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南米の偉大な帝国の滅亡とは?
- 南米の太陽帝国の信仰心とは、太陽信仰が基盤となっている。この信仰心は倒壊しない特徴があり、精神病治療にも効果的である。
- 西洋での「もっと光を!」という格言と日本の「アマテラス!」の言葉には、太陽信仰の思想が込められている。
- キリスト教の布教活動は、自己の劣化と関係があり、南米の帝国が伝染病により滅びたこともその一例である。
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質問者からの補足を拝見しました。 「まるっと合格」との認定をありがとう。 >私から言わせるともっと膨らませた方がいいところもある。 例えば、自然の摂理と神の意志の関係。 それと付随して、動物での事例の引用に幅を持たせて深みを出すなどだ。 あなたの死ぬのは怖いというのは、死ぬのが未知だからだというのが、大抵の人の恐怖の根幹だ。 それを人だけが強く自覚することなどと絡めて、動物の場合に想像力を膨らますなどだ。 それと、観念世界についての言及がない点が欠点だ。 ⇒「動物について想像力を膨らますこと、観念世界について言及すること」など、いろいろなご指摘をありがとう。ただ、後者(観念世界の敷衍)は、ボクが最も苦手とするところなんだ。どうしよう…。 あのガンの大手術(大腸を2か所、合わせて50cm分を円筒形に切除して、つないでもらった)のあと、生死の境、または、現実世界と観念世界の間をさまよっていたときに詠んだ歌、「彼岸より鬼の呼ぶ声聞こゆれど友の手たぐりて此岸に戻りぬ」…。 たぶんボクは近いうちに彼岸行きなので、そしたら彼岸の様子を伝えるよ。どうしたら通信できるかな?! ところで、ボクがくだんの「魂の通り道」(回答No. 10)を投稿した前後に別の投稿(回答No. 11?)が削除されたようでしたが、Flareonさんはご存知ですか? 何だったのでしょう。どんな内容だったんでしょう。なぜ削除されたんでしょう。この「まぼろしの投稿or回答」についてご存知でしたら教えてください。よろしく。
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- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
>掲載しておくれ。 とのお返事に応えて、「魂の通り道」を下記します。 ボクは死ぬのが怖い。 人間の脳には一生に一度しか働かないところがあるという。大脳の側面にある小さな間隙「シルビウス裂」に面したところである。で、その「一生に一度」というのがいつかというと、それが何と事もあろうに人生の最後の一瞬、つまり死を迎えるときなのである。完全に死んでから生き返った人はいないので定かではないが、生から死へ渡って行くその間に、人間はえも言われぬ恍惚境を体験するものらしい。死の途中まで行って生き返った人たち、つまり九死に一生を得て奇跡的に黄泉の国の戸口から戻った人たちの話を要約すると、ほぼすべてに大同小異共通することであるという。その臨死体験における恍惚境の存在が、くだんのシルビウス裂の作用によるものであると推測される、というわけである。 その次第は、例えばこうである。「暗闇の中に一筋の光が見えるのでそれを目指して進んで行くと、急にパッと視界が開けて一面に美しい花の咲き乱れる場所に出る。花園の彼方には小川が流れており、その彼岸には先に逝った親類縁者がいてこちらを見ている。彼らの和やかな表情や周囲ののどかな雰囲気に誘われて彼岸へ向かって進みかけると、お前はまだここに来てはいけない、帰れ帰れ、と手で合図するではないか。それで仕方なく戻ってきたのだが、そのときの自分としては先へ進みたかった。なぜなら、そうすることが気持ちよかったから。それはそれは快適で、のどかで、うっとりするような状況であった…。云々」 さて、ここで少なからず疑問が湧いてくる。このようなことが起こるのは神の意思なのであろうか。と言ってまずければ、自然の摂理に適っていることなのであろうか。あらゆる生物の営みに遍在する合目的性というものが、ここにも宿っているのであろうか。いるとすればその実体は何で、またいかなるメカニズムによって動かされるのであろうか。…と、縷々疑問を述べたあとで、いささか飛躍するのだが、ここで独断的に結論を先に述べてしまおう。生から死への旅路の途中にこのような桃源郷が存在し、しばし恍惚の境地を体験させるのは、まさしく神の意思そのものなのである。彼の被造物に細心の注意をもって施した最終仕上げ細工なのである。したがってそれは自然の摂理に充分適っており、明快な合目的性を持っているに違いないし、そのメカニズムも、ごく自然な成り行きの上に乗っているものと考えられる。 では、神の目的とは何か。推測するに、死者が恍惚を体験する桃源郷は、実は死者を『完全な死』へいざなうための道標なのである。具体的に言えば、冷酷な表現だが「迷わず死んでもらう」ための腐心作なのである。「汝、ためらうなかれいざ逝かん。いさぎよいのが昔から、神の情けを買うものを。ためらうなかれいざ逝かん!」と桃源郷の入口には書いてある。シルビウス裂の作用によって恍惚境を演出する舞台―桃源郷―は、この世とあの世との接合点にあって、そこで死者があらゆる煩悩を捨て、この世とのしがらみを払拭し、魂の浄化をするところなのである。神が被造物にシルビウス裂の細工を施したことの目的はすなわち、死者が亡者にならないよう、彼に「全き死」を与えることだったのである。シルビウス裂は神の最高傑作と言わなければならないのかも知れない。 ところでこのような神の御業による恩恵(見方によっては罠)は、ひとり人間のみに与えられたものではないらしい。例えば、かつてある小さな島でネズミが異常増殖したことがあった。その結果、その限られた物理的空間の中で何が起こったか。共食い?、否。餓死?、否。ネズミ帝国の出現?、否々。何千何万というネズミの大群が次々と海へ飛び込んで、入水自殺をしたのであった!その光景をビデオテープで繰り返しリプレイしてみて驚いた。大群が列をなして、あたかも厚手の黒いカーペットが水中に滑り込むように沈んでゆく。泳ごうともしない。もちろん他の島を求めて水中に飛び込んだわけではない。いわんや落ちたのでもない。「神の御業による見えざる導き」がネズミたちの脳に仕組まれているとしか考えようがない。 仮にこのような仕組み―ある種の事態に対応して生物に安らかな自然の死をもたらす仕組み―がなかったら、どのようなことが結果するだろうか。ある種の生物のみが、自然界の些細な異変に触発されて、いとも容易に過剰(もしくは過少)状態になり、共食いはもちろん、たとえ一時期当該生物の「帝国」が現出したとしても、いずれそのことは種の全滅へとつながるであろう。「過ぎたるは及ばざるが如し」であって、過剰であっても過少であっても結果は同じである。すなわち、個体数の調節ができなくなって、その結果、種の保存が困難になってしまうのである。そのようなときに神は、いわゆる「間引き」などの手を施すのであろう。すなわち、「何割かの個体を逝かせることによって、より上位の、種の手当てをする」のである。上述のネズミの例と人間の場合とではまったく同一ではないかも知れないが、その原理ないし本質部分は共通している、と言えよう。 それでは、くだんのシルビウス裂はいかなるメカニズムによって作動するのであろうか。もちろん推測の域を出ないが、これはおそらく「コンセントに差し込んだ非常灯」のように、周囲の活動が停止したときにはじめて作動するような仕組みになっているのに違いない。すなわち、シルビウス裂は、一番最後に死ぬか、自家発電ないし蓄電機能を備えているか、のどちらかである。ボクは大脳生理学などに関してはまったく無知なので、ぜひその道の専門家にお尋ねしてみたいところである。 