- ベストアンサー
文節に区切ってください
等身大の科学としての博物学を大いに広めたいと思っている。 と強調する理由はもう一つある。 (池内了先生の文です) 2行目は1マス空いていますので新たな段落です。 「と」が3個出てきて困っています。
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
再度の補足を拝見しました。 このたびは、面白い話題をありがとうございました。 久々に、楽しく頭の体操をさせていただきました。 *私が興味をもって録画し、何度も再生し視聴しました池内了先生の天文学講座は、「宇宙はどこまでわかっているか」というものでした。きわめて先端的な天文学の解説という、この上なく深い内容がありした。しかも、池内先生の魅力は、そういう最前線の自然科学を扱いながらも、「人間を忘れない」心的態度がいろいろな局面でにじみ出るところでした。説明の端端に先生の豊かな人間性が感じられて、学問的な知見とともにある種の安らぎさえ与えていただいたような感覚があります。 以上、お礼と余談の追加まで。愉快なひとときをありがとうございました。 なお、こういうご質問は大歓迎です。ぜひ、「またのご登場」をお願いします! (<Q>) (← 特製「波平風、お礼兼お願いマーク」)
その他の回答 (9)
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
投稿後に読み返してみましたら、幾つか誤植があるのに気づきました。 誤植を訂正し、必要な補足を加えて再送します。 (再送分) >A法:「と」3が接続詞であるならば、何の問題もありませんね。 「と/強調する/理由は/もう/一つ/ある/」と区切れると思います。 しかしながら、使用している中学国文法の参考書には「と」という接続詞は見当たりませんでした。 (今回中学生用の教材から拾って質問しています)。 ⇒この「…ね。と強調する」部分の解釈は、確かに悩ましい問題ですね。『国語学辞典』(国語学会編)は、この種の用法は自立的に用いられる接続詞とは異なるとして、《接続助詞》と呼んでいます。また、山田孝雄は「下に来る語の意味を修飾する副詞と共通するところがある」との観点から、これを《接続副詞》と名づけています。つまり、一言で言えば、専門家もいろいろ迷っている、ということのようです。それで上掲書は、「将来の研究を要するところが多い」と結んでいます。 >準接続詞(自立語)と解釈する。 も失礼ながら歯切れが悪いような印象で、中学生には説明しずらいですね。 ⇒図星です。私の勝手な解釈ですから、先に仰せのとおり「中学国文法の参考書にも」見当たらないこともそのとおりですし、「歯切れが悪い」ことも否定できません。「準」接続詞としたのは、ちょっとそのへんに譲歩したつもりでした。とはいえ、実は、私は、「と、そして、しかし、だが、または」などの語は、独立の品詞《接続詞》として一項目立てるべきではないかと常々感じていましたので、(何の前置きもなく)実行してしまったというのが偽らざる実状です。ただし、必ずしも、全く理由がないわけではありません。というのも、softwindさんが問題として取り上げたテキストの発話者(池内了先生*)も、この「と」(3)を接続詞として意識し、それを意図した修辞法で用いているに違いないと直感したのです。 *池内了先生(阪大教授)は、大好きな先生です。かつてNHKで10数回シリーズの天文学講座を担当なさったことがあり、興味をもって全部録画して何度も再生してみたことを記憶しています。 つまり、池内了先生の「個人語的用法」(idiolect)を親しく共感し、共鳴したわけです。ですから、これは私の個人語的用法でもあります。ところで、文法的説明は、現実の実用の後追い(統計)ですね。したがって、実用が変化すればそれに適合する形で説明も変化させることが必要になる(はずなのに、辞書的には追いついていない状況なのだ)と考える次第です。言語は一面心理的存在ですので、表現上の不具合があれば、いち早くそれを感知し、それを自分なりに修正する方向にバイアスがかかる傾向があります。それを無意識に感知して、それに沿った用い方をすることがあります。ただし、その場合、世間的には得てして「誤用」と認識されてしまうことがあるようなのです。本件はまさにそれに当る例でしょう。しかし私は個人的に、これを単なる誤用として片づけてはならないと思います。しかも、しばしば、こういう個人語や俗語が言語の変化を牽引することがあります。 >B法の格助詞説は 広めたいと/思って/いる。と/強調する と区切れるならありかもしれませんが、句点も段落も無視して良いという話しになってしまいますね。 ⇒仰せの、「広めたいと/思って/いる。