い方だと、あたかも、すでにある気持ちを言語化するっていう風に聞こえてしまうニュアンスもありますが、 No2. のかたの回答とかぶりますが、 一番重要な問題は、自分が「本当にやりたいこと」を突き止めることだと思います。 もし、それができていたら、言語化なんて些細な問題でしょう。 「ようわからんが、わたしはこうだ。」 って感じで、別に問題はないと思います。 えてして、 「瞬時に」言語化するような人は、それなりに頭がいいんだろうけど、 逆に思いつきレベルで言っていることもあり、 彼らが本当に自己分析が十分にできた上でそのような表現をしているかどうか、まったく定かではありません。 アメリカの MBA なんて、プレゼンは上手だけど、中身が空っぽの人も多いですよ。 ま、というわけで、 あなたには、 自己分析を薦めたい。 やり方の参考書としては、 HBS Press, Hammond, Keeney Raiffa: Smart Choices などがいいんじゃないかと思います。
心理学を勉強したことはないものです。 わたしも、#5さんのお答えの、お礼のコメントを見て、はっとおもいあたる人がいます。 そのひとAさんは、すこし話し方が とつとつとしていて、(吃音、というほどではなく、注意して聞くと、とまる瞬間が多い感じです。おしゃべりな人は、その間に入り込んでしまいます)でも、ウソをついてしまわないかに細心の注意を払っているのです。ちょっとその場を盛り上げたいとかで、大げさにいってしまうことも、ないです。 そして、推測で物を言わないです。悪口とか、噂も言わないです。 Aさんの実家では、皆 ほとんど、しゃべらないです。お母さんだけが、人の話を遮ってしゃべっています。Aさんがしゃべろうとすると、そんなことはつまらない、とか、すぐ評価を下して、また自分のしたい話を繰り広げています。わたしもそこで少し、口火を切りましたが、すべて撃沈… お母さんがいないところでは、Aさんも、ほかのメンバーも、ユックリしたペースではありますが、おたがいを思いやりながら、いろいろな話をしています。 私は 全く逆で、たくさんのきょうだいの仲で、わいわい、ぎゃあぎゃあとしゃべってそだちました。面白い話とかは3割増くらいに大げさにいうこともあるし(聞く方も、3割位引きして聞いてます、皆それでその場楽しくてすぐ忘れちゃいます)でも、こんなわたしも、きょうだいの輪以外では、ほとんど無口で、 何か言うことで、誰かが傷ついたり、言うつもりでなかったメッセージを 受け取り側がキャッチして、悩んだりするんじゃないか、と思ってしまいます。 じっさい、思い切っていっても、言ってしまったあと後悔することも多いです。 たとえば、何かに苦労してる人がいて、"こうしたら?(自分も同じ様なことでくろうしてこれでうまくいったから、なにかのヒントになれば。)"といったつもりが、 受け取りがわからしたら、 "わたしも一生懸命やってるんです。"と言う答えが帰ってくる場合、、、などです。 同じ言葉を発しても、発した方と受け取るほうでずれがって、それは、信頼関係とか、訂正が利き易い間柄でないと、不要な摩擦が多くなってしまって… 質問文と、自分なりに考えたことをまとめますと、 しゃべり言葉というのは、言葉自体のストックが多いかとか、失敗、成功の経験のストックとか、思考の蓄積とか、その場が安心できるものであるかとか、 そういうことが そろってでないと、安心してしゃべれない人がいるのではないか。 ということです。 余談ですが、アメリカ人の子供たちは、自分の思ったことを、言葉で人に伝える訓練のようなことを、日常的にしている(とわたしには見えました) まだしゃべれないうちから、"あなたはブランコに載りたい?それともすなあそび?"とかって聞いてますし。 (先に出したAさんも、しゃべりかたはとつとつ、もちろん英語になると更に困難、ですが、内容がシッカリしてる場合は、ちゃんと まってもらえて、はなしを聞いてもらえたようです。ので、英語でかなりいえるようになってました。。) 3歳くらいのこが、迷子になったとします。 