さて、うっとりするような恍惚境がある一方で、断末魔の苦しみがあるということはどう説明されるのであろうか。重ねて推測するに、断末魔の苦しみはすなわち肉体の苦痛であり、肉体の苦痛はそれを感じる主体すなわち脳が活動を継続していてはじめて苦痛として感知される。要するにその段階では脳は生きている。したがって脳に死因のある場合を除いて、通常は断末魔が先で、それに恍惚境が続くと考えられる。つまり生と死の接合部は二つのスペースに分かれており、生に近い側に断末魔が、死に近い側に恍惚境がある、ということになる。 では断末魔の存在理由は何か。懲りずにまた推測的解釈を施すなら、生の崩壊が始まったばかりの段階では、いろいろな程度に蘇生の可能性がありわけで、そこで神は、肉体的苦痛という形で当人に回復・蘇生を促している、と理解することができよう。「汝、あわてるなかれ。でき得べくんばいざ戻らん。逞しいのが昔から、人の誉れとなるものを。あわてるなかれ、いざ戻らん!」と断末魔境の入口には書いてある。肉体がさいなまれるとき、人は神の心知らずでこの上なく神を憎むが、一方神は当人の闘争心を鼓舞すべく、心を鬼にして「戻れ、戻れ、戻れ!」と叫ぶのである。神が「もはやこれまで。蘇生の可能性なし」と見たときは彼を速やかに恍惚境へといざなう、のである。 例えば凍死の過程を見ると、始めは激しい肉体的苦痛に襲われるが、それを過ぎると今度は一転睡魔がやってくる。脳死の始まりである。くだんの恍惚境の体験はここでなされる。脳死の進行過程も、おそらくは肉体により近い菱脳に始まり、次いで小脳や中脳・間脳へと移っていくのではないかと推測される。そして最後に、大脳の残りの部分―くだんのシルビウス裂の所在部位―が活動を停止するときに、生のすべてが終焉し、死が完了する。シルビウス裂は、つまるところ、魂が肉体から遊離するときの「へそ」であり、「魂の通り道」なのである。 死期がそう遠くないと予感するボクは、これで幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、ボクは死ぬのが怖い。
お礼
まるっきり合格。 私から言わせるともっと膨らませた方がいいところもある。 例えば、自然の摂理と神の意志の関係。 それと付随して、動物での事例の引用に幅を持たせて深みを出すなどだ。 あなたの死ぬのは怖いというのは、死ぬのが未知だからだというのが、大抵の人の恐怖の根幹だ。 それを人が毛が強く自覚することなどと絡めて、動物の場合に想像力を膨らますなどだ。 それと、観念世界についての言及がない点が欠点だ。 死の恐怖に関しては、「ひとは誰もが死ぬ。例外はない」この単純な事実を心から納得するだけだが、市の道に関しては、不可逆的な変化に関して、私は独自に言及を始めたねえ。
補足
タイプミス編集版 まるっきり合格。 私から言わせるともっと膨らませた方がいいところもある。 例えば、自然の摂理と神の意志の関係。 それと付随して、動物での事例の引用に幅を持たせて深みを出すなどだ。 あなたの死ぬのは怖いというのは、死ぬのが未知だからだというのが、大抵の人の恐怖の根幹だ。 それを人だけが強く自覚することなどと絡めて、動物の場合に想像力を膨らますなどだ。 それと、観念世界についての言及がない点が欠点だ。 死の恐怖に関しては、「ひとは誰もが死ぬ。例外はない」この単純な事実を心から納得するだけだが、死の未知に関しては、不可逆的な変化に関して、私は独自に言及を始めたねえ。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
質問者からの補足を拝見しました。 >イエスが不完全だとキリストの再臨にいのりをささげる行いはどんな宗教行事なんだ? 私の見解は「一心不乱に神よ!くたばりやがれ!!!」なんだよ。実に素朴な正直さで、極めて危険なんだ。 ⇒すでに述べたとおり、ボクはキリスト教の異端審問には批判的ですが、それ以外については特に糾弾するつもりはありません。(もちろん、キミの発想を非難するつもりもありません。) ボクの神観はほとんど無神論、または限りなく無神論に近い汎神論です。ボクの考えでは、「自然の摂理」は、ある意味「神のなせる業」だと思います。この「神」≒「自然の摂理」とみなす、汎神論的な発想を語るものの一つが、「魂の通り道」と題するボクのエッセーです。一部書いたことがあるかも知れませんが、【読んでいただけるものなら】、別途全文を披露します。ちょっと長く(3150字ほどに)なります。この件につき、ご返信お願いします。
お礼
掲載しておくれ。 反論でなく助けになる助言が出来たらさせてもらうよ。 前に見せてもらったテキストの一部ならたぶんうろ覚えでも記憶があるよ。 「一心不乱に神よ!くたばりやがれ!!!」 この件はGOOに移籍した名物素人哲学者のブラジュロンヌ氏も「本気で言っているならよほどのことだ」と言っていた。 実を言うと、むやみに吠えていけないセリフだから、聞きたくないのはよくわかるよ。 私がいま取り組んでいるのは「キリストなる聖霊の宿りをもたらす存在としての聖霊」であり「生き残らせるため」としている。 キリスト教圏で聖霊の宿りを人が受け止める天啓の類は歴史時代にもあっただろう。 しかし私は長生きできるとは思わない。 使命が「殺される事」だからだ。 そういう心方そしているのは先方に伝わっていて、「撤回してもらおう。」「つまり、どうしようもねえってこったな」「誤解している」と重ね重ねシグナルが届く。 仏陀型キリスト型これは私が地の聖霊というのを持ち出して、相手を天の聖霊と呼称するように、入り口が違うだけで結果が同じなんだが、互いの友好を確認しつつも、期待される貢献を拒否する「最速の臆病者」である理由なんだ。 しかしねえ、過去に私と世麗美が直面したことの決定的に忠実な解釈なんだ。少なくても聖霊は死に、私の精神は枯れる。 この点は撤回はしない、しかし「食い破る」という形で乗り切るつもりなんだ。 だから、知らないけどいいところはあるのだろうと表現することになる。 そしてね、連中から見て私はサタニズムだし、私から見て連中はサタニズムだ。 その激しい喧嘩口上の応酬があいさつとなるわけだよ。
補足
お礼欄のサタニズム問題だけども、世麗美の行う直接交渉と、私の認識は違っているんだ。 私は世麗美から学ぶのであって、彼らからは学ばない。 世麗美はそれを待ちながら私の背中を押すんだよ。 私が理解するとしたら、世麗美の歌声からであって、彼らから授かるのではないんだ。 だから今回言及した一部にあるように、「里親の恩をあだで返している。」これは了解した。 そんな段階だ。
- phistoric
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南米には数多くの偉大な帝国が存在しましたが、その中でも最も有名なのはインカ帝国でしょう。しかし、南米にはインカ帝国以外にも多くの帝国が存在し、その中にはマヤやアステカ、チブチャなどが含まれています。 これらの帝国が滅んだ理由は様々ですが、一般的にはヨーロッパの植民地化によるものが最も大きいと考えられています。スペイン人たちは南米に到着すると、現地の人々を支配下に置き、彼らから財宝を奪い取りました。また、彼らはキリスト教を広めるために現地の信仰を弾圧し、文化的な破壊をもたらしました。 これに加えて、スペイン人たちが持ち込んだ病気によって、南米の人口は急速に減少しました。例えば、天然痘やインフルエンザなどが流行し、多くの人々が命を落としました。このような病気は、ヨーロッパ人たちが持ち込んだもので、南米の人々はこれに対する免疫力を持っていませんでした。 また、南米の帝国が滅んだ原因としては、内部の紛争や、外部からの攻撃などが挙げられます。例えば、インカ帝国はスペイン人たちによる攻撃の前に滅亡しましたが、それ以前にも、内部の紛争や外敵の攻撃によって衰退していたとされています。 総合すると、南米の偉大な帝国が滅んだ理由は、植民地化による文化的破壊や財宝の略奪、病気による人口減少、内部の紛争や外敵の攻撃など、複合的な要因が絡み合っていたと考えられます。