と/強調する」という区切り方は、A法と同じ区切り方ですね。私がこのB法で意図した区切りは、「広めたいと/思って/いる。と強調する」とするもので、つまり、「句頭接辞」を念頭に置いてのことです。ただ、用法的な違いがあります。「か細い、そ知らぬ」の「か」や「そ」と、「と強調する」の「と」とは全然意味素性が違いますからね。ともあれ、私はこのB法はあまり重視していません。A法が本命と考えています。ですから、B法の話は、ここで一旦打ち切ります。 上述の個人語的用法を敷衍する格好になりますが、「言語は自らを治療する」と言います。言語は、何らかの不都合やゆがみが内部にあると、これを修正しようとする要因がわき出してきます。これを「誘因」と呼ぶならば、これに呼応する人間の側の修正欲求は「動因」と呼ぶことができます。この両要因が組み合わさるとき、自然な変化が実現します。 時系列に沿って見る言語の実体は「通時態」と呼ばれ、一時期を輪切りにして体系全体を見る場合は「共時態」と呼ばれます。現代における共時態は、通時態の現在的帰着点ですので、当然その共時態の内部だけで体系的説明がなされなければなりません。その意味で、辞書や文法書はつねに時代遅れになります。我々としては、眼前の共時態が示す実体を、何らの付帯条件もなしに体系づけなければならないことになります。上述の個人語の発想は、これに呼応した見方であると言えるかも知れません。 >「多分に主観的独断」とおっしゃいますが、僕には勉強になります。 中学生向けに?それを先に言ってよとお𠮟りを受けそうですが、引き続きそれでお願いできますでしょうか。 ⇒自然は連続していますが、言語では不連続にしか表せませんね。常に「分節」によってしか表現できません。濃い灰色と薄い黒色の分かれ目であっても、どちらかに振り分けなければならないことになります。ですから、「白牡丹といふといへども紅ほのか」(高浜虚子)という名句は、実に「うべなるかな」です。 昔、著名な国語学者が、授業中の高校生から「は」について、《この「は」本当に主語を表していますか》という質問を受けたものの即答できず、宿題にさせてもらいましたが、それでも答えが出せず、大学院に戻った、という話を聞いたことがあります。 彼もまた、連続態を疑似的ながら不連続態に移し、グラデーションの連続部を一刀両断で二区分し、アナログ的様態をディジタル仕様の表示に変えるなどしながら、現代的共時態の体系化に苦悩したに相違ありません。まして、我々(いや、言い換えます)私ごときが、このような区分問題の、多肢択一に迷わないではいられません。それが偽らざる実感であります。 以上、明快なお答えでなくてすみませんが、補足へのご返信まで。
補足
ありがとうございます。 >文法的説明は、現実の実用の後追い(統計)ですね。 とか、 >辞書や文法書はつねに時代遅れになります。 とか、 ああ、そういうことなんですねと思います。 幸いなことにと言いますか、僕がとり上げた例文の部分は現実に中学生に向けて問うたものではありません。 さすがにこんな出題をしたら、自殺行為としか言えませんね。 文節について教えていて、長い文章のこの部分を目ざとく発見されて質問されたら、さて何と答えようかと思ってしまった次第なのです。 このままではそれこそ答えられずにキャンパスに逆戻りです。 万が一生徒に質問されたら、 僕の常套句の「諸説あるけど」で始めて、《接続助詞》とか《接続副詞》の説があるけれど「接続詞だよ」ととりあえず答えるのがいちばん良いような気がしてきました。 どこかの数ある辞書参考書には「接続詞『と』」がきっとあるに違い(ような気がしますので)。 もう一つ、 この文章はいわゆる論文(説明的文章)だけど、文学的文章の要素も大いにある文で(池内先生の文章だしね)、文節に区切るなどという無粋な作業を受け付けない部分なんだよね。 昔の文豪の作品には結構こういうのがあったりします。国語学者泣かせですよねえ(笑い 。 と煙に巻く。 ちょっとこれはまずいか・・・w Nakay702様には重ね重ねのご回答御礼申し上げます。 仰せのこと、完璧に理解できてはおりませんが、久々に脳みそをフル回転させて、勉強したぁという充実感もあります。 そろそろ閉めようと思います。 ほかにご教示いただけることがございましたら、また所感などございましたら、よろしくお願い申し上げます。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
