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キリスト教徒は何を思い、オーマイゴッドと言うのか
一神教という中央集権体制でそれを秩序とするキリスト教で、オーマイゴッドという我が神とは何お意味しているんですか。 信仰のある者に神が語りかけると言えば、人の数だけ神の姿がある。 それが多神教で、神と言えば、神と言うその言葉のみであるから、共通項があるではないかという考えを持てば、多神教は同時に一神教である。 私の考えではそんな感じに受け止めるのですが、おそらくキリスト教徒は違う考えを持っているでしょう。 私の見解のオーマイゴッドと。 やつらのオーマイゴッドという十字架とどのように違うのか人情味あふれるあなたの見解をお待ちします。 本格的研究者以外からの、教科書棒読みの様な引用はお断りします。
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>キリスト教徒は何を思い、オーマイゴッドと言うのか キリスト教国に17年暮らしました。 私の住んだ国は英語ではありませんので オー・マイ・ガーは オー・メウ・デウス と言います。まったく同じ意味です。 キリスト教徒は驚いたときにそう言います。とくに悪い状況の中の驚きに対して言います。 たとえば交通事故を目撃したりするとその言葉を発します。 熱心なキリスト教徒でなくてもだれでも言います。条件反射となっています。 日本人は宗教心が非常に少ないのでそういう言葉を発せず、「わ―、大変!」みたいな言葉を発します。 私の住んだ国は各国の移民が集まってできた国ですが、こういう話を聞きました。 ヨーロッパ人移民はある程度の数が集まれば必ず教会を建てる。 日本人移民はある程度の数が集まれば必ず学校を建てる。 日本人にはあまり宗教心が根付きませんでした。
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- NemurinekoNya
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お礼、ありがとうございます。 ☆真剣に取り合う事ではないのかな。 ◇嘘か本当か分かりませんが、 日常的に「Oh, my God.」と言う人は、無宗教・no religionの人が割合が高いと言われているようです。 「ジーザス」という言葉も、たぶん、そうなんじゃないですかね。 いわゆる無宗教だから、こうした言葉を平気に口にすることができるんじゃないですか。 信心深いクリスチャンが「Oh, my God!」と口にするとしたら、 これは9.11のような余っ程のことが目の前で起きた時なんでしょうね。 ☆ところで君を猥褻な輸入ブローカーだとこきおろしたことに、ファンレターを受け取ってないよ。 ◇んっ、私が《モザイク消せ消せ同盟》の会長という意味であろうか? まっ、アメリカのAVなんかでは、綺麗なお姉ちゃんが「Oh, my Gosh!」という言葉を連発しているようではありますが・・・。 なお、日本語の「いく~」は、英語ですと、「I'm coming.」です。 comeですと、何かと紛らわしいので、cumと表記されることが多いようです。 I'm cuming. 「いかせて」は、 Make me cum! となります。 動詞ではなく、名詞として使われると、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/ej3/20957/m0u/ という意味もございます。 Christは「栗(くり)と栗鼠(りす)」に何気に似ているので、どこの国でも罰当たりな人間がおるようで、 「聖」的なものを「性」的なものにパロディー化することがあるようです。 蓮・padmaは女性器、魔尼(まに・宝玉)・maniは「栗と栗鼠」を意味し、 チベットでもっとも神聖なオマジナイ「おむ まに ぺめ ふむ」 Om mani padme hum. は女性器を崇拝するオマジナイである、 と罰当たりなことをいう研究者もいるようです。 かつて《モザイク消せ消せ同盟》と呼ばれた私は、それでもいいと思うのですが・・・。 そして、おそらく、 Flareonさんも同じ考えであろうと推察しております。
お礼
あんたを博士としよう。 その分野では免許皆伝だ。 私はエロくないから男子プリキュアを名乗れるんだが、それでもあんたの博識には敬意を表す。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 要するに ひとが《わが神》と呼ぶとき 聖書にもとづく場合とたとえば日本人の場合とで どう同じでどう違うか? これを問うていると読み取って回答します。 1. いわゆるオシエを前面にそして全面に押し立てて しかもおかしいことに(つまり オシエは考えるものなのにそれを無条件に受け入れるという意味での信じるの対象にするから おかしいことに) わが神を信じますと言ったりする。こういうシュウキョウの中にいてその風潮やクウキに拠って(また 酔っぱらって)思考し行動する場合の《わが神》とは ただの言葉です。観念です。人間の想像の産物としての神です。あほんだら教です。 2. それでも一たん緩急あらば――つまり 困ったときの神頼みというような現金な心の状態であっても そのような危急な場合には―― わが神よと祈ったり願ったりするそのような心にも 普遍真理としての神は こたえてくれると思います。あるいは 何も助けには成らないとしても チカラを与えてくれます。