「昭和のいちばん長い日」という映画を見ていただければ、だいたい分かると思います。
軍部や政府としては、今まで国民に「戦争に勝つために我慢をしてくれ」と散々我慢と協力をさせたのに、ここにきて「すまん。戦争に勝てんかった」では説明がつかないのでなかなか踏み切れなかったというのはあります。
これは今のコロナ対策においてもそうですね。政府と厚生省のコロナ対策って、方向性としては間違っていました。でもここにきて「やっぱり間違ってました」って認めちゃったら国民に説明がつかなくなるじゃないですか。我々としても「今まで散々自粛とかに協力させておいて、今さら今までのはナシねってのはないだろう」と怒りますよね。
で、じゃあ終戦(降伏)の勅令を出すとしても、その文言をどうするかで陸軍と海軍から色々注文がつくわけです。陸軍や海軍とすれば将兵が何百万人と死んでるし、その遺族もいるからそちらに対する配慮もしないといけないわけですね。
そうこうして揉めているうちに原爆が落ちてしまったということなのです。
今ではあまり顧みられることはないのですが、当時「8月末もしくは9月頭に新潟に第三の原爆が落ちる」という噂がまことしやかに囁かれていました。アメリカにその計画があったのか、今となっては分かりません。当時の新潟県知事だったか新潟市長だったかが政府に市民の集団疎開を求め、軍部が「そんなことがアメリカにバレたら・・・」と認めないことに対して「市民を見殺しにするのか」と怒ったという記録が残っていたそうですよ。
そして「次に原爆が落ちるのは新潟説」は天皇の耳にも届いていたようで、天皇が「次にまた原爆が落とされたらどうするんだ」と早く終戦を進めるように叱責したという記録も残っています。