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平安時代の寺のトイレ

紫式部の枕草子を読んでいて、ふと思ったのですが、石山寺などの寺に籠る際、トイレはどうしていたと思われるでしょうか?

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回答No.1

日本も中国も欧州も昔は屋内での Toilet は携帯 Toilet (まぁオマルですね) に用を足して、その度、外にオマルの中身を捨てに行きました。 日本は水が豊富ですので、水場と共に下水用の水溝を作ってそこにオマルの汚物を捨てれば良い水洗式ですが、Europe (欧州)、特に Paris では石畳に石造の高層建物でしたから上階からオマルの中身を街路に捨てる事になり、街路は汚物で汚れ、汚物を頭から被って Trouble になる事もあったようです。 まぁ街路はもともと馬車を引く馬とか犬猫の汚物もありますので、人の汚物だけで匂っているわけではないのですが、貴族の館では階上からオマルの中身を窓外に捨てるのを禁じても 1 階窓脇にある花壇の隅に落ちるだけですので一向に止まず、禁止令は実効性がなかったそうです。 現在でも Paris は下水を浄化する事なく雨水と一緒に Seine 川に流す方式ですので Olympic の Triathlon では大腸菌問題が起きていましたね。 Rome 時代は Ammonia 化した小水を漂白剤として洗濯に利用していた事から小水は集められて洗濯屋が買い取っていたようです (タダ同然の値ですので、金を払うというよりも小水を集める水路とか小専用公衆 Toilet を洗濯屋が敷設していたようです)。……あの、白い布を身体に巻き付ける服は小水の Ammonia で漂白したいたわけで、高貴な人達の間では目に沁みる Ammonia 臭を消すために香油を身体に塗るのが流行したのでしょうね。 日本では江戸開発にあたって大小便を堆肥として利用する事が System 化され、江戸周囲の農村から市内に農民が肥を買いにくるので、長屋の持ち主は長屋の広場に共同便所を儲けて肥を溜めました。 地方では戦国時代より小水が染み込んだ土から Ammonia を抽出して火薬を精製できるようになった事から都市同様に共同便所が発達したようですね。 でも、流石に鎌倉時代以前の平安時代はオマル方式であり、オマルは樋箱 (ヒバコ) と呼ばれていたそうです。 上流貴族の屋敷は平安様式と呼ばれる人工の小川を床下に設けて、その上に樋箱 (ヒドノ) と呼ばれる便所を作り込んでいましたので、現代で言えば和式の水洗便所がありました。(但し、便座はなく、溝を跨ぐ姿勢で用を足す方式です) この方式は奈良時代からあったそうですが、奈良時代は家の中に便所を作るのではなく、屋敷の外に導いた人工の小川を跨ぐようにして小さな便所小屋を別に設置していたようで、小屋ほど立派なものではなく、桟橋のようなものの横を布や板で囲って雨よけの屋根を付けたぐらいの簡素なものだったようです。 修行で籠る者を受け入れたり高貴な人の滞在場となっていた寺は金持ちですので当時としては立派な Toilet があっただろうと思います。

tahhzan
質問者

お礼

小便が漂白剤や火薬の素になったというのは、初めて知りました🙀 それと、やはり、大きな寺はトイレ完備だったんですね。なるほど。情報、ありがとうございました😊

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その他の回答 (1)

  • FattyBear
  • ベストアンサー率33% (1613/4852)
回答No.2

こんな情報があります。 -------------------------------------------------------------------------------- 樋箱 | 奈良から平安時代の貴族のトイレ 貴族の間では「樋箱」と呼ばれるおまる式の便器が使われました。 十二単を着て使うのは大変なため、長い裾を掛けるT時型や、鳥居型の支えを設置。 女性は着物の中に樋箱を入れて、しゃがみこんで排せつしていました。 -------------------------------------------------------------------------------- 昔の禅寺のトイレの遺構の写真を添付します。 修行僧たちはここで用を足していたのかな?

tahhzan
質問者

お礼

え?こんなところで用を足していたんですか…丸見えですね(笑) なるほど。情報、ありがとうございました😊

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