アメリカでは、不安でありながら、きちんと、"マダム、ぼくのおとうさんを一緒に探してもらえませんか?” といえる子が多いです。日本では、ただないてる子を、周りが何やかやと"察して" 処理しますね。 スーパーのレジで飴玉をもらうとかの場面でも、アメリカでは、親に、子どもさんにこれあげていい?と聞いたあと、あげたほうが、"ほら、これ、もらったら、なんていうのかな?"と、直接子どもに聞いてからあげてます。そして、本人が、言うのを 遮らず、まってます。 日本でこれ(ありがとうは?)をやったら、親のしつけがなってないと批判するようなニュアンスが、何となく、、、ですがあると思います。 つまり、自分で言う、(間違っていたら、それを修正というのも大事な経験のチャンスです)という経験のストックが、ないならないで何とかやれる、むしろ、子どもには、はっきり言わせないで大人が先回りして決めてしまう雰囲気があるのではないか、と。私はそう思ってます。 うちのこは、発達障害があり、パニックがおこりやすいといわれる 障害なのですが、アメリカで 普通の子として数年間そだち、この訓練?社会の風潮?があったおかげで、 困ったときは、ことばで はっきり言うことができます。パニックの引き金となる、自分にとって何が不快か、ということを、説明できるだけでも、本人は楽なはず、です。 この例を出したのは、くれぐれも、子どもには子供なりの(言語や、社会性に明らかな障害がある子ですら)、言いたいことや、表わしたいきもちが 本来、あるもので、それを踏んだり、摘み取ったりしない方がいいんじゃないか、 とおもったからです。ご質問の趣旨と違ったら、本当に申し訳ないのですが… いえる人というのは、訓練をしてるから、経験を積み上げてるからだ、安心感があるからだ、と思う のが質問に対する答えです。
- michigan
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皆さんの書き込みとそれに対するpopon57さんのレス(特に#5さんへの)を読んで、あまりに自分のことと重なって考え込んでしまい、すぐに再度の書き込みができないでいました。 それこそ私自身、こうやって書いている自分の言葉さえ、そもそも自分の思いとは別に後からついて来たものであり、自分の思いのほんの一部しか載っけてはいないという、言葉に対する不信感のようなものがあるからです。 こういう、言葉に対する不信感のようなもの、またそこから生じる「言葉を使うのが怖い」といった状況を、「言語恐怖症(logophobia)」と呼ぶと思います。多くの場合「人前で話をするのが怖い」といったような「対人恐怖症」のような意味でカウンセリングや克服講座の対象になっていたりするようですが、単に訓練して人前で動じずに話ができるようになるという割合表面的なコミュニケーションの問題ではなく、もっと言語学的な、そもそも人間の意識というものと人間自身が生んだ言葉との関わり合いという、深い部分での問題ではないかと私自身は理解しています。 言葉の意味は、人と人との関係の間に初めて成り立つもの。ですから、下におっしゃっているような他者(特に母親)との間に精神的に健全な状況がなければ、おかしくなってしまうことがあると思います。 私自身は幸いにも全く「大きな」母親に育てられ、子供時代、家族との間では自分の感情が理不尽に乱されるなどということはない(またそんな状況など考えたこともないので心配する必要もない)という恵まれた環境で育ちましたので、そもそもの私自身の言葉に関する疑問や苦悩は、もっと純粋で平和なものです(^^;) でも大人になってある時期いろいろな経験をしてしまった中で、それまでに輪をかけるかのように「思いをすぐに言葉にできない」「しても不自然に、変になってしまう」etc.という状況に苦しみました。 ここでこんな例を引くのはとても不遜だと承知していますが、長崎の事件で女の子を亡くされたお父様が、言葉を道具に長年お仕事をされて来た方にもかかわらず、ある時の手記で「ことばがうまく話せない」と表現されているのを見た時、(もちろん事情は違いますが)簡単なその表現の後ろにさぞかしいろいろな思いが渦巻いて苦しんでいらっしゃることだろう、と、多分この世の中で何の疑問も不自由もなく自分の気持ちを言葉で表して生活している(と思っている)大多数の人よりは、私はその意味がわかるような気がしてしまいました。 