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戦国時代における国衆と地侍の違いについて

戦国時代における国衆と地侍の違いについて教えてください 地侍は、国衆の下位の存在という認識で合っていますか? また、戦場において地侍はどういった役割を果たしたのでしょうか? おおよそで大丈夫ですので、石高、率いた人数、役割の一例を挙げていただけますと幸いです。

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  • head1192
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回答No.2

地域によって呼び方が違うのでいちがいに「こうだ」といえない。 同じ「郷のまとめ役の農民」でも、地域によって庄屋と言ったり名主と言ったりする。 将軍の直轄地があれば大大名が自治を行う国もあり、大勢力がいなくて小勢力の群雄割拠の国があれば加賀のように侍が一切関与しなかった時期が100年続いた国もあったりする。 日本の国は千差万別だった。 というわけで >地侍は、国衆の下位の存在という認識で合っていますか? とひとつにまとめることはできない。 それが唯一可能な回答である。 現在の中央集権国家ではないのである。 補足として。 戦国時代、国を治める勢力はおおきく二種類あった(他は省略する)。 一つは鎌倉以来の守護大名が治める国。 この種の国は家来も先祖代々の家が多く、地侍とかは存在しない。 もう一つは下剋上で成り上がった家。 そういう家は旧来の勢力を全面的に頼ることはできない。 郷とか村とかを守るために成立した地侍・国衆を抱き込み自勢力の拡張を図った。 ここにも「御恩と奉公」の関係が成立する。つまり 「俺の勢力でお前の郷・村を守ってやるから軍勢は出せ」 というギブ&テイクである。 その軍勢が数十人規模か数百人規模かで、勢力における発言力はだいぶ変わってくる。 家康の家(松平郷の松平家)にとって酒井家は最大の兵力を提供できる同盟先だった。 だから後年酒井家は徳川家の筆頭家老になった。

poxtupo1117
質問者

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  • gunsin
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回答No.1

豪族、国人、国衆、地侍、の明確な区分が無く、歴史家や小説家が 適当に使い分けしている様ようです。 地域に根差した武力集団で大名から独立した存在なのですね。 正確な地図が無かった時代には、攻める側は地域に詳しい、彼らを 必要とするし、守る側には、彼らの武力が有効になります、 彼らは情勢を判断して泳ぎ廻りますので、情報収取に長けていま した、小判鮫的な存在なのです。 蜂須賀小六は美濃の川浪衆でしたが山賊同様でした、ラッパ、忍び が配下にいて情報収取はお手の物でした。 真田家は真田の荘を支配する国人でした、武田家と敵対していました 山本勘助の説得に依り武田家に組しました、此の事で武田家の信濃 攻略の糸口になりました。 楠木正成は河内を中心とした地方豪族で武将などと呼べるような 存在ではありませんでした、大塔宮護良親王と連携して幕府軍 と千早城で戦い倒幕の起点となり、倒幕の機運が高まる礎を 築いたので名を挙げました、千早城の戦は大軍の幕府軍に敗れて 城を脱出してます。 前田利家の家は荒子村に城を持っていた国人でした、織田家の 家臣となりました。 歴史の陰の部分なので、詳しい記録は残って居ません、大名に 重宝に使われて、山中鹿之助の如く歴史の闇に消えた存在が数多 いたでしょう。

poxtupo1117
質問者

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