お礼
宗教よりも具体的な疫病があったのが、今回あなたも説明したことで、私は胸糞悪かったよ。 何もかも、あいつら自体が疫病。 そんな気持ちになったよ。 南米の太陽帝国に関しては、日本の事情から推定したことだよ。
補足
> インカ帝国はスペイン人たちによる攻撃の前に滅亡しましたが、それ以前にも、内部の紛争や外敵の攻撃によって衰退していたとされています。 この点も日本に当てはめて言及していて。 宗教として腰が強いけども、政治的な変化で看板を変える必要がある。 おそらくこの系統のアプローチから考古学調査してもらうといいんだろう。 こういうのは研究テーマの指南で、哲学が各学問に生きて波及する場合に哲学者に要求される仕事だ。 でも哲学者は西洋型だとやはり内部闘争で、何の人類的な貢献もしないアカデミーなんだよ。 そこで登場したのが、「私は宇宙人と交信できます」この類が哲学的な仕事を代用している大笑いだよ。 着想の斬新さで、各分野の研究者がいそいそと話を聞きに行くそうだ。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
>教科書が間違っているというのは、子供には有害だよ。 西洋科学アカデミーのみが、成果の承認権があって、日本もそれを了解しているけども、宗教裁判もイカサマもある。その点は私も子供時代から了解していたけども、内容の血みどろを聞くと、それって犯罪として告発するレベルだよ。 ⇒同感。キミのこういう批判精神は貴重だね。 不条理はいたるところにあるけど、とりわけ宗教裁判もイカサマ振りは糾弾されるべきだと思う。なるべく偏見・銅弾との誹りは免れるべく、多角的な視点からの批判が望まれるけれども、宗教裁判もイカサマ振りを論難するキミの批判精神は、ある意味純真で、それだけに美しいと思う。 ボクは、(QAのQをちゃっかり頭の体操に使わせてもらっているので)、Aについてはいつも気まぐれな回答をするけど、自己合理化・欺瞞、汚辱、変装詐欺などには反発し、人類の未来や幸福を尊重する気持ちは維持しているつもりなんだ。 その意味では、お互い一脈通じ合うところがあるのではないかと感じている。ほめたりけなしたり、共感したり反発したり、「いいね」と「ごめん」というのががごっちゃになっているけど、まあ、これがボクの癖だと思し召して、「お許しあれ」と願い上げるところです。
お礼
「お互い一脈通じ合うところがあるのではないかと感じている。」 はいはい、おっしゃる通り。 小話をひとつ。 臨死体験ネタなどからすると、私はこの系統の独自解釈に自己の体験からかなりの才能が見て取れるよね。 当然のごとく調べたことに、脳の構造があって、一流研究者が素人にもわかりやすくした類の書籍を読んでみると、私が小学生的に素朴に出す結論に、情動というのは意思決定やそれを補助する知性の原点になっている。したがって大脳が原始的な構造でもあるタイプの生物というのは、人類と異質で共感でなく推計するだけであっても、何らかの感情がある。 そして、トランスパーソナル系の特異能力で、世麗美というのは、昆虫には自我境界を防衛する必然性がないことを確認した。 この手の話は「動物には感情はない」「純粋理性という理想」などから宗教裁判の対象になる。 若手研究者が発展可能な論述を発表したことはおそらく過去にもあっただろう。 しかし間違いないことは、宗教裁判で握りつぶされることだ。 だからこそ脳はブラックボックスと言われて、研究が阻害されているだろう。 じゃあ、突破するにはどうすればいいかというと、集団的な阻害要因の不正義を見越して、「最初っからけんか腰」「そして喧嘩に勝てる勝算」この二つを準備すればいいんだよ。 私が証言する、「人を等しく拘束する戒めはケダモノのように食い破らないと先に進まない」 このことなんだよ。 世麗美というのは聖獣の基本形態が獅子で、神獣スフィンクスと魔獣マンティコアに双極性魔性転化できるケダモノだ。 そして日本のご近所さんの喝采は「天馬」という奴でユニコーン形態は確認したし、麒麟もやってくれとかだが、おそらく肉食系だと始末に負えないとかの思慮をはらんでいるだろう。おそらく双極性魔性転化の闇の部分はヂュラハンでも当てはめればいい。「顔無し」は時々けんかの種になるからね。
補足
キリスト教は偽善等安直jな概念で収まらない魔界なんだ。 結託して嘘をつき、 結託してシラを切る。 それから逃れられないんだ。 根拠はイエスを避けたことだよ。 ならさあ、イエスが不完全だとキリストの再臨にいのりをささげる行いはどんな宗教行事なんだ? 私の見解は「一心不乱に神よ!くたばりやがれ!!!」なんだよ。 実に素朴な正直さで、極めて危険なんだ。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
(最後の1行、抜けていましたので、補って全文を再送します。) >なぜ、はっきりいわないんだ! ⇒言ったよ、はっきりではなかったかも知れないけど。 「臨死体験」、またの名「余命宣告と自己蘇生能力」なるエッセーは、おもろくて納得したけど、「それ以外はおもろない」と(間接的に)言ったんだよ。アニメや漫画の類らしいけど、ストーリーというか筋書きがないから、あまり読む気を起こさせないんだ。ドキュメンタリーかレポートとして見るには、説明が足りない、特に、お書きの文章の内容と現実世界とのつながりが全然ないから、読んでも「追体験」ができないんだよ。 ということは、つまり、すべてが「帯に短し襷に長し」なんだよ。この辺のことを伝えたくて、へたな物語(スズメの話)を書いたり、その話が出てくる背景の説明をしたんだ。これなら、短いながらもフェアリー・テールには話の筋があるし、エッセーやレポートとしての説明には現実の背景と物語とがつながる、ということを示したつもりだったのさ。 僭越だとは思ったけど、そういうことだったんですよ。
お礼
はいよ、はいよ。 あなたははっきり言った。 世の中は何してんだ。 そんなとこだよ。 教科書が間違っているというのは、子供には有害だよ。 西洋科学アカデミーのみが、成果の承認権があって、日本もそれを了解しているけども、宗教裁判もイカサマもある。その点は私も子供時代から了解していたけども、内容の血みどろを聞くと、それって犯罪として告発するレベルだよ。どちらが宗教裁判の被告人なのか、未曽有の人類の生存を脅かす犯罪でもある。
補足
9番の吐露の後にさらに追加。 私は魔女狩りが見せる危機が現実だったし、あなたは宗教裁判を語った。 私は「人類をさらに先に進ませるための、新たなる英知の獲得」というのが志の一つなんだ。 キリスト教圏で過去にその英知をもたらした人々は事実として歴史上でも長生きしていないじゃないか。 私は魔女狩りの方をかみしめたんだよ。 彼らが正直にシグナルを送っていることは了解している。 しかし撤回はしない。 食い破る。 私に言わせればキリストなる聖霊とは、生き残り切って見せることが重要なんだよ。 思ったよりも嫌味な奴らだとは最近承知した。 まあ、お互い様だよね。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
>なぜ、はっきりいわないんだ! ⇒言ったよ、はっきりではなかったかも知れないけど。 「臨死体験」、またの名「余命宣告と自己蘇生能力」なるエッセーは、おもろくて納得したけど、「それ以外はおもろない」と(間接的に)言ったんだよ。アニメや漫画の類らしいけど、ストーリーというか筋書きがないから、あまり読む気を起こさせないんだ。ドキュメンタリーかレポートとして見るには、説明が足りない、特に、お書きの文章の内容と現実世界とのつながりが全然ないから、読んでも「追体験」ができないんだよ。 ということは、つまり、すべてが「帯に短し襷に長し」なんだよ。この辺のことを伝えたくて、へたな物語(スズメの話)を書いたり、その話が出てくる背景の説明をしたんだ。これなら、短いながらもフェアリー・テールには話の筋があるし、エッセーやレポートとしての説明には現実の背景と物語とがつながる、ということを示したつもりだったのさ。