自分たちが作った「不完全な言葉」に不信感を抱きながらも、でも私たち人間はその中で生きて行くしかない、というのも確かです。大ざっぱに一つの言葉に気持ちを「載っけきれて」、あるいは「言葉を自由に使いきれて」いると思っている人たちよりは自分は、ほんのちょっとした言葉の違いにも感じることが多い分、苦しかったりもするけれど、ラッキーなのだとも考えられるかも。 言葉にまつわる私自身の経験、そしてこれまで考えたことを、もっと具体的にここで書いてみるとpopon57さんが「ああそうだ」と思って下さることもあるとは思うのですが、あまりに長くなってしまうことと、先にも言いましたように私自身今使っている言葉はあまりに私の気持ちの「一部を切り取ったもの」としか考えていないので、これ以上お話しする勇気がありません(^^;)。現在タイムリミットのある仕事を抱えていることもあって、何だか尻切れトンボなままこれで失礼することになると思いますがお許し下さい。 またどこかでお会いできるといいですね。
お礼
ご回答ありがとうございました! すごく深くゆさぶられる部分が いくつかあり、 そこからまた考えが広がっていきましたが、 それを書くと長くなってしまいますので、 やめておきます。 お忙しい中真剣に考えてくださって 本当にありがとうございました。 お仕事頑張って下さい。
- sonokoron
- ベストアンサー率43% (96/222)
popon57さんのご質問を大変興味深く拝読致しました。 私の精神疾患の治療の根幹が「言語化」でした。私個人の体験をもとに、あれこれ調べてきた私の独学の範囲ですが・・・ 日記などの書き言葉ではなく、しゃべり言葉として言語化するには、相手の存在が不可欠であり、だからこそ、相手と自分との関わり方が非常にネックになります。 popon57にとって、子供時代に対人関係の基礎となる母親との関わりですぐに「ごめんなさい」と反応していたことで、言語化するステップを飛ばしたのだと思いますし、本当は言語化したかった思いが残るからこそ、周囲の人の言語化したことを自分の気持ちだと思っていたのでしょうね。そして、popon57さんは今では訓練の結果、客観的に自分を表現できるようになったのですね。これはすでにpopon57さんが気づいていることですね。 ただpopon57さんにとって疑問として残るのは、子供の頃からしっかり言語化できている妹さん(など)の存在ですね。 これはおそらく、気質の違いから来ているのだと思います。エニアグラムという性格分類学があり、それを勉強することでかなりのヒントがあるかもしれません。 エニアグラムは、例えば親と子の関係であれば、彼らの相性をタイプ分類しながら考えていき、「こういうタイプの母親は、こういうタイプの子供に対しては、このように関わるのが知恵だ」のように答えが出せる性格分類学です。 これは単なる想像・仮定ですが・・・・ popon57さんは、感情の起伏の少ない状況で物事を考えるのが普通で、外部の刺激を取りあえず危険なものと察知して回避する傾向があり、外部に起る物事より、自分の内面に起る物事に注意が向くタイプだとしたら・・・パワフルな母親との関係では言語化するのは難しいでしょうね。 これに対して妹さんは、感情の起伏があるからこそ、物事を判断する材料となり、外部の刺激は相手との関係性を作るためのものであり、外部に起る物事に興味津々で、自分の内面を振り返ることはその後、というタイプだったら、同じ母親に対しては瞬時に言葉で応酬できますね。 子供の話にはいつも傾聴する穏やかなタイプの親で、子供が活動的で感情の起伏の大きいタイプだったら、小さい頃からバリバリ言語化しちゃう子供に育つでしょうね。 popon57さんの疑問はもしかしたらこういう場所からも発見があるかもしれません。ご参考までに。
お礼
