古代中国での「中国=全地域」とは "中原(ちゅうげん)" の事であり、現代中国の山東省、河北省、河南省、山西省~辺りのかなり狭い地域の事を指します。三国志に詳しいのであれば、洛陽の都を中心とした半径200kmくらいの地域ですね。これを基本として、漢、唐、明~と時代が下って漢民族の支配地域が広がるにつれて、いわゆる「中原」が指す地域も拡大して行きました。
因みに三国時代の蜀や呉の地域は、江戸時代日本で言う所の琉球や蝦夷地みたいな感覚でしたので。そもそも曹操も本気で攻め落として支配領地にしようという気が無かったと思います。まあ適当に攻めてみて取れるなら良し、被害やコストが大きい様なら捨て置いて構わないみたいな感じですね。逆に言えばそれだけ「見捨てられた土地」であり誰も注目してなかったので、劉備と孔明の様なある程度の能力がある武将が攻めれば簡単にぶん取れたとも言えます。
ですので少なくとも三国時代、魏の曹操が支配していた地域は完全に「中原全土」であり、当時の人々の認識としても「曹操が中原の覇者=天下統一を成し遂げた」という認識でした。無論、呉や蜀はそれを認める訳にはいかないので「魏の勢いは凄いが、辛うじて我らが抵抗する事によって、奸臣曹操の野望をギリギリで食い止めている!」という設定で人心を繋ぎ止めていましたが、実態は今で言うところの北朝鮮やイランみたいな感じで、独立国として体裁は保っているものの、魏が本気を出したら一瞬で消し飛ぶだろう~というのが当時の中国人の一般認識でした。
以上の歴史的事実から「魏の曹操は赤壁の戦いの頃には既に天下統一を成し遂げていた」という解釈で間違い無いのですが…。それだと小説というか歴史ドラマとしての話がそこで終わってしまいますので、読み物としての『三国志演義』では孔明が死んで司馬一門が晋を建国するまでは、延々と動乱の群雄割拠状態だったという設定で物語を押し通しています。
P.S.
尚、2008年に発見されていた西高穴2号墓が、2018年までにほぼ間違い無く曹操の墓である事が確定した事により、『三国志』の記述にある通り、曹操が晩年は頭痛に悩まされていた事が裏付けられています。墓の中には「翡翠製の石枕」が残っており、当時の医療知識では頭痛の治療には翡翠製の石枕で眠るのが良いとされていたため。
お礼
長文ありがとうございます