補足を拝見しました。 >A法:「と」3が接続詞であるならば、何の問題もありませんね。 「と/強調する/理由は/もう/一つ/ある/」と区切れると思います。 しかしながら、使用している中学国文法の参考書には「と」という接続詞は見当たりませんでした。 (今回中学生用の教材から拾って質問しています)。 ⇒この「…ね。と強調する」部分の解釈は、確かに悩ましい問題ですね。『国語学辞典』(国語学会編)は、この種の用法は自立的に用いられる接続詞とは異なるとして、《接続助詞》と呼んでいます。また、山田孝雄は「下に来る語の意味を修飾する副詞と共通するところがある」との観点から、これを《接続副詞》と名づけています。つまり、一言で言えば、専門家もいろいろ迷っている、ということのようです。それで上掲書は、「将来の研究を要するところが多い」と結んでいます。 >準接続詞(自立語)と解釈する。 も失礼ながら歯切れが悪いような印象で、中学生には説明しずらいですね。 ⇒図星です。私の勝手な解釈ですから、先に仰せのとおり「中学国文法の参考書にも」見当たらないこともさることながら、「歯切れが悪い」ことも否定できません。「準」接続詞としたのは、ちょっとそのへんに譲歩したつもりでした。とはいえ、実は、私は、「と、そして、しかし、だが、または」などの語は、独立の品詞《接続詞》として立てるべきではないかと常々感じていましたので、(何の前置きもなく)実行してしまったというのが偽らざる実状です。ただし、必ずしも、全く理由がないわけでもありません。というのも、softwindさんが問題として取り上げたテキストの発話者(池内了先生*)も、この「と」(3)を接続詞として意識し、用いているに違いないと直感したのです。 *池内了先生(阪大教授)は、大好きな先生です。かつてNHKで10数回シリーズの天文学講座を担当なさったことがあり、興味をもって全部録画したことを記憶しています。 つまり、池内了先生の「個人語的用法」(idiolect)を親しく感じて、それに共鳴したわけです。ですから、これは私の個人語的用法でもあります。とkろで、文法的説明は、現実の実用の後追い(統計)ですね。したがって、実用が変化すればそれに適合する説明も変化させることが必要になる(はずなのに、辞書的には追いついていない状況なのだ)と考える次第です。言語は一面心理的存在ですので、表現上の不具合があれば、いち早くそれを感知し、それを自分なりに修正して用いることがあり、そして、世間的には「誤用」と認識されてしまうことがあるかも知れません。本件はまさにそれに当る例でしょう。しかし私は個人的に、これを単なる誤用として片づけてはならないと思います。しかも、しばしば、こういう個人語や俗語が言語の変化を牽引することがあります。 >B法の格助詞説は 広めたいと/思って/いる。と/強調する と区切れるならありかもしれませんが、句点も段落も無視して良いという話しになってしまいますね。 ⇒仰せの、「広めたいと/思って/いる。と/強調する」という区切り方は、A法と同じ区切り方ですね。私がこのB法で意図した区切りは、「広めたいと/思って/いる。と強調する」とするもので、つまり、「句頭接辞」を念頭に置いてのことです。ただ、用法的な違いがあります。「か細い、そ知らぬ」の「か」や「そ」と、「と強調する」の「と」とは全然意味素性が違いますからね。ともあれ、私はこのB法はあまり重視していません。A法が本命と考えています。ですから、B法の話からは、ここで一旦打ち切ります。 上述の個人語的用法を敷衍する格好になりますが、「言語は自らを治療する」と言います。言語は、何らかの不都合やゆがみが内部にあると、これを修正しようとする要因がわき出してきます。これを「誘因」と呼ぶならば、これに呼応する人間の側の修正欲求は「動因」と呼ぶことができます。時系列に沿って見る言語の実体は「通時態」と呼ばれ、一時期を輪切りにして体系全体を見る場合は「共時態」と呼ばれます。現代における共時態は、通時態の現在的帰着点ですので、当然その共時態の内部だけで体系的説明ができなければなりません。その意味で、辞書や文法書はつねに時代遅れになります。我々としては、眼前の共時態が示す実体を、何らの付帯条件なしに体系づけなければならないことになります。上述の個人語の発想は、これに呼応した見方であると思うわけです。 >「多分に主観的独断」とおっしゃいますが、僕には勉強になります。 中学生向けに?それを先に言ってよとお𠮟りを受けそうですが、引き続きそれでお願いできますでしょうか。 ⇒自然は連続していますが、言語では不連続にしか表せませんね。常に「分節」によってしか表現できません。濃い灰色と薄い黒色の分かれ目であっても、どちらかに振り分けなければならないことになります。ですから、「白牡丹といふといへども紅ほのか」(高浜虚子)という名句は、実に「うべなるかな」です。 昔、著名な国語学者が、授業中の高校生から「は」について、《この「は」本当に主語を表していますか》という質問を受けたものの即答できず、宿題にさせてもらいましたが、それでも答えが出せず、大学院に戻った、という話を聞いたことがあります。彼もまた、連続態を疑似的ながら不連続態に移し、グラデーションの連続部を一刀両断で二区分し、アナログ的様態をディジタル仕様の表示に変えるなどしながら、現代的共時態の体系化に苦悩したに相違ありません。まして、我々(いや、言い換えます)私ごときが、このような区分問題の、多肢択一に迷わないではいられません。それが実態であります。 以上、ほとんどお答えになりませんが、補足へのご返信まで。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