ご回答ありがとうございました! 書き込みをしてからまた少し考えていて 御礼が遅れてしまいまして 失礼致しました。 考えていた事は、 実際本当に私の中は 母親に叱られたときなどに 言語化できていない気持ちが 存在していたかどうかということについてで、 きちんと考え直してみたところ、 もう一番古い(幼い)時の状況ですら、 私は母親に言われた言葉に対して 判断することすらできていなかった ように思えます。 その代わりに存在していたのは言葉ではなく、 本当にただの恐怖や焦りや そんなようなものだけだった ように思えます。 相手の前で恐怖感を感じてしまっている時点で すでに相手へのフィードバックをするだけの 頭の冷静さは失われるもの なのでしょうか。 また、私には2人妹がいて、 まさに真ん中の妹はsonokoronさんが 分析された通り、自分の感情を とても強く表現する子でした。 しかしそれも今になって考えてみると、 彼女は即時、人が言ったことに対して反応していたにも関わらず しっかり自己表現ができていたとは いえなかったように思えます。 なぜなら彼女が発していた言葉は、 力づくという感じがあり、 実は本当に言いたいことは違うことのように 思えるものが多かったからです。 また実際声を荒げることなども多く、 それは自分が言葉にしているものと 実際の気持ちのズレに 無意識下でいらいらしていることの 現れだったように思えます。 一番下の妹はまた私たち2人とはまったく違い、 物事に対して冷静で、 淡々と相手の言葉を分析し、 クールに返答できる子供でした。 そういう意味ではこの妹が 自己表現ができていたんではないかと思います。 ちなみにsonokoronさんがされた私についての分析も 痛いほどあたっていました。 エニアグラムについてはこれから調べてみます。 ありがとうございました。
- yoroshiku4649
- ベストアンサー率0% (0/4)
私は「自分の気持ちを言葉にする」能力は、“興味”にも影響すると考えます。 私は子供の頃、なかなかしゃべらなかったそうでありますが、大人になってから、何故私はなかなかしゃべらなかったのか?と考え、「自分の気持ちを言葉にする」事より「思考する」事の方が楽しかったからではないか?と思うのです。 特に自分が「なぜだろう?」「これは良くない」と思った事に対して、口では「う~ん」とか、「良くない」としか言ってなかったと思います。そしてその後に頭の中で色々と理由を考えるのが好きでした。 逆に、「これはいい!」と思った事に関しては、「いい」と思った感情で満足してしまい、それ以上考えませんでした。 そして社会人になった時、自分の気持ちを人に伝える事がいかに重要な事か!と実感し、一生懸命しゃべるようになりましたが、 未だに私は“気にいらないもの”“納得いかない事”などに関しては、自分の気持ちをさまざまな言語で表現できますが、“いい”と思った事に関しては、何故いいと思ったのか?を説明する事ができません。 つまり私は、“いい”と思った事を表現する“言語”に興味がないのかもしれません。 それらを表現する言語を吸収したいと思っているのに覚えられないのは、興味がないからだと思うのです。人と会話をする中では、とても不便でなりません。
お礼
ご回答ありがとうございました! 興味の問題とは、これもまた私が予期もしていなかった 着眼点だと思いました。 また、「自分の現状の表現に満足しないで より細かいところまでみていって 表現を更新していくこと」が好きなのも 共通点だと思いました。 ありがとうございます。
- Syo-ya
- ベストアンサー率31% (558/1780)