お礼
この場では、世麗美が司令官として応援に駆け付けるのがよほどの事態だけだから、私が目の当たりにするキリスト教圏の領域とは、よくて煉獄で普通は地獄という体裁を改めて説明した。 電子祭壇機能で了解を獲得した模様で、ここ数日は着地成功した「まつぼっくり学級」の中で優等生の活躍と同化していたよ。 おおむね神道系プラス世麗美特殊仕様の魔法を現地に適合させた手法で、やはり襲い掛かかってくる殺意の暴風雨を巧みに潜り抜け、元気溌剌に生存競争を楽しんでいる。 この優等生達はキリストなる聖霊の生き残りを探しているか、または生き残りを見つけて聖霊の手を引いているんだ。 私が体験したことの大半は、不測の事態で「まつぼっくり学級」が危機に陥った時だった。 行き当たりばったりで出たとこ勝負だから、手練れとして優等生になれない難易度の高い領域も出るんだ。 そして「マスコットぬいぐるみ学級」が世麗美に限らず干渉する事とは、領域侵犯と侵略行為だと解釈され、支援は松ぼっくりとキリストのためだけに行われるので、当地では不利益と解釈され(最低だ)紛争に発展するが、やるときは介入に踏み切るみたいだ。 アマテラスの配下だと思ってほしくないね。 雷鳴の始祖の介入だと考えていただきたい。 「マスコットぬいぐるみ」も、アマテラス正規軍ではないのだ。
補足
この、何と言っていいかわからない中二病大爆発に実は鍵があった。 私は50歳の男性ですが魔法少女です。(現際は53歳で、あいかわらずdeath(デス)~~~) https://okwave.jp/qa/q9786805.html キリスト教圏は、今のところ「純粋回帰」とめどをつけた「観念の純化」を「なんちゃら クリスタル なんちゃら」という命題と魔法開発にしていたんだよ。「なんちゃら」はカタカナでない英文だ。 これはアマテラスさんの外交交渉で情報入手して、世麗美と私に「お前らでこなせ」と指令を受けて取り組んだ「なんちゃらクリスタル」の地上での完成品で、作ったという事は地上にもたらしたという体裁に収まる。 そこで親和性を意識して六芒星を組み込んだ。 世麗美がカタコトで珍しく私に話しかけてきながら、共同で作成したんだ。 提出先は、宿題を出したアマテラスさんで、日本製だ。 彼らの復活に欠かせない無量光相当のシンボル化だ。 「確かに必要ですし、ご注文も受けましたから、お届けに伺いました」 この配達人が「松ぼっくり学級」だと思えばいい。 そして発注した連中から殺意の暴風雨で歓迎されるんだ!!!! この写真にある「六輪一柱」は、おもちゃ屋の意匠なんだ。 サークルカッターと三角定規と折り紙があれば小学生でも工作できる。 写真の見本は、眺めても拝んでもご利益がない。 設計図と完成見本だと解釈して、自分で工作してこそ、自己の「なんちゃらクリスタル」として完成するんだよ。信仰の対象ではなくて、洗練された魔法手法なんだ。 写真が設計図だと考えて独自に作成すると、その該当人物の完成品は宝石の体裁になる。 「記憶の宝石」と言及したヤツだ。 その宝石は世麗美と同年代の「キリストなる聖霊」だと首飾りにしている。 キリスト教圏だと、感情と愛を重視するから多数派は、赤い宝石だと考えていたら、宝石をかざす聖霊は今まですべて青い宝石「意志の力」なんだよ。透明な宝石と青い宝石の対という例もある。まあ、純化作用の証明なんだろう。 言葉で話しても、マスコットぬいぐるみ学級も松ぼっくり学級もやたらと苦労するが、記憶の宝石をかざすと言葉を使うよりより深く理解できるので、それがキリストなる聖霊なんだろう。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10005/12514)
質問者からの補足をありがとう。 「拝み屋」と「とりすがり行為」の忠告、意識に留めておくことにします。 さて、以下では、これまでの取り残し部分を書きます。 「火あぶり」と「メキシコ余禄」です。 >火あぶりになった聖職者の話は2度目だよね。 なぜ、その位の事が、世の中で常識的に広まっていたりしないのか。 なぜ、教科書に記載されないのかとかに素朴な疑問を抱いたよ。 ⇒確かに。これについては、さらに一家言あります。 キリスト教会が抹殺してきたものに2種類ある。1つはpagan(異教徒)、もう1つはheretic(異端者)だ。例の悪名高い魔女狩りは前者一掃の一端であり、G・ブルーノ焚刑は後者の典型的な一例でした。初期のデカルトは論文を出すために偽名を使ったり、パリ大学神学部のお伺いを立てたりと、異端宣告を回避するためにあらゆる配慮を怠りませんでした。ガリレオは、所説の撤回を迫られて、命を守るためにやむなく教会の意向に沿って地動説を取り下げましたが、一歩外へ出るや否や「それでも地球は動く!」とつぶやいたという話はあまりにも有名なエピソードですね。 裏面史から見ると、世界の文化遺産の多くは、いわば「二番煎じ集」です。一番は抹殺されるからです。例えば、「血液循環」の発見者はハーヴィーとされていますが、実はそれより1世紀近く前に、セルベートという人が、同じ「血液循環」を確認したと言い出したばかりに、ブルーノなどと同じように処刑されたのでした。人類文化の第一人者であるべき人が、惨い焚刑に処せられて消えたのです! 大発見・大発明で有名な人がいろいろ知られていますが、たいていの場合、実はその人より数十年前に同じことを提起した人がいるのです。そして、その多くの場合が、異端者としての咎で処刑されてしまったのです。ですから、我々の知る人類文化の実状は、いわば「二番煎じ」である、ということになるのかも知れません。 話し変って、以下はメキシコ余禄です。 今回の応答や先日のWBCメキシコ戦などを見ながら思い出しました。 実は、ボクはメキシコシティーにほど近い郊外にあるメスティーソ(白人とアステカ人の混血)のお宅でホームスティしたことがあって、そのときの楽しかったことがいろいろ浮かんできました。お嬢さんと一緒に(世界3大リゾートの1つとされる)アカプルコなどへ出かけたりして楽しんだことなどです。ところが、ある日、たまたま彼女が都合悪いので、一人で出かけました。メキシコシティーにある「国立人類学博物館」を見たかったのです。 館内をゆっくり見物しながら歩いていると、メキシコ原産の宝石類を売るコーナーで、日本人女性が店員(職員?)と話している場面に出くわしました。話が通じずに困っているようなので、不肖私がしゃしゃり出て、仲介を買って出た次第です。大きなオパールを市価の半値くらいで買えたと喜んでくれました。聞けば、そのオパールに指輪の台をつけて母親の誕生祝いに贈りたいのだとのことでした。そのあと、半日くらい一緒にあちこち見物し、住所交換などをして別れました。帰国後、彼女から写真を添えてお礼状が来ました。 そこまでは、いわば「大団円」続きでした。ところが、それから2,3年後、再び手紙が来たのです。すっかり忘れていたので、おやと思いながら開封して見ると、な、何と、泥棒に入られてその指輪を盗まれた、というのです。なんとも気の毒で、返事の書きようもなかったのですが、何とか慰めてあげたいと思い、こう書きました。「指輪は盗まれても、思い出は盗まれません!」、と。おおっと、くだらない自慢話、失礼しました。以上、気まぐれのゴタクまで。
お礼