元気にもしてくれない場合には 何がしかのさとりを得させてくれます。あぁ 世の中は こうしたもんなんだと分かるようになる。 3. ということは シュウキョウのインチキなる観念神でなければ どの神も――名は違っていても・あるいは多神教だろうが一神教だろうが―― 同じです。人類にとってひとつの(そして一つというのは 全体という意味でもあります)神です。真理です。真理というものは 一般に愛です。というのは 世の中のことを知るようにさせてくれるなら ひとはそのとき世界とそしてわれ自身と和解するようになる。和解が成れば こころはすがすがしくなる。そういう意味で 自由になる。この自由を見させる真理は 愛です。 4. 十字架の神は こういった普遍性としての神を指し示しました。何ら違いはないと。名前が違うだけだと。もしほかの信仰の神が そういうことを知らせなかったとすれば それは ちょっとおねんねだったのだと考えられます。つまり キリスト・イエスだけが ひとつの真理・ひとつの神のことを むしろ身体で指し示した。と考えられます。もっとも 真理に到るのは いろんな道があるが 最終的にたどりつくのは いづれも同じひとつの真理であり神のもとであると 素朴に日本人が先祖伝来の信仰において思っているとすれば すでにキリスト・イエスの伝えたことを知っていた。ことになります。 5. アメリカ人は・つまり欧米かといわれる人たちは このようなシンプルな真理にはなお抵抗があるのではないでしょうか。多少ともクリスマス・ツリーのごときカザリがついていないと たのもしいと思わないのでしょう。まぁ そのようにしつけられて来たのでしょう。ひと言で言えば 阿呆です。ただ一本はだかの樅の木だけでは 頼りないとしか思えないとしたらです。地道にあゆむこと これにまさる神の愛はありません。
お礼
昨日相当酔っ払って質問したので、仮面ライダーやプリキュアのかっこいい文句を忘れていたよ。 そして丸一日質問を気にしなかった。 その割に今回は盛況だね。 ありがとう、趣旨はよくくみ取ってくれている。 貴方だけには、念を押して聖書の引用はやめてくれ、アマテラスさんと比較しないでくれと言いたかったんだが、余計だったね、そのようなあんたの相手の意図をくみ取る理解力は、それだけを取ってみても日常で相当哲学の成果として応用できるん出ないかな。 主文は、言い回しのあんたのくせになれた私からすれば、見解の全容に合意できないところは無い、私が宿題にしてなかった取り組みに気がつくところもあり役に立ったよ。 今回初めて、真理が愛と明言したね。 私は、命という言葉と、愛という言葉の、言葉を分かつ差異はどこにあるのか考え始めたところで、生きると言う行為の真実は練り込めばおおむね説明できるだろうが、西洋の真理の概念がそれとどのように関わるかとっかかりとなる発言だった。
- NemurinekoNya
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信心深いアメリカ人───アメリカ人は信心深い───は、 Oh, my God!! とは言わない。 神の名をみだりに口にすることが禁じられているからです。 ───聖書で禁止されている。だから、ユダヤ人は、神の名前さえ忘れてしまった。神聖四文字YHWHの読みを誰も知らないから、ヤーウェやエホバといったふうに、神の名がいくつも存在する─── そんな恐れ多い言葉を口にしない。 ですから、 Oh, my Gosh!! (お~ まい ゴ~シュ) と言うのが普通です。 用例は、たとえば、 http://eow.alc.co.jp/search?q=my+gosh! 「あらまぁ~」、「ビックリした~」くらいの意味ですから、 この言葉を口にするときは、何も考えていませんよ。
お礼
日常習慣ではそうなのか。 真剣に取り合う事ではないのかな。 ところで君を猥褻な輸入ブローカーだとこきおろしたことに、ファンレターを受け取ってないよ。
- kia1and2
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アメリカじゃキリスト教徒でなくとも、仏教徒でも、回教徒でも、無宗教者でも、Oh, My God! は反射的に使う言葉です。 意味ですか? なんでも良くても悪くともビックリしたときに発します。宝くじ当たって、Oh, my God!、車ぶっつけらて、Oh, my God!, 娘が妊娠させられて Oh, my God!, レストランで予想以上の量の食べ物が来て、Oh, my God! とか。 神様の単語は使えど、キリスト様とあまり縁がないことです。キリストの教会のミサなどでは、Oh, my God! の文章が出てくるのは賛美歌の中だけ。
お礼
まるっきり意味を考えたことがない習慣なのがあちらさんなんだな。 唯一の神と言う考え方は実はしていないかもしれないな。
- 雪中庵(@psytex)
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元々キリスト教では、「一」神教とはいいながら、 「三」位一体で、3つに分かれ、さらにその1つの 聖霊は、あらゆる所にあり、また人に宿る事もある ので、「オーマイゴッド」で間違いはないでしょう。 ちなみに、「バイバイ」は、「Good by」ではなく 「Good bye」に由来し、『bye』になっているのは、 元々が「God by with you」の略である事の証しな のです。 あなたも「バイバイ」と言う度に神に祈ってますか?