絶対条件は自分の気持ちに気がついていないといけないんです。 (私も修行中ですが・・・) 例えば、生育歴等により、自己表現が妨げられる環境に育ったり、抑圧されていたりすると、これが上手く出来なくなってしまいます。 一言、文句をいえば、百倍になって返ってくる親とか、言葉より暴力という親元に育つと、自然と表現が稚拙になったり、下手になります。 あとジェンダーという問題もあります。 職業柄(生きるために)どうしても我慢しなくてはいけないとか、女性であるとかのレッテルによっても、抑圧を義務化されますので、これも自己表現の妨げになりますから、ストレスが溜まります。 あと、周囲の人との価値観の違いという根本的な問題もあると思います。 世慣れ(すれてる人)している人の意見と、世慣れしていない純粋な人の意見では、噛みあいませんし、価値観も違いますし、話が上手だったりして、到底、理解できませんから、自分の気持ちどころの話ではなく、相手の論法に飲み込まれて、ただ、ただ呆然としてしまうということもあると思います。 ・・・と、諸々の条件が揃うと、今、現在の自分の気持ちに気がつけなくなってしまうんです。その代わり、自分の気持ち以外の「誰かの顔色」であったり、「ジェンダー」であったり、過去の体験であったり、・・・「今、現在の気持ち」以外のものに置き換えられてしまうんです。 ですから、人によっては、些細な事を言われただけで、急に激昂したり、オドオドしたり、悲しくなったりする人もいますし、理不尽な扱いに対しても、言いなりになってしまったりするんです。 そういうのを治そうというのにアサーティブ・トレーニングというのがあります。(以下のフラッシュ映像をご覧ください) http://www.ask.or.jp/lifeskill/index.html あと以下の瞑想法も、「今、ここの自分」に気が付くための気づきの瞑想法です。これも確実に有効だと思います。(これは削除される可能性がありますので、早めにコピペでもして保存してください) http://security.okweb.jp/kotaeru.php3?q=1032118
お礼
回答ありがとうございます! そうですね、「気持ちに気づく」ということは 絶対条件だと私も思っています。 小さい頃の自分は、その「衝動」が 自分の心に起きていることも 意識できていませんでしたし、 まさかそれが 「言語化すべき気持ちの正体」だというところまで 考えが至るわけもありませんでしたので。 あとこれは推測でしかないのですが、 私は他人の言うことに対して とても動じやすかった気がします。 特に母親に対してその傾向が強かったと思います。 例えば怒られた時、 彼女の言った言葉の内容の判断する暇もないほど、 とにかく早く怒りから逃れたいという気持ちが 無意識ながらに働き、 「ごめんなさい。」を連発していた気がします。 けれども同じ環境で育った妹たちは こうはならなかったのがまた不思議なところです。 親との関係には、 たくさんヒントがありそうな気がしました。 ありがとうございました。
- michigan
- ベストアンサー率43% (76/175)
こんにちは! まさかここで自分と同じような方に会うとは思いませんでした。 自分の中にわき起こる言葉以前の感情と、それを言語で表現すること。 言葉に関する悶々とした気持ちと様々な疑問を抱えたまま大学に入り、そのまま模索の毎日だった私は3年の時ある先生と出会い、自分の長年の疑問が自分だけのものではなかったこと、それを解く鍵は言語学、記号論、そして文学にあることを教わりました。 それだけで目の前の霧が晴れ、それまでの自分の十数年が報われた思いでした。 お恥ずかしいことに以来長い年月が経ったまま、私の勉強は進んではおりませんので、これ以上の深いお話はできないように思いますが(^^;) 心理学というよりも言語学、記号論の域のことだと私は思っていますが、ご専攻は何なのでしょうか。こういった方面の本を読んでみられると、あるいはお心の晴れる言葉に出会うかも。 ご質問の中で、私には少しわからない部分もあり、大したお役には立たないとは思いましたが、あまりに自分と同じことで悩んでいらっしゃる(<もうほとんど「苦悩」です、私の場合(^^;))方に偶然お会いして、書き込まずにはいられませんでした。
お礼
回答ありがとうございます! 言語学、記号論とは、 全く私の知らない領域の学問でした。 しかしどんなものか知りたいので 見てみたいと思います。 ちなみに私の専攻といいますと、 大学院では食品成分の研究をしています。 本当に全く関係ないんです…。 よければmichiganさんが言語に対してどのように 悶々としていたかを 詳しく教えていただければ幸いです。 いろいろと気がつくことがあるかもしれませんので。 よろしく御願いします。