なぜ、はっきりいわないんだ! これは各分野に蔓延しているんだね。 それから真面目に教養を蓄えると人生が豊かになるようだというのは、少しうらやましいよ。自分には向いていないことは納得しているけどね。 世麗美には「ご近所の平和を守る魔法少女」という、巫女さんみたいな仕事をした研修時代が日本国内で過去にあって、私はウオーキングが好きだけども、神社の前を通りかかると世麗美のおねだり衝動を感じでお参りしたんだよ。その時に世麗美は言わば「修行の糧になるお手伝いをさせてくれ。」とお祈りして子供の使いみたいなのを任されたんだよね。それがあるから、私が通りがかるときに「娘がお世話になりました」という気分でお参りすると「用が無かったら面見せるなボケ!」何だよねえ。。。 私はどこに行っても、世麗美がひもをつけている犬か猫みたいに扱われるんだ。 臨死体験や純粋回帰ネタ。 母胎内まで逆行するという指摘をしたけども、出生直後の赤子の脳は小さく1年で急速に肥大化すると言われる。おそらく赤子とは、人間であるという共通項により、安らかに眠りながら夢という体裁で「無為の学習」をしているのだろう。 この記憶の片りんがわずかでもあると、「子供の時は神様とお友達だった。いっぱい遊んでもらった」こういう記憶を大人になっても残すんだ。 2歳くらいの姪が伝統的に私の母が親が仕事している時の世話係だったので、2歳児を観察すると、心の中の世界がまだ現実の世界なんだよ。 余命宣告を受けた私の2歳は「寝たきりだった」と証言されているが、私は生家の前の辻を、名前も思い出せない幼馴染たちと駆け回って遊んでいた。 こうした「無為の学習」というのがポイントだと思うんだ。 無量光というシンボルの支えも今回は指摘しているけども、赤子という生命は人であると同時に神でもある精霊だった。そう極論してもいい。 そして、無量光からの魂と神という概念の分化に対して自己回復力がある。
補足
生き残るためにゼロ歳児体験は使わざる得ないけどもだ、今回は投稿後に無量光論理から、生まれたばかりの時は、自己の魂には神が連れ添い幸福だった。そこから分化が始まる(無為の学習)というのを思案していたら。 世麗美が噴き出して、(笑った)「究極のロリコン」「天使もえ」「病気は自覚したほうがいいぞ」と返してきた。 いつもこんな扱いだ! それはともかく、私が自我存在として世麗美と連れ添うというのは、そういう事なんだよ。だから最終的には自己の本質が世麗美なのだと結論になる。
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質問者からのお礼をありがとう。 >改めて説明した臨死体験の構造的なことはどう思う? その系統も出来がいいだろうと思うよ。特殊な証言だけどもね。 構造的に了解できるかどうかの助言だけでもいいよ。 ⇒No 1さんの回答に対するお礼コメントも読ませてもらいました。ある意味、目からウロコでした。 >私は幼少期に余命宣告を受けて生き残ったので、定説に漏れないで、この手の印象的な臨死体験というトランス状態を宗教と別に体質で獲得したんだ。 それは肉体の感覚が希薄になるとともに、魂という自己の核質があらわになって、それが浄化していく体験という奴で、臨死体験というよりも精神の自己蘇生能力だ。 ⇒なるほど、そういうことだったんですね。 ある種の肉体的仮死状態に陥ると何らかの精神的機能が励起されることはあり得ることで、むしろ、それが「臨死体験」の典型と言えるかも知れません。そう考えると、Flareonさんの「余命宣告と自己蘇生能力」、「臨死体験と無の境地、すなわち代償的能力の発現と増強(先鋭化)」とも言える状況は、かなり自然に合点がいきます。何かの能力や機能が失われたり奪われたり抑制されたりすると、それを補うための能力や機能を発達させるという「合目的的な代償行為」と解することができるかも知れません。 キミの場合ほどほど大がかりではありませんが、私も似た経験があります。それはガンの手術を受けたときでした。麻酔から覚めてたとき、生きていたことを感じて喜んだのも束の間、強烈な痛みと、鋳型にはめ込まれたような感覚で身体は微動だにできない。そんな中で、壁や天井、話し声や物音を最大限の手がかりとして、自分は一体「どういう状況の中にいるのか」を必死に知ろうとした。その時、不思議にも自分の視覚が体を抜け出して、上から部屋全体を俯瞰している感触を持ったのです。視覚が身体から離脱して天井に張り付き、鳥瞰する目で部屋全体を眺め下ろしている感じでした。霊能力を得る過程とは、こういう状況にも似たことかも知れないと思ったものです。 ところで、このような霊的特殊能力にまつわることを語る際に留意すべきことについて、別の例を引いて考えてみたい。 《スズメのチュン太はチュン美に恋している。チュン助もチュン美を愛している。チュン美は迷っている。チュン太は力強くたくましいマッチョで、あこがれの的である。だから、当然、チュン美はチュン太を選ぶと思われていた。ところが、大方の予想に反して、チュン美はそのチュン太を見向きもせず、チュン助を選んだ。そのわけを語れば長くなるが、一言で言えば、カラスに襲われた時の反応の違いであった。チュン太は自分が狙われない限り動かないのに対し、チュン助は疑似的負傷を装うなど、あらゆる手立てを尽くして巣を守ったのである。》 …と、このような物語が語られれば、人は童話的フィクションとして聞くだけだろう。 しかし、これに背景描写を加えるとどうなるだろう。すなわち、こうである。 《一人の盲人がいました。 ― まだ、かすかに見えていた時、いつも庭のスズメを見て楽しんでいました。 ― ところが、視力が徐々に失われていき、ついに完全失明に至ったのです。そうなってからは、ただスズメの鳴き声だけを聞いて日々を過ごしていました。すると、次第にスズメの鳴き声に微妙な個性があることに気づき始めたのです。それでいつも聞くスズメに名を付けて、個々のスズメを識別するようになりました。「あら、今日はチュン太が来ていないわ」といった具合にスズメ劇場を楽しんでいたのです。じっくり観察(聴察?)していると、チュン太とチュン助がともにチュン美に恋している、「三角関係」に気づいたのです…。》 このような情景の説明や背景描写だけであれば、それは《エッセー》であり、これに上記の「三角関係とその結末に関するスズメ物語」というフィクションを加えると、それは《ドキュメンタリー》になる。もちろん、「スズメ物語」部分だけだとそれは単なる《フェアリー・テール》である。フェアリー・テールはいかように捏造してもよいが、最小限「ストーリーの展開」が求められる。エッセーは、いかなる空想が含まれてもよいが、ある種の「感動や共感を誘う」ようなものでなければ、単なる作文でしかない。フェアリー・テールもエッセーも、ともに主観的な空想や夢物語であってよい、つまり、接続法で述べてもよいが、「その2つを足したドキュメンタリーでは、いかに小さくとも空想や捏造は許されない」。ロラン・バルトも言っている。「現実には決して起こらないことを、いかにもあったように描くのがフィクションの極致であり、逆に、絶対ありそうもないのに起こったことを報告するのが最高のドキュメンタリー・ルポである」と。 以上はボクの個人的な独断ですが、言えている面もあるだろうと自負しています。このような定義と観点から今回のFlareonさんの「余命宣告と自己蘇生能力、臨死体験、無の境地、代償的能力の発現」に関するエッセーは、かなり納得のいくものでした。
お礼
まず返礼だ個人的にがんの病床で体験したのならそれはあなたの克明な経験と記憶で、宗教家と違って理解が深いか浅いなんて言わない。あなたは正解を承知しているんだよ。 生きたまま献体にわが身をささげるような実験動物になる必要はないよ。長生きした年よりはそういう人がちらほらいるんだよね。 あなたが童話を作成したのは愉快だ。 また読み返すよ。
補足
