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日台同盟

戦後の台湾(中華民国)との関係はすこぶる良好ですね。 元来、国民党の孫文も蒋介石もかなりの親日派です。旧日本陸軍の中堅参謀の出先での覇権主義、妄動主義、下剋上、場当たり的ご都合主義、視野の狭い出世指向が相まって日中関係は悪化のドツボにハマることになりますが、満州事変以後でもやり方によっては提携できたのではないかと思います。 上記のような陸軍の妨害がなく、長城線以南からの全軍隊・全警察隊の引き上げ、相互不可侵、領土不変更、善隣友好、共同防共(中共軍討伐の全面協力)、反ソ同盟、経済協力、満州国承認、等の懸案事項の解決が可能なら日中攻守同盟の締結に漕ぎ付けるのは容易だったのでは? 日中関係が蜜月であれば、枢軸同盟も敗戦も中国共産革命も日米安保も必要なく東アジアの秩序の枠組みは大きく変わったのではないでしょうか?

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  • staratras
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回答No.2

それは無理でしょう。 日本も中国(国民党)も、外交や軍事の面で自由な選択が可能だったわけではなく、それぞれ自国の国益に反すると当時思われた選択肢の受け入れは難しいからです。その背景には、両国の国民からのナショナリズム意識に基づく突き上げがあったことはいうまでもありません。 >長城線以南からの全軍隊・全警察隊の引き上げ、相互不可侵、領土不変更、善隣友好、共同防共(中共軍討伐の全面協力)、反ソ同盟、経済協力、満州国承認、等の懸案事項 難問ばかりですね。特に日本軍にとって「長城線以南からの全軍隊・全警察隊の引き上げ」は到底のめる条件ではなく、国民党にとって「共同防共(中共軍討伐の全面協力)、満州国承認」は極めて困難です。 日本から見れば、「満蒙は日本の生命線」であり、その確保のためには隣接する中国北部(北支)に日本の意のままになる政権が必要だと考えれば(長城線以南も含めて)中国での日本の軍隊などの行動が認められなければなりません。満州事変から満州国の建国に至った「成功体験」の影響も無視できず、「退くこと」は極めて難しかったと考えられます。塘沽停戦協定から梅津・何応欽協定を経て冀東防共自治政府の樹立となる一連の日本側の動きを見れば明らかでしょう。 逆に中国から見れば東北の三省は自国の一部であり、満州国という「偽国」を承認することは自殺行為で、せいぜい黙認しかできません。「内戦などやめて国民党も共産党も協力して日本と戦え」という世論が盛り上がっているときに(その象徴が西安事件)、「”日本の侵略”に抵抗などやめて、日本軍と協力して共産党を討伐せよ」という主張が多くの中国人の支持を得るとは(後の汪兆銘政権を考えても)想定できないですね。 国民党幹部が「共産党は日本と協力してでも打倒しなければならない」と内心では考えたとしても、下手に日本に協力すれば政治的生命を失いかねません。 余談ですが、中国革命の父と呼ばれる孫文が日本の神戸で講演して、日本に対して「西方覇道の鷹犬(手先)となるか東方王道の干城(守り手)となるか」という有名な問いかけをしてから、おととい(2024年11月28日)でちょうど100年になりした。この講演の翌年孫文は病死してしまいますので、いわば日本人への遺言のようなものですが、はたしてこの100年、日中両国ははどうだったのでしょうか。またこれからどうなるのでしょうか。

hamuhaiiko
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。思うんですけど、台湾人と中華人(大陸の輩ども)の気質・国民性・民度が同じ民族とは思えないほどかけ離れている。教育が如何に大切なものかを教えてくれているいい例だと思います。

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その他の回答 (1)

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (427/1332)
回答No.1

タラレバで歴史を語るのは、寂しい事ですが、歴史から学ぶと言う 観点からであれば。 大日本帝国での脅威は清国とロシアでした、米国は友好国で有り 太平洋の彼方の国なので脅威では有りませんでした。 日清戦争後、清国は国内が分断して、内乱状態に成り脅威では 無くなりました。 日露戦争後もロシアは南下政策を取って居たので脅威のままでした。 傀儡の満州国を建国した事に依り、緩衝地帯が出来、北海道と 樺太の防御を強化すれば一段落と成りました。 そんな折に、満州国の日本人の住人が惨殺されると言う通州事件 が起こり、日本国民が怒り支那人許さじの気風に成り、関東軍 が万里の長城を超えてしまい、パンドラの箱を開けてしまったのです 後は雪だるま式で友好国の米国との戦争まで一直線でした。 途中、蒋介石の中華民国との講和の機会が有ったのですが、 内閣の無能さで逃してしまいました。 何よりも、一等国に成ったと言う、おごりからか、国民の多くが戦争 する事を支持していたので、流れは止められなかった思いますよ。 只、昭和天皇が徳も礼も無いヒットラーの国と同盟するのには、 猛反対しましたが、内閣から上奏された事案を拒否するのは、 憲法違反に、なるので不快感を表にして署名した事が巷間に 伝わって居ますね。

hamuhaiiko
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。当時の日本はメディア、学校教育、そして天皇陛下の臣民すべてが戦争を賛美する風潮がありましたね確かに。その流れを止めるには310万人の犠牲が必要だったのでしょうか?

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