それはあの世直しの旅をしたことになっている自称天下の副将軍、水戸光圀公が「大日本史」というのを編纂したからです。
幕末あたりで「日本の歴史を学びたい」と思ったら、読むのはこの大日本史か頼山陽の「日本外史」が定番だったのです。
日本書紀は720年に成立ですから、それ以降の歴史については日本書紀には書かれていません。そこを穴埋めしたのが黄門様だったのです。
なお、黄門様は「天皇は尊い」としましたが、天皇を信仰の対象にはしませんでした。質問者さんのような天皇を信仰の対象にしたのは、大日本帝国すなわち明治時代になってからです。
当時の明治政府の最大の悩みは「世の大多数を占める武士階級ではない者に、どうやって国防意識を持って徴兵に協力してもらえるのか」だったのです。当時の人々の常識では「戦うのは武士(階級)の仕事で、農民は戦う必要はない」というものだったのです。
また明治の元勲は、ヨーロッパに留学したときにキリスト教が人をまとめる役割を果たしているのを見て、「国民を一丸とさせるため、日本にもキリスト教のような求心力がある存在が欲しい」と思うようになりました。
そこで明治政府は、尋常小学校で「天皇は君たちのお父さん、皇后は君たちのお母さんのような存在なんだよ」と教えることで天皇にキリスト教的な立場も置くことにしたのです。これはとっても上手くいき、北朝鮮では「将軍様は君たちのお父さんのような存在なんだよ」とそのまま取り入れることにし、中国でも「習近平国家主席は君たちのお父さんのような存在だ」というようになりました。
幕末の志士の「尊王攘夷」は、なんというか、「ただのノリ」です。みんな周りがそういってるから乗っかってるに過ぎず、西洋の力を目の当たりにしたら手の平返しで「やっぱこれからは開国よ。脱亜入欧だよ」となったのです。しかもその思想の「転向」に志士たちが葛藤した様子は全くありません。伊藤博文なんてバリバリの尊王攘夷テロリストだったんだから。
まあそれをいうと、徳川幕府に殉じたことになる新撰組の土方歳三さんが函館で撮った遺影は、いち早くちょんまげを切ってざんばら髪にし、和装じゃなくて洋装にブーツですからね。アンタ武士になりたかったんじゃないんかよって思います。
幕末の志士に「思想」も「信仰」も、ないんです・笑。