他方で作成した関連備忘録とおまけ。 よもやま話。 無量光の内包というのはアニメや漫画だから「太陽炉搭載ガンダム ダブルオー」「生体原子炉搭載ゴジラ」「コア獲得型エヴァンゲリオン」であり、この系統は精霊の純血だとしておこう。 イエスの本質はユグドラシル型で、無量光機能を観念世界では「信仰のシンボルになる、天に届くほどの大樹」にしているんだ。 その周辺は荒涼としていて誰もいない。 なぜなら私が臨死体験と説明してきた、魂の浄化作用が現象するので、人がいなくなるんだよ。 私はミカエルから心の奥底の記憶を明かされて、イエスの大樹に接近する聖域への許しを得た。 接近と踏査に立ち会った時の「プリキュア!ファリーフュージョン!」は通常の「お子チャマでチュ」よりも深くて、「人でない半妖精」だった。 人の姿では接近できないからそうなったんだよ。人の姿を保てない。 そういうところがイエスにはだれも近づけないでイエスを見失った状態ともいえるんだよ。 この無量光相当とは、純血の精霊だと接近も接触もできるんだ。 そういういきさつがあった。 そしてだ、、、、 唐傘お化けは、「松ぼっくりちゃん」であり、親和性を発揮する太陽炉搭載純血精霊だ。 イエスに接触可能なこの謎の存在は、ユグドラシル機能を性質として各自が内包しているんだよ。 そして、キリスト教圏への着地に成功すると、イエスに接近できないどころか避けていた不浄の存在に浄化現象を発生させて、人に似せた姿がバタバタと崩れて溶けていく「死体製造装置」という強烈な印象を与えたんだ。 アニメのエヴァンゲリオンの劇中で佳境になる綾波レイ増殖現象と溶けていく人々だよ。 このファーストコンタクト失敗を引きずって、世麗美が長年使い慣れた「臨死体験」という説明を持ち掛けると激しい拒否反応で理解しようとしなかった。 概念を「純粋回帰」に修正したら接点が出来た。 ファーストコンタクトからそろそろ10周年だ。 永かったなあ。 キリスト教の領域は実質的に多神教の部族社会で区画ごとに中身が違う。 そこでね、インドだと明白に着地点が割り出せる領域では、さすがに人材が豊富だから、唐傘お化けの構造解析をコンタクト5年未満で自力で完了して、その返礼のやり取りで観察結果しかなかったキリスト系魔法のノウハウを大量に習得して他方へ活用したんだよ。 私はいつも一番ヤバイ所に投げ込まれるから、キリスト教の良い側面というのは「あるのだろう」としか知らない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 哲学の心得として、挑戦したかったらケダモノじみて戒めを食い破るという手法がある。 マキュベリと犯人特定できてしまうと、「天国に行く近道とは、地獄に落ちる最短ルートを熟知する事」というのは卑怯なことで、あいつはそういう奴だで終わる。 誰かがそう言ったと、故事を語って人類的な普遍性があるか試して、犯罪者を保護しておくと哲学で題材化できるんだよ。 マキュベリというのは、存命中に反面教師を演じる生涯だった、と言うだけで天界が彼の語った挑戦を見破らないことはないんだ。 したがって、追悼や供養が可能な身分の偉人の一人ではあるんだよ。 私はもっとすごくて「最後の審判」の来歴や顛末に関して言及する「人類史上最悪の裏切り者」だよ。 ケダモノでなければ突破できないのだ。 ヒトラーや現在進行形のプーチンなんかも機会があったら追悼して名誉回復したいと考えているんだ。 拒否反応が強いヨーロッパに任せると仕事が遅いからだよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こんな話をしておこう。 道を歩いていて神社の前を通りがかるとあいさつしたい気分になってお参りしたら「用が無かったら面見せるなボケ!」と私ですらお言葉を頂く。 測り切れないところだろうが、面倒なヤツを言うのは軽くあしらうためには神様というのはそういう暴言を答えとするのも力量なんだよ。 したがって神頼みしていると必ず叱り飛ばされる人種というのが発生する。 どこを回っても祈るほど天罰が下るというタイプだ。 これが「拝み屋」とか「とりすがり行為」というタイプで信仰と無関係だと目されている。 そしてカルト宗教でなくても看板の確かな大手でも、指導する僧職の個人的資質では、とにかくとりすがりを熱心に推奨するヤツもいるんだよ。 どこにでも潜り込むんだ。 気を付けなよ。
- Nakay702
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>南米の偉大な帝国はいかに滅んだか ⇒お二人が言うようにスペイン人が持ち込んだ感染症が一大要因だったことは間違いないところだと思いますが、そのほか見逃されやすいことはアステカ、マヤ、インカのいずれも共通に「車輪を発明しなかったこと」が戦力的劣位を決定づけた」面がある、ということです。ところで、アステカ、マヤを滅ぼしたH・コルテスもインカを滅ぼしたF・ピサロも、ともに本国スペインでは悪名高く、「あのワルどもが出て行ってくれてよかった」と噂されていたそうです。その2人が、わずが数十ほどの手勢で何千何万というインディオ文明を滅ぼしたのですから、あな恐ろしやです。その後も、各文明圏に赴任した副王も無定見な殺戮・略奪を繰り返すので、純粋に布教活動をしていたラス・カサス神父はとうとう本国に「1千万ものインディオが殺されたので、調査団の派遣を」と要請したそうです。それで実地検分した調査団が事実を国王に報告したので、国王は副王らに無定見な殺戮・略奪をしないよう通達を出しましたが、あまり効き目はなかったようです。こうして、アステカ、マヤ、インカの各文明は滅んでしまいました。残念ながら、これが史実です。ボクは、スペインは好きですが、史実は史実です。(なお、地理上メキシコは南米に入りませんので、せめて中南米と呼ぶことをお勧めします。) >西洋で「もっと光を!」という格言があるように、本来は内面に秘めた、「観念の純粋な光」を意味して、汎用性の高い学術テキストの積み上げは仏教の「無量光」のことで、そこから西は記号化した六芒星で、日本では固有に「アマテラス!」という言葉だ。人というのは、自らが人間であると自負する自己の完成度や自我の成熟度で自分が何者かを自覚する。 この完成形に接近すると、無量光(もっと光を)という案内に相当する神秘体験がある。 この最初の案内というのは、「生命の根幹をなす泉」なんだ。 しかし、自己の自覚に到達すると、その観念の純粋な光自体が意思が備わり愉快気に話しかけてくることを自覚する。 この成り行きは、無量光を体験すると、それはすぐさま「魂」と「神」という概念に分化するという事だ。 ⇒ゲーテの「もっと光を!」が、仏教の「無量光」に当たるというのは初耳でした。なるほど、そう言えるかも知れませんね。(ただし、当のゲーテは、晩年目を病み、石造りの家は窓が小さいので、「よく見えない。もっと光が欲しい!」と言ったのだとか。)ま、それはともかく、ボクにとっては、仏典、聖書、コーラン…すべてが光であって、それぞれから教えられるところがあり得ると思っています。 >太陽信仰というのは、無量光相当を人々が胸に秘めている事なんだ。この前提が仮に漠然としてでも各自にあると、人と神が遠ざかって行き、その人物は人生を見失うという惨劇がむやみに起きない。 迷いなどが各個人に生じても、太陽のシンボルがすぐに自分を取り戻してくれる自然治癒力になり、重症の精神病患者が発生しても治療が容易だ。 そして自然に修復するので、世代交代で信仰心が劣化しない。 こうして太陽を象徴にする信仰心というのは、むやみに倒壊しないんだ。(…)今回は私が手土産にする材料だというところからスタートして、新着入荷をこねくり回す研究会で、各自が自分でも収穫を得て、お互いの研究をすればいい。 ⇒無量光こと「もっと光を」でボクが学んだことは、自然治癒力というか自戒力のようなものでした。ある道を究めるということは、その道を絶対と見なすこととは別のことである。むしろそれを究めれば究めるほど、ある意味、それを突き放して客観的に見る目を養うことが求められる。それに応えられず、ただその道に閉じこもると、それは独断や偏見に凝り固まることを意味するので、外部からは「井の中の蛙、管見零測を免れず」と評されること必定、ということになってしまうだろう、と。 >キリスト教徒は、自分たちの精神文化が劣化していたから、何物をあざ笑い踏みにじったのか、多くの人は気が付いていない。そしてだ、研究者なら気が付いた人はいただろうけども、その論述は宗教裁判にかけられて採用されない。