• ベストアンサー

ヒカル君での疑問

NHKの光る君へを見ていたら、添付のような画鋲が嫌がらせの道具として出てきました。西暦900年代くらいに、こんな高度な工程が必要な画鋲が存在していたのでしょうか? それと、ドラマの中では、清少納言と紫式部が会話をしていましたが、2人は同じ時期に宮中に居たのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (417/1292)
回答No.2

古代の人の加工技術を侮ってはいけませんよ、上野に在る 国立博物館に行くと、精密加工された物が沢山有りますよ。 「光る君」は脚本家 大石静さんの創作です、歴史ドラマと して観ず、平安時代の煌びやかな様子を鑑賞して楽しむ ドラマなのです。 紫式部は中宮定子と清少納言が後宮を去ってから、5年後に 中宮彰子に仕えたので、二人の直接の面識は無いと思います。 ---------------------------------------------------------------------- 中世では女性の名前が記録されているのは、皇后や中宮などの 上位の人だけです、女性の名前を知っているのは、家族などの 近親者だけです、記録され残される事は無いのです。 万葉集には大王が村の娘に名前を教えろと迫る事が書かれています 男に名前を教える事は、夜這いに来て良いよと結婚了承に、 なるのです。 時代は下って鎌倉時代の北条政子は朝廷より官位を貰った時に、 記録された氏名で本名は身内以外は知りません。 小倉百人一首では女性の名前が蜻蛉日記の作者が「右大将道綱の母」 とかで記載されているのです。

tahhzan
質問者

お礼

そうなんですか。私も、その博物館には行きましたが、見落としていたようです(笑) それと、やはり、面識は無かったんですね。なるほど。勉強になりました。ありがとうございました😊

Powered by GRATICA

その他の回答 (1)

回答No.1

私もこの鋲は何だろうと思っていました 柱や建具の飾り金具のようなものでしょうか この間テレビの歴史番組で「清少納言と紫式部が宮中に居た時期は、ずれているので会っていない」と言ってました 清少納言は定子に、紫式部は道長の娘,彰子につかえていました

tahhzan
質問者

お礼

そうでしょうね。やはり、光るキ君へ、はそこそこフィクションが入ってるみたいですね。ありがとうございました😊

Powered by GRATICA

関連するQ&A