お礼
等身大スケールのセレビィのぬいぐるみを抱いて寝るのが私の祈りの時間だ。
- hekiyu
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キリスト教では、個人は神と直接対峙します。 個人は神との約束さえ守って入れば、他人にどう 思われようとかまわない、という個人主義です。 そしてキリスト教の神は全知全能の創造神です。 特にカルバン派にいたっては、個人の運命は予め すべて決定済みです。 誰が天国に行くのかも決まっています。 だから、思いもよらぬ出来事に遭遇すると、 おお、神よ、となるのです。 どうして約束を守らないのだ、俺が悪いのか、 俺は選ばれた人間ではなかったのか、という 神への疑問、抗議、訴えなどという 感情がごちゃまぜになって発露するのです。
お礼
心理状況に関してはイメージしやすく役に立つ回答だよ。 ありがとね。
- HIROEVO
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お求めになっている回答とは、逸れますが・・。 一応、キリスト教信者(プロテスタント)です。 何か、ご質問者は誤解なさってはおられませんか?。 英語圏の人達が使う、「オーマイゴッド」とは。 「おお、神様、何と言う事でしょう!」的な意味合いしか持たず。 我々、キリスト教信者は、神様に対して「オーマイゴッド」とは呼びかけません。 キリスト教の神様と定義されているのは・・。 「三位一体」の物で有り、「父と子と聖霊」になります。 「父」とは、万物と天地の創造主の事で有り。 「子」とは、その唯一の子供である、「イエス・キリスト」で有り。 「聖霊」は、天地の創造主とイエス・キリストの代理の使いとしての魂の事です。 私は、日本人なので、英語版の「聖書」は読んだ事は有りませんが・・。 我々、キリスト教徒は、神様に祈りを捧げ呼びかける際には。 「父と子と聖霊の御名において」。 「イエス・キリストの御名において」。 と、呼びかけます。 >>信仰のある者に神が語りかけると言えば、人の数だけ神の姿がある。 それが多神教で、神と言えば、神と言うその言葉のみであるから、 共通項があるではないかという考えを持てば、多神教は同時に一神教である。 この、お言葉には少し語弊が有る様に想います・・。 人の数だけ、「宗教」の神が存在し。 「多神教」とは、一つの「宗教」の中での信仰する神が多数存在する場合かと。 ですので、ご質問者の言われている・・。 >>多神教は同時に一神教である。 このお言葉は、正しいとも言えますが間違っているとも想います。
お礼
そうさの丁寧な回答に批判するのは何だが、帰属意識から離れた個人の信仰を君は考えたこと有るかい。 我が神と言うとっさの言葉はそんなにくだらないのかい。
- SPS700
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oh my god と入れると次のような絵が出ました。 https://www.google.com/search?q=oh+my+god&client=firefox-a&hs=yPr&rls=org.mozilla:en-US:official&channel=sb&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=fXB7VPjFCtKuogTm5oDQAw&ved=0CDEQsAQ&biw=1920&bih=888 ま、こんなものでしょう。
お礼
そうさな。 瞬間芸でも私にはこんな表情はできんな。
お礼
そのような引用だと、 神よ、 こういう言い回しは、困難を励ます精神的支えなりおまじないなんだね。 でも、口から出るのが、 我が神よ。 この心理はなんだろう。
補足
> 日本人移民はある程度の数が集まれば必ず学校を建てる。 これは有神論文化の傲慢な侮蔑なんだろうね。 仏教で無の信仰と言えば、神を明かす必要はないという教えだ。 語る必要はないとね。 神道の伝統はこれと共通項もあって。 姿を固定する必要はなく印は最低限でいいとでも言う配慮がある。 有っても語る必要がないと言う無の言い回しと、 その信仰は、まっるっ切りない事だ。 こうした肯定と否定の両方を無という言葉に集約するのが、無の哲学だ。