確かにサツマイモ(甘藷)は現在は主食にはなっていませんが、昔は今より主食に近い位置づけでした。
九州の天草に「ねたくり甘藷にイワシのシャア(菜)」という言葉がありました。「サツマイモを煮て練り混ぜたもの(ねたくり甘藷)+イワシのおかず(菜)」という意味です。天草は離島であったうえに山がちでしかも人口が多かったので、米が貴重品でこうした食事が庶民の常食だったことがわかります。サツマイモは米と比べて保存しにくいので、昔は「いもがま」という四畳半ほどの広さがある貯蔵施設を床下に作っていたそうです。
「日本人の常食は米である。などという判断は都会の上層部の生活だけを見て云ったことで、少なくとも明治の終り頃までの九州の庶民は米を常食にするような余裕はなかった。」と昭和36年に出版された書籍には書かれていました。(「ふるさとを訪ねて 熊本 少年少女文学風土記11」)
ただそのような貧しい暮らしの中でも「本来の主食は米だ」という意識は失われず、例えば麦や粟を混ぜて飯をたく場合でも、ごちゃまぜにせずに地図のように分けて炊き(特に米は1か所にまとめるので「片つら飯」とも言われた)、神棚や仏壇に備えるにはその貴重な米の飯でなければならなかったそうです。子どもたちは学校から帰ってその神棚や仏壇から下げた冷や飯を喜んで食べたという話も伝わっています。
日本人の主食が芋や麦(パンや麺類も含め)にならなかった背景には、この(経済的に可能ならば)「米を食べたい」という強い願いが一貫してあったということではないかと考えます。長患いの病人の枕元で米を竹筒に入れて振ってみせる「振り米」と言ういささか悲しい風習も全国各地の米作が困難だった地方に伝わっています。病人はその音を聞いて米を食べる楽しみを思い出して病気が治る、また治らない場合でも安らかに冥土に旅立てるというのです。
最近は「日本人の主食は米」という常識も少々怪しくなっていますが、それでもパンや麺類を食べていても「あさ(ひる・ばん)ごはん」と言っています。