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近藤勇と永倉新八

新選組が甲陽鎮撫隊となって 甲州に言った時に 永倉新八が近藤勇に同志のみんなと 会津へ行きましょうと言った時に 近藤さんが 「拙者の家臣となって働くなら同意しよう」 と言って永倉さんたちは怒ってますが、 どうして怒ったんでしょう? 近藤さんは局長で隊のトップ、 永倉さんたちは部下なんだから、 新選組は同志の集団と考えて 近藤さんと永倉さんたちが同じ立場と考えて 怒るのは無理があるんじゃないかなと思います。

みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2300/5115)
回答No.4

>どうして怒ったんでしょう? 一般的な回答は、他の方々が答えている通りです。 が、実は・・・実は・・・。 「新選組が(甲州は通過地点として)江戸・東北へ転戦する計画を、近藤さんが拒否」したのですね。 何故か、近藤さんは「甲州に拘った」のです。 家臣になると、他の新選組隊士と一緒に移動する事が出来なくなりますよね。 近藤さんは、幕府軍として「甲陽鎮撫隊」を別途結成しました。 つまり、「永倉くん。幕府軍として甲陽鎮撫隊に入らない?」 永倉さんとしては、あくまで新選組の隊員です。 喧嘩になるでしようね。

o2b32
質問者

お礼

そういう解釈もあるんですね、 ありがとうございます

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11072/34514)
回答No.3

他の皆さんがおっしゃるように、組織としてやっていくために近藤勇を「リーダー」としているけれど、あくまで同志であって部下ではない、という意識なのだと思います。 趣味の会みたいなもんだと思えばいいですよ。集団を運営するために会長やリーダーを作りますけど、他の人たちは別にそのリーダーの部下ではないじゃないですか。リーダーが決めたことには従うけれど、指図される筋合いはありません。 それに近い感じですね。 また近藤勇が「拙者の家臣となって」と発言したのは、思い上がりからきたというより、私は「近藤が永倉の提案を却下するためにいった」のではないかなと思います。「俺の部下になるならその提案に乗るよ」といえば永倉が断ると思ったからじゃないかな。断らせるために、そういう言い方をしたのではないかなと思います。 近藤が甲州行きにこだわったのは、主に二つの理由があったと思います。 まず、これが幕府からの命令であること。近藤は自分が「幕臣」になることを夢見ていましたから、近藤にとっての主君は将軍です。会津に行くということは将軍を見捨てるということですから、それは彼にとっては受け入れ難い。近藤は幕府直轄領で江戸からも近い調布出身ですから、将軍への想いは強かったと思います。 永倉は江戸生まれとはいえ松前藩士でしたから、彼にとっての主君は将軍ではなく、松前藩主です。 そしてもうひとつの理由は、もしかしたらこっちが大きかったかもしれませんが、江戸から甲州に向かうことは、近藤勇にとって「地元への凱旋帰国」だったというのもあります。 実際、甲州に向かおうとする近藤一行は、地元で大歓迎を受けています。あちこちで宴席に呼ばれ、能天気に地元の旧友に「俺が大名になったらお前を家臣に取り立ててやる」といって酒を酌み交わして、その間にまんまと甲府を新政府軍にとられてしまっています。 「多摩のヤンキー」だった近藤からすれば「ただのヤンキーが公方(将軍)さまに取り立てられて一軍を率いて地元に錦を飾る」という誘惑には抗い難かったんじゃないかなと思います。 もしかしたら「いうてもう幕府はだめだろう」と思っていたかもしれません。それなら、故郷に錦を飾りたいと願っていたかもしれません。勝海舟はそれを考えて、わざと甲州に向かわせたかもしれませんね。 いうて新撰組ってのは今の時代に例えるならあのロシアにあったワグネルみたいなもんですからね。

o2b32
質問者

お礼

なるほど、いろんな解釈ができますね、 ありがとうございます。

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回答No.2

江戸時代のことを現代風に解釈したって意味はありません。 江戸時代の「家臣」は現代の組織「部下」とはまったく違うものです。家臣は主君に「仕え」「忠誠を尽くす」かわりに「領地」か「給与」をその主君から直接受け取ります。 では、近藤勇は、自分が幕府から受け取っている給与の中から、太子達の給与を払っていたのか?とんでもないことです。1867年、幕府は新選組を丸ごと「幕臣」としました。以後、隊士の給与はそれぞれに直接幕府から支払われていました。 江戸時代、「幕臣」はすべて等しく将軍の家臣です。五千石の大身と呼ばれる旗本も、80俵取りの御家人も、主君は将軍ただ一人です。大身旗本が奉行を務める役所で働く御家人も、決してその旗本の家臣ではありません。そして旗本もちゃんとそれを理解していました。 近藤勇は元々幕臣ではなく、田舎の道場主から新選組局長になり、1867年にやっと「みんなと一緒に」幕臣に取り立てられた人間です。だから根っからの幕臣、いや主君をもったことのある武士なら誰でも理解していた、幕臣の主君は将軍のみ、ということすら理解していませんでした。 18歳まで松前藩士というれっきとした武士だった永倉さんは当然それを理解していた。脱藩したのは剣術好きが高じてのことらしいですが、彼には当時の武士としての素養は全部あった人です。それが近藤を局長とし、土方を副長として支えてきたのは彼の旧態依然とした身分制度より、実力や人柄を重視していたからでしょう。結成の初期メンバー、同志として一緒にやってきた。土方や永倉や多くの隊士がいて彼らが懸命に働いたからこそ新選組は幕府に認められ、全員が幕臣になった。決して、近藤勇が傑出した人間で、それを見込んだ幕府が彼を幕臣にしたわけではありません。近藤個人が幕府に取り立てられたわけではないのです。幕府が認めたのは「新選組」という組織であり、たまたま近藤がその局長だったから近藤の身分を一番高いものにしただけ。 永倉からしてみれば、近藤はなにやら勘違いをして、自分一人の力で新選組を作った、自分が偉大な人間だから幕府が自分をたてていると思い込んでいるのは片腹痛かったでしょうね。それでも結党以来の「同志」と思うからこそ、新選組そのものは大事だったからこそ、目を瞑って一緒にいたのでしょう。 「拙者の家臣となって働くなら同意しよう」といったのが事実なら、怒って当然、呆れて当然です。まったくの筋違いだし、勘違いをしている。まぁ「貧すれば鈍する」といいます。人間の中には、貧乏になると性質や頭の働きまでも鈍くなる。 また、貧乏するとどんな人でもさもしい心をもつようになる人がいます。近藤勇はその典型ですね。

o2b32
質問者

お礼

なるほど、ありがとうございます。 新選組の雇い主は近藤勇ではなく 幕府ですね。

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回答No.1

部下でも「家臣になれ」は無礼だし、パワハラ案件です。 血筋的に永倉の方が身分が上なんです。 新撰組はいわばチームのようなもので、近藤はただのリーダーです。 プロジェクトリーダーがチームメンバーに「召使いになれ」と言っているようなものです。 そのメンバーがたまたま他所の会社社長の子息で。 学生さんならば部活動の方がわかるかもしれませんね。 和気あいあいとした部活だったのに、県大会とか優勝したくらいで部長が横柄な態度をとりだして、部員をパシりに使いだしたりしたらムッてきませんか? パワハラですよね。

o2b32
質問者

お礼

部活の部長が増長し出したら 確かに頭に来ますね、 ありがとうございます。

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