以下のとおりお答えします。「文節」という術語を提案した橋本進吉は、 《「詞」(自立語)は単独で、またはそれに「辞」(付属語)を伴って 一つの文節とする》と提案をしましたが、細かいことは曖昧のままでした。 したがって、以下に述べることは「多分に主観的独断」ですが、どうぞ悪しからず。 以下の説明では、「等身大の科学と(1)しての博物学を大いに広めたいと(2)思っている。と(3)強調する理由はもう一つある。」として考えます。 A法:「等身大の/科学と(1)/しての/博物学を/大いに/広めたいと(2)/思って/いる。と(3)/強調する/理由は/もう/一つ/ある。」 *「等身大~思っている」までを自立語と見立て、「と」(3)を準接続詞(自立語)と解釈する。 B法:「等身大の/科学と(1)/しての/博物学を/大いに/広めたいと(2)/思って/いる。と(3)強調する/理由は/もう/一つ/ある。」 *この場合、「と」(3)は格助詞(付属語)と解釈する。助詞などの付属語は、自立語の後に置く(後置する)のが普通ですが、前に何もないと後の自立語と結びつく。日本語やトルコ語などのいわゆる「膠着語」では、多くの場合、自立語+付属語の順となりますが、状況・言語によってその膠着の仕方は多様なようです。
補足
ありがとうございます。 A法:「と」3が接続詞であるならば、何の問題もありませんね。 「と/強調する/理由は/もう/一つ/ある/」と区切れると思います。 しかしながら、使用している中学国文法の参考書には「と」という接続詞は見当たりませんでした。 (今回中学生用の教材から拾って質問しています)。 >準接続詞(自立語)と解釈する。 も失礼ながら歯切れが悪いような印象で、中学生には説明しずらいですね。 B法の格助詞説は 広めたいと/思って/いる。と/強調する と区切れるならありかもしれませんが、句点も段落も無視して良いという話しになってしまいますね。 「多分に主観的独断」とおっしゃいますが、僕には勉強になります。 中学生向けに?それを先に言ってよとお𠮟りを受けそうですが、引き続きそれでお願いできますでしょうか。
- marupero
- ベストアンサー率27% (127/454)
失礼「化学と」「しての」でした
- gesui3
- ベストアンサー率50% (95/187)
NO.3です。 お詫びと訂正です。 文節分けで一か所、間違えていました。正しくは次です。 等身大の / 科学と / しての / 博物学を / 大いに/広めたいと / 思って / いる。 と強調する / 理由は / もう / 一つ / ある。
- gesui3
- ベストアンサー率50% (95/187)
>「と」が3個出てきて困っています。 「と」は付属語ですから、単独で文節は作れません。 他の自立語にくっついて文節が出来ます。 それさえ覚えておけば、何個出てきても困りませんよ。 (段落も関係ありません) ちなみに例文での文節は次のようになります。 等身大の / 科学としての / 博物学を / 大いに/広めたいと / 思って / いる。 と強調する / 理由は / もう / 一つ / ある。
お礼
補足
科学としての は2文節。ありがとうございます。 と強調する/の「と」は自立語ということになりますね? 品詞を教えてください。 よろしくお願いします。
- mekiyan
- ベストアンサー率21% (865/4004)
等身大の科学としての博物館を、大いに広めたい思っている。 と、強調する理由は、もう一つある。
補足
池内了先生の文章は中学生の模擬テスト等にけっこう登場します。 中学生には難解ではないかなあと思うことも多々ありますが、設問作成者が上手なせいか、そこそこ答えてくれます。 「高校に入ったらもっと詳しく習うからね」と言いたい気持ちを封印し、きっちり武装しておかなくてはと思っているこの頃です。 >愉快なひととき と言っていただき、嬉しく思っています。 今回は勉強になったのはもちろんですが、返信回答が毎回楽しみでした。 またのご回答をお願い致します。 今回のこと、心より御礼申し上げます。