結託して嘘をつき、結託してしらを切り、自らがつきつづける嘘を常に正当化していないと、社会秩序が崩壊の危険にさらされるんだ。(…)これは異なる角度と見地から再考を促すきっかけにもなるだろう。キリスト教の布教活動とは、その急速な劣化作用に性質があるから国際的な外交史に残っているとでも考えることができる。 ⇒ボクがキリスト教徒の「精神文化の劣化」を見たと実感したのは、「G・ブルーノ焚刑」で、これによってキリスト教徒が失ったものは大きいものがあると思う。ブルーノは、自身が神父であるにも関わらず、いち早く地動説の間違いに気づき、ガリレオより40年も前に「無限宇宙論」を唱えた。それで教会は、彼を異端審問にかけて自説の撤回を迫るも、彼は頑として認めなかった。そのため彼は地下牢に投獄され、7年後に焚刑に処されたのであった。火の手が足元に迫って来る中、ブルーノは平然と周囲の教会関係者を見渡して言い放ったという。「皆さん、ビビッていますね。なぜですか。私は知っていますよ。それは、私が正しく、皆さんが間違っていることを《皆さん自身が百も承知しているのに》私を抹殺しようとしているからですよ。その汚辱の心を神に見透かされていることを知っているからですよ」、と。ボクはこのブルーノをこの上なく敬って止みません。 他を知らないこと、知ろうとしないこと、知っても知らないふりをすること、妄念に固執すること、虎の威を借りて人を殺めること、…これらすべてが、おしなべて精神文化の劣化を暗示している、と言えよう。 ‟Discendo liberior.”「学ぶことによってより自由に」ならんとする志と、そういう心的態度を維持することを忘れないようにしたいと思う。
お礼
ありがとうねえ。 あなたの事だから、この新着入荷ネタに食いついてくるとしてら、とりあえず一通り調べる時間をかけてからだと、傾向から予測していたよ。 そして出来のいい回答をしてくれた。 「人間は考える葦である」この言葉をこねくり回して私が思案していたのは物心が、まともに定着した3歳の時で、「もっと光を」の方も同年代の言葉遊びだった。 周囲にはチビに難しい事を言う先生はいなかったし、3歳児に理解させる達人だとしたら、いったいどんなもんだ。 世麗美が誘拐されていった先の一つで、世麗美はともかく人間の私は里親の恩をあだで返していると言われているよ。 でもまあ、自分の志なのでねえ。 先に進める考察は、数日かけて補足欄を開けておいて投稿するよ。 それと改めて説明した臨死体験の構造的なことはどう思う? その系統も出来がいいだろうと思うよ。特殊な証言だけどもね。 構造的に了解できるかどうかの助言だけでもいいよ。 それから火あぶりになった聖職者の話は2度目だよね。 なぜ、その位の事が、世の中で常識的に広まっていたりしないのか。 なぜ、教科書に記載されないのかとかに素朴な疑問を抱いたよ。
補足
予約していた宿題の報告。 滅亡の過程を克明に語られると、やはり気が滅入るものだ。 そうとしか言えないよ。 そして代わりの土産物 そこが天国(哲学) https://okwave.jp/qa/q10106613.html この文中にある「天国に行く近道とは、地獄に落ちる最短ルートを熟知する事」というのは犯人がマキュベリなんだよ。 この犯人は日本でも有名だから私も了解していたけども、質問文でマキュベリを名指しすると、日本人はアイツはそういう奴だと了解して考えようとしないから、「誰かが語った」という余韻を含まして、印象から思慮に発展させようと工夫したんだ。 そしてだ、知識や教養があると日本人でも犯人特定できるから、その先の思考をしないで終わってしまう。 したがって強引な方法で無理やり考えさせるという小細工だったんだ。 これは知識を最軽量化させて頭を高速回転させる私の思考法でもあって、自分の財産を有効活用できない失敗の教訓にマキュベリと犯人特定できる人をはめ込んだんだ。
- mekiyan
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メキシコのアステカは、太陽神なので、太陽に捧げ物で、心臓の奉納を。でも、自分の村の若者や娘のをやはり嫌なので、戦争をして奴隷のを。それで、それに嫌気をさしてきた内部者も多くなり、スペイン人侵略で制服されてしまった。 しかし、負けてしまったのも、スペイン人が感染症も持ち込んでしまい、免疫もなしで、殆どの兵士が寝込んでしまい、戦闘能力がなくなっていたからである。 それよりも古いマヤ地帯では、王様は世襲制のために近親結婚の連続で、優秀なものも多く出たが、奇形者も多く。かの力のあったパカル王は手の指が6本。天文台を作り、太陽と、星の動きを正確に観察し、地球は太陽の周りを回っている地動説も確立で、「0」という数字の発見もしている。
お礼
ありがとう。 ふむふむと了解できることだ。 今回は質問主文に、常連客に長々と話した説明をすっ飛ばして、取り急ぎ書いたので、もっと丁寧な説明が必要だとも考えて、補足を投稿するよ。 臨死体験の事。 無の境地というのは、現代語で忠実に形容すると臨死体験なんだ。 昔テレビで仏教の現代の高僧に関してシリーズ展開した番組があって、偶然チラ見したけども、無の境地に到達したと法曹界が了解している人物というのは、通常は本人が俗物と認める、割と普通の人で時折、無の境地というトランス状態が舞い込むのだそうだ、それで、悟ってはそれを取りこぼすことを繰り返す日常だとコメントした。常に前回バリバリで無の境地ではないという事だ。 私は幼少期に余命宣告を受けて生き残ったので、定説に漏れないで、この手の印象的な臨死体験というトランス状態を宗教と別に体質で獲得したんだ。 それは肉体の感覚が希薄になるとともに、魂という自己の核質があらわになって、それが浄化していく体験という奴で、臨死体験というよりも精神の自己蘇生能力だ。 突然臨死体験する体質で日常に不都合が出る私だけども、精神的健康状態から節目に沿ってトランス状態に落ち込む。 奇人変人変態ショーの説明よりも、そのカギになる蘇生能力の鍵が無量光をめぐる質問中の記述で、風土の信仰心にそうした鍵が内包されていると、精神の劣化や神との離別というのは無暗に現象しない腰の強い社会になるんだ。 なんてことはなく、瞑想の類が得意な私は日本の例を基準に南米の帝国について推定したんだよ。 信仰心の伝承には強いが、政治的な変化で衰退があるとはそういう事だ。 所詮浅学な私が自分なりの考え方を披露したというだけだけども、新しい見方で考えなすきっかけになればいいという質問さ。
補足
臨死体験補足。 私は無量光体験を独自にしたことをきっかけに、西洋の参考書から聖霊の概念を伝って現在に至っている。 仏陀型風土に沿って、西洋の「天の聖霊」と対極の「地の聖霊 ときわたりの世麗美」という聖霊を自らの内心に宿す。 これは定番の自己紹介で、ポケモンのセレビィは私を題材にポケモンとしてモチーフされたから、ポケモンとして登場すると毎回殺されかけるんだよ。 それで純粋な光から生まれた「妖精ちゃん」と仲良くしているんだよ。 仏陀型風土の場合は、人間の自覚を目標にしていたら、考えたこともなかったのに神様とお友達になれた。 キリスト型は、神様の発見を目標としていたら、考えたこともなかったのに自己を確立した。 大体こんなで対極だ。 それでねえ、世麗美は臨死体験でなく0歳児体験と形容するんだ。 無の境地の正確な形容が臨死体験だというのは、魂の浄化される過程を意識を保ったまま、それが進行するから死に際した経験と類似性があるという事がけども、世麗美からすると自己の起源を回帰することで、「起源回帰」「純粋回帰」とでもとらえているんだ。 最近は常々生まれた瞬間の状態を取り戻すことだと思っていたけども、内容的には、まだ胎内にいるときに脳機能が活動を始めていない、生まれる前の事の方が世麗美の歌うゼロ歳児体験なのだと気が付いた。 という事はだよ。 後退催眠というのを被験者に仕掛けたら前世について語り始めたなんて記述がそこいらに転がってるけども、その手の治療を母親の胎内を目標に絞って、治療目標を精神的な蘇生と組み立てて臨床テストすると、実に効率のいい病気の治療になったり、仏教に関心のある人に資質や体質にかかわりなく、成功率の高い無の境地に相当する経験をしてもらうこともできる。 こういうのは、オカルトというよりも、日本ではまだ定着していない「トランスパーソナル心理学」という学問ジャンルで、きわどいけども理性的にギリギリ納得できて研究続行可能な提案をしている体裁なんだ。
