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弥生人文字知らない?

弥生人は中国から来たそうですが文字を日本には持ち込まなかったのですか?その後、漢や魏に遣使した帰りに漢字を持ち帰らなかったのですか?また徐福や孫建の出した探検船が漂着していたら文字も伝わったはずですから、日本に来れなかったのでしょうか?

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  • kagakusuki
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回答No.1

>弥生人は中国から来たそうですが  いいえ、遺伝子変異の分布調査などによって、弥生人の起源を中国に求める説は、現在では疑問視されています。 【参考URL】 弥生人 - Wikipedia > 起源 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA#%E8%B5%B7%E6%BA%90 >中国から来たそうですが文字を日本には持ち込まなかったのですか? >徐福や孫建の出した探検船が漂着していたら文字も伝わったはずですから  文字が伝えられていなかった事は事実です。  その理由についてははっきりとはしていません。  ただ、個人的な推測でよければ下記のような事が考えられます。  まず一番の理由として、中国にかぎらず、古代の識字率は非常に低いものでした 【参考URL】 古代中国の識字率について - Yahoo!知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11112373716 から、稲作等の大陸(中国とは限らない)の文化を伝えた人々は、読み書きが出来ない者が大部分を占めていたと考えられます。  仮に読み書きが出来る者が少数いたとしても、農業などの一般民衆にとって普段の生活をする上で読み書きの能力は不要なものに過ぎませんから、田畑を開墾したばかりで食べ物を得るのもやっとという状況下で、必要もない読み書きをわざわざ子孫に教えるとも思えません。  また、そのような識字率が低い集団の中にいて、需要がほぼ無いに等しい筆や墨をわざわざ製造する人間が居たとは考えて難いですから、その点でも文字を使い難い状況であったと考えられ、それがますます識字率の低下を招く事になるかと思います。

その他の回答 (4)

  • eroero4649
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回答No.5

そらね、簡単な話です。日本人が話してるのは日本語。漢字は中国語。字だけあっても言葉が違うから表現ができません。 「あ、だったら、あの漢字を使えばいいじゃないか」と思うかもしれませんが、阿、亜、吾、会、婀と同じ音の漢字は山ほどあります。 なので日本で最初に書かれた書物である古事記と日本書紀は漢文、つまり中国語で書かれています。また当時は日本語で表記することができなかったのです。 今でいうと文書などはみんな英語を使ってるようなものです。なので文書を書く人は中国語(漢文)が書ける人でなければなりませんでした。今だとエリートは英語ができて当然と思われていますよね。昔のエリートは漢文ができるものだったのです。 そのうち、中国語と日本語のバイリンガルじゃないと記録が残せないのは不便だよね、やっぱり日本語を日本語として残したいという動きもでてきます。そういう中で漢字を元にして日本語の発音を表現しようとして「ひらがな」「カタカナ」が生まれました。 そしてこのカナと漢字を組合わせることで「日本語をそのまま残す」という現在のスタイルが生まれることになります。 カナが主に使われた最も古い記録のひとつが平安時代に書かれたといわれる「土佐日記」です。著者は紀貫之ですが、土佐日記の中では「男がやっている日記なるものを、女の私もやってみる」と、まあいってみればネカマになって書かれたものです。なぜわざわざネカマを演じたのかというと、当時はカナは、女性が使うものだったからです。土佐日記は日本最古の日記文学(そしておそらく世界最古の日記文学だとも思います)で、日本人はもう平安時代から日記好きだったんですな(ブログの全盛時代、英語の次にブログで多く使われている言語は日本語だったそうです)。 そして漢字とカナを組合わせた文字表現、これを「和漢混交文」というのですけれど、和漢混交文で書かれた最古の作品が「方丈記」とされていまして、これがなんと鎌倉時代の作品なんですな。 つまり今の日本語の書き方が成立したのはイイクニツクロウ鎌倉幕府より後の出来事なのです。意外と新しいんです。 日本人が文字を使うようになったのが8世紀頃。現在の日本語表現の基礎が確立したのが13世紀頃になってからです。 なお、それでも日本語には長らく文章表現である「文語」と、喋り言葉である「口語」がありました。 聖書の一文で「汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパンと為らしめよ」なんてあるのが文語です。「子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや」などの論語もそうですね。 これを「文学も口語で表現すべきだ」という人たちが現れました。これを「言文一致」といいます。言文一致体の文学を世に広めた人を二人選べといわれたら、それは森鴎外と夏目漱石になるでしょう(最初に言文一致体の小説を書いたのは二葉亭四迷)。つまり明治以降の話なのです。口語体がほとんど使われなくなったのは戦後になってからなので、せいぜいここ70年くらいの話です。