- U-more
- ベストアンサー率30% (81/266)
心理学や言語学を専攻したものではありませんが、失礼します。 人は自分の気持ちや感情を始め、出来事を描写したりしますが、 それは決してその人が100%作り出した表現の仕方ではありません。 うまい新しい表現の仕方を作り出せるのは、文筆業の人など極一部の人です。 普通はその人がそれまでに生きてきた中で、 人との会話やテレビやラジオなどから聞いたり、 本などを読んで知った表現の仕方を無意識のうちに真似したり、 言葉や構成の仕方をアレンジしたりして表現しているに過ぎません。 表現能力の優れた人というのは、 人から聞いたり、読んだりして知った表現方法を 頭の中にストックとしてたくさん持っており、 その場その場でうまくアレンジできる人ではないかと思います。 popon57さんの場合は、 おそらく、自分の気持ちを頭の中にイメージとして沸くのだけれども、 外部への表現方法としての言葉がみつからない、 イメージと言葉がうまくつながらない、ということですね。 完全に自分の表現で描写しなければならない、 というプレッシャーを無意識のうちにかけてはいないでしょうか。 最初は完全なマネでもいと思います。 テレビを観たり、本で読んだりして面白い表現の仕方を見つけたら、 それを覚えておいて、実際にそういう場面が来たら、 表現してみる、そんな感じでいいと思います。 慣れてきたら、描写の仕方をちょっとひねってみたりするといいですね。 言い方を変えるだけでも聞く人のイメージは全然変わることも 分かってくると思います。 まずはいろいろな表現方法をストックすることから始めたらいいのでは? 本でしたら、お勧めは、名言・名句辞典とジョーク集です。 名言・名句辞典などは含蓄のある表現の仕方の宝庫です。 あとは、小説に限らず様々な分野の本を読まれるといいと思います。 理系、文系と大雑把に分けてもいろいろな方面の考え方に 触れたほうがいいでしょう。 テレビでしたら、トーク番組(お笑い系も含めて)がいいと思います。 洋モノは映画、書籍共分野に限らず、うまい表現が多いように感じます。 少しでも参考にしていただければ幸いです。
お礼
回答ありがとうございました! 今、私は自分の表現に困っているということでは ありません。 数年前、 自分が自分の気持ちを言葉にすることができない ということを 真正面からつきつけられる場面に出会い (それが何かと書くと長くなるのでやめますが) そこからひたすらそれまでの自分を振り返って その時抱いていた感覚を思い出し、 納得がいく言葉になるまで ああでもない、こうでもないといいながら 言葉をあてはめるといった訓練に近いものを やったお陰だと思っています。 ですので、今は、言葉にできなかった自分を 客観的に分析している立場にあるといえます。 そのような訓練があったからこそ私には 「言語化」するという力が備わったのは分かりますが、 誰もがみんなこのようなステップを経ているわけではないと思うので、 小さい頃から無意識にできている人とそうでない人の 違い(?)といいますか、はなんなのかと思ったのです。 説明不足で失礼致しました。
お礼
ご回答ありがとうございます! 言葉にすることで何かが失われる感覚、 すごく納得しました。 私は確かに周りの人が 大まかな言葉(のように私には聞こえました) をばんばん口にしていることに対して 恐怖感に近いような感覚をもっていたことも 思い返せます。 自分の感覚を言葉にするのは そんな既存の1つや2つの言葉じゃ表現できなくて とてもとても多くの言葉でかたどっていくことが 必要だと思います。 彼らと私の違いは、 「言葉の正確さ (自分の感覚を正確に表わすという意味での) に対する敏感さ」 で、この高さが 口から言葉がでるまでにかかる時間の長さと 比例するのかな、とも思いました。 とても勉強になるレスを ありがとうございました。