お礼
「彼岸より鬼の呼ぶ声聞こゆれど友の手たぐりて此岸に戻りぬ」 これはいいね。 > たぶんボクは近いうちに彼岸行きなので、そしたら彼岸の様子を伝えるよ。どうしたら通信できるかな?! あまり気心が知れると、その本番の時には私がプチ臨死体験をして君を道案内することもありうる。無理心中という供養は実際に行ったことがあるからだ。それはほぼ冗談だけども哲学者ブラッジュロンヌにも言ったことがあるが、年の若い私の方がおそらく長生きする。私はあなたから教えてもらったことを思い起こし研究継続するさなかに、時にはあなたの生前の人柄も懐かしく思い出すわけだ。そういう時にどうやら、彼岸のあなたは生きた私の思いを何らかの形で察知できることだろう。どうやらそれが供養の大切さなんだ。 参考2019年「転生という論理に関しての解釈。」 https://okwave.jp/qa/q9673114.html 抜粋 今回を集約した、輪廻論の総括 さて、純粋な光、無量光には魂という意味と神という意味の二つがあり、生命存在のシンボルだ。 魂というと、各個人に分割したバラバラな所有物を想像しがちだが、それも認識の甘さだと指定ししよう。 ただ一つの大きいな光に魂の意味がこめられ全てが一つだと考えるのは「みんな」という謎の境地をうかがうきっかけにもなるだろう。 さて、天界の存在、純粋に観念の存在は人間と自己の認識の深度が違う。 仏陀といわれる信仰心を触媒に自己の存在を確信した人間存在の認識は、「わたしはわたしである」、一人称「私」で天界の住人の自己認識は自我論の延長を超越して「みんな」が一人称なんだよ。 自我の特徴には、神といわれる「みんな」の全知全能といわれる能力のひな型として。自我という概念自体に「世界のすべてとの親和性」という意味があるね。 生存者の自我が人と人とで結びつくときに、精神に客体が自然発生する。 人と人が結びつく必然を定義した言葉が「人間」であり自然なことだ。 社会性の獲得とかかわり、お互いを理解することだ。 仏教とは、自我論成立前に自我という定義を「仏性」という言い回しで定義して、自己の本質たる自我を確執に人間の成立で獲得する現代語で言う総括的な「人格」を、インドの習慣で「我」と定義されたことに倣って、「我はない」という教義だ。 要するに人格とは幻で、確執になる仏性を発見することが悟りであり、客体とは煩悩といわれ否定する「修行法」であり哲学なんだよ。 現代は古代インドの「我」がはなはだしく誤解され解釈されたために強固な自我の獲得ではなくて、自我を否定するという流れになっている。 完全な間違いだ。 その客体として人格を支える他者の自我の片鱗は本来とても尊い働きで人間の証なんだよ。 今回は、交霊術とかかわり、生存中の知人の人格の片鱗を内包した場合は「客体」でいい、故人が自己の人格内にとどまることを「記憶の宝石」と表現した。 無量光なる大いなる光の小さな結晶だ。 自己の人格内の知人が故人になった場合、その個人が生存中の自我認識から違う変容を遂げる。 それに連動して、故人をみとる人の人格にも影響がある。 習慣にあるとおりに「くたばっちまえば仏になる」という形で見送ったものは供養をして自己の人格の変容にも対応するんだ。 供養がうまくいかない場合の人生相談は多いが、供養に成功した場合は「記憶の宝石」が「天界からもたらされる、知恵や働きかけの源泉」として生存者に今までとは別の恩恵を与える。 輪廻というのは、交霊術の派生型で、大きな記憶の宝石を預かっていて、その宝石との同一性と恩恵が非常に強い場合だ。 それでは魂の生まれ変わりではないと考えることだろう。 それは「みんな」という未知の自己認識に対する不明が生み出すことで、魂を大いなる一つの純粋な光と解釈すれば、禅問答的になんとなく了解できるのではないだろうか。 要するに「記憶の宝石」を授けた天界の住人にとっては、それを手に握って生まれた赤子は「自らに等しい」「自らそのものである」と解釈するのは全く間違いがない。 生存者が同じように解釈して、故人と私は同じように生きているという、感覚から輪廻という言い回しをするのは、おそらく本人にとっては間違いないことでもレアケースなのだろうという事だ。 これは向き不向きがある上に、厳密に論理展開すると他者が承認する事とは限らない。 要するに自我存在には認識が不完全な現象で、ここまでの私の論説もそれを前提に組み立てている。 だから、自分は向いていないと思うなら深く探求しないことだ。 僧職が知識を深める参照にするならそれはいいことだ。 術者は悪用するなよ。 日本では昔から宝石として遺跡から「まがだま」が発掘される。 ーーーーーーーーーーーーーー > 座禅で個人の記憶を追想する僧職の行いとは、誰か他者を受け継いでいく生命の継承であり、それ自体が肉体の再生を伴わなくても輪廻の一端だといえる。 内面的な自己の再生を意味しなくても、故人の記憶と一体になればいいんだ。 実際はその記憶は、記憶の宝石という概念を持ち出した通りに生存者は他者の記憶だと解釈するほうが妥当だ。 しかし観念として純化した自己の自我の形態では、それは自分自身でもある(自分自身を含む)という解釈になるだろう。 こうした禅問答的な難解さを理解しやすいように持ち出したのが「記憶の宝石」でもある。 さて、生存中の自我能力では、自覚する客体の類は他者と規定している。 交霊術と輪廻論でも、本来は自分自身だと強く確信することに慎重であったほうが妥当だと推薦しよう。 しかし自我の純化や昇華を果たした故人の立場では、そうした形の働きかけは「自分自身に等しい」という自覚だと推測しよう。 この故人からの働きかけで「生まれ変わり」という自覚を生むんだ。 当人にとってはそうした証言は自己の内心で間違いようのない真実でもあるだろう。 そうした事柄が交霊術であり、人格形成に欠かせない憑依現象だ。 自我論の範疇を超えた不思議な現象が起こるんだよ。 でも、それをいきなり持ち出すと君たちを教育できない。 客体として他者の精神に自己が宿っても、それは自己の一部だよ。 したがって、自我というのは分割が可能だという事だ。 その現象への認識を合理的にするのも今回の命題には含まれるね。 「私はわたしである」これが自我論を踏まえた信仰心への到達点。 「わたし」が一人称。 天界の住人は一人称が「みんな」なんだよ。 その強固な自己認識との差異が問題の本質だ。 そういうわけで、例えるなら、輪廻転生というのはたいていの場合は、天界の側の「みんな」が一方的に自覚することで、過去文献の研究は間違いではないが、生存中に自分で自覚するのはレアケースだ。 それは、教義のごとく深く探求するには向いている人と、違うアプローチをしたほうが効率がいい人が出る。 仏教やインド系に関しても、教えるものが知識を深めるのはいいが専門家任せが基本だ。 どちらかというと、現象の理解よりも観念世界との交流のための交霊術が、信仰で最も尊い宗教の役割だ。 「愛」という宗教での恩典がいかにみっともないかイケニエにしたばかりだしね。 似たようなところはあら捜しすればいかなる宗教でも見つかるだろう。
補足
削除された投稿は、その前に運営で確認中のために表示できませんとなっていたよ。 だから知らない。 投稿期限は2週間だから、久しぶりに今回の流れから仏教系の死後をメンテナンスする新規質問に切り替えるのもいいかなあ。 リクエストや材料があったら申し述べてくれ。 それから備忘録を投稿できる空欄枠があるのでそこに雑文を乗せることも検討して、最長3日程度したらしめるよ。