  • gunsin
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回答No.4

>弥生人は中国から来たそうですが この認識違います。 徐福が日本に来た記録や伝承が無いので解りません。 何れにしても、徐福は口先三寸で始皇帝から多額の費用を 出させた、歴史上、最大級の詐欺師ですね。

回答No.3

日本語を話す人々が漢字に最初に出会った時期は、金印(福岡県志賀島出土)や銅銭(長崎県シゲノダン遺跡出土)などから、1世紀ごろだと推定されています。 いずれも中国大陸で製作された品で、金印には「漢委奴国王」、銅銭には「貸泉」という漢字が記載されています。  5世紀ごろになると、日本で制作された鉄剣や銅鏡に、日本の地名や人名が漢字を用いて記載されるようになります。 稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣の銘文には「乎獲居(ヲワケ)」「意富比垝(オホヒコ)」という人名、「斯鬼(シキ)」という地名が刻まれています。 ただし、これらの品の製作には渡来人が関わっていた可能性が指摘されています。  6世紀から7世紀にかけて、中国大陸や朝鮮半島から儒教、仏教、道教を取り入れ始めました。 こうした思想や宗教を摂取するためには、漢文で書かれた書物を読む能力が必要になりました。 7世紀には、隋や唐からの帰国者や、大学寮で明経道を学んだ人々も含め、識字層が広がっていきました。  奈良時代になると仏教が盛んになります。 聖武天皇による大仏の造営開始はそれを象徴する事業ですが、それと並んで大規模な写経事業も行われました。 官立の写経所が設けられ、写経生という人たちが、漢字で書かれた経典の書写を行っていました。  7世紀後半から8世紀後半になると、日本最古の和歌集『万葉集』が編纂されましたが、和歌も漢字だけで記されています。 5・7・5・7・7という歌の1拍1拍の音を記す表記法(万葉仮名の音仮名)であっても、漢字という文字だけを使用しているのです。 このことから、ほぼ確実に日本語として文字を使い始めたと言えるのは5世紀以降(6世紀という説も)です。 熊本県玉名市の柳町遺跡から出土した4世紀初頭(古墳時代前期)の木製よろい(短甲)の一部に「田」とみられる文字が書かれているのが見つかり、同県教委と検討会議(座長・甲元真之熊本大教授)は「日本で書かれた最古の文字」と発表されてます。  一部では、漢字伝来より前にわが国にあり神代から伝わっていると言われる文字「神代文字」(しんだい/かみよもじ)と言われる日本独自の文字があったとする話もありますが、科学的な実証はされていないので、何とも言えませんが、今回の質問で、回答に至ってはないと思いますが、私自身興味を持ったのは事実です。 ありがとうございました。

  • ishi_saya
  • ベストアンサー率27% (84/310)
回答No.2

そもそも、文字というのは何のために使うのか?です。 一つには「目の前に居ない人に何かを伝達するため」です。もう一つには「(忘れるかもしれないので)記録しておくため」です。 ということは、それをする必要が無いのであれば文字を使うようにはなりません。 弥生時代にはすでに国家があった、というのを今日のような国家であると思ったらば全くの間違いです。あくまでも集落ごとの社会であって、それらがごく緩く纏められていたと言う方が正確です。 つまり、「目の前に居ない人に何かを伝達する」ことも、「(忘れるかもしれないので)記録しておく」ことも無かったということです。

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