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江戸時代の裃の色。
武士の出仕着や日常着であった裃の色に決まりはありましたか。 藩によっては、ありそうな気もします。 画像検索で見ると青色系がほとんどです。 多分、全国どこでも藍染が行き渡っていたのでしょう。 提示した写真は、維新前後の白黒写真に着色したものだそうですが、一人の袴は青ではないようです。 それから、この写真の背景にある塀のようなものは何でしょうか。 いつもどうでもいいようなことばかり質問してすみませんが、 よろしくお願いいたします。 写真は下記から借用。 https://estorypost.com/picture/colorized-history-photos/
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>裃の色 江戸時代では各藩でそれぞれ独自固有の「定小紋(さだめこもん)」或いは「留柄(とめがら)」と呼ばれる、その藩での「公式服装規定」みたいなモノを定められていましたので、武士各位はそれに従うのが通例でした。 質問者もご存知かと思いますが、江戸時代中には幕府から数回に渡り「贅沢禁令」が出されており、その度に着物に使える材質や色(染料)が制限されて行ったため、最終的には「白と藍と黒」の三色のみで全ての着物の色柄を作る様になりました。厳密にはこれら以外の色も使えましたが、特に武士階級では質実剛健を尊ぶ建前からも「みだりに華美な色柄を好むべからず」という考えから、自ら進んでモノトーン風味の地味な色合いの着物を仕立てて着る様になりました。 前述の「定小紋」もこれらの「白、藍、黒」の3色で構成されており、ぱっと見には非常に地味な着物に見えます。しかしながらこれらの限られた色糸を巧みに組み合わせて反物として織り上げ、さらに門外不出の技法で染め上げる事により、一種の構造色にも似た錯視効果を生み出しながら、非常に多彩な風合いのバリエーションが生み出されました。 さらにこの「定小紋」にも幕府通達で厳格に "格式の上下" が定められており、例えば下級武士である与力職(足軽)の武士が、上役に当たる平士(馬廻や小姓組など)に許された定小紋柄の着物や裃を着る事は許されませんでした。またこの「定小紋」は役職の他にも家格によっても決まりが定められていました。ですので「将軍の定小紋」や「加賀藩主の留柄」などが明確に決まっていたので、その当時はどこの藩でも如何なる役職の武士であっても、その着物や裃の色柄を見れば一目でどこの藩士で役職なども一目瞭然となるモノでした。 - "小紋三役とは": https://www.kimono-aoki.jp/topic/2018/08/201808#:~:text=%E5%B0%8F%E7%B4%8B%E4%B8%89%E5%BD%B9%E3%81%A8%E3%81%AF%E5%90%84%E8%97%A9%E3%81%A7 - "定小紋の種類": https://images.app.goo.gl/Avvw6QsGjbJdk4iKA さらにこれにはTPO規定も含まれて来ますので、例え「定小紋的にはOKな着物」であっても、「出仕用(仕事着)の裃」と「冠婚葬祭用の羽織袴」とでは色柄を変える必要がありました。江戸時代の武士階級はこれらの重箱の隅をつつく様な細かい「定小紋」の規定を日々クリアしながら毎日の服装を着替えていました。 尚、現代日本人の感覚だと、これら「旦那様の服装管理」は立派な奥方の仕事であるかの様に錯覚しがちで、実際に現代の時代劇ドラマなどでも御内儀が旦那様の月代にキレイに剃刀を当てて~みたいなシーンが描写されたりしますが…これは当時では絶対に有り得ない事で。まともな武士であれば自身の服装身なり髪型を整えるのはお付きの者の役目、つまり主人の髭を剃るのは彼に仕えている下級武士の "御役目" であるというのが当時の武家の常識でした。 ですので仮に武士が奥方に自身の服装など整えて貰った事が知れると、大変な「恥」だと見なされました(お付きの者が居なければ雇われの下男などに任せるのが通例)。これは女性に自分の身体をベタベタ触らせる事自体が不謹慎だと考えられていましたし、それを奥方にやらせている様な武士はそもそも下僕すら雇えない甲斐性無しだとバカにされました。 また言うまでもない事ですが、これらの「服装規定」には明確に男女差身分差が存在しており、特に農民階級には最も厳しい服装規定が定められていました。農民は絹は絶対禁止で、紬も庄屋や名主のみに許され、それ以外の農民は綿と麻のみが許されました。そしてこれらの公式な服装規定の上からさらに、その藩内のみで施行されていた様々な「御触」が上乗せされていたため、農民階級には服装の自由は皆無な状態でした。 それに比べると中間に位置する非農耕民の町人階級には少し緩い服装規定が割り当てられ、こちらの方は主に「銀200貫目まで」みたいな金額上限を定める方法が主流で、材質や色柄などには余り頓着していませんでした。ただし錦糸や金糸などを用いて光沢を出す様な織物は禁止されていました。同じ様な上限キャップ制度での制限は、江戸城内の大奥にも適用され、年々増大の一途を辿る幕府財政を少しでも抑えようと苦心していました。 >武士の日常着 少なくとも江戸時代での「裃」は日常着ではありません。武士にとっての裃は現代人で言う所の「三つ揃えのスーツ」に当たります。つまり正式な場に赴く時の正装であり、かつ仕事着であるという感覚です。フォーマルスーツです。通常、武士階級が主君の居城へ登城出仕する際に着用する正装であり、またそれ以外でも公式行事などのフォーマルな場に出席する際の正装です。 江戸時代での武士の日常着は「着流し」ですね。ぱっと見は「浴衣」みたいな、丈の長い踝までの着物を帯で締めて着た着物ですね。時代劇だとちょっと古いですが『桃太郎侍』で桃さんがいつも着ている様な格好です。一方、『暴れん坊将軍』で新さんこと徳田新之助が江戸の町をぶら着く時の格好が「袴姿」ですね。現代人感覚だと「着流し」はパジャマやジャージ姿といった感じで、主君に仕えている石高持ちは人前では見せられないだらしない格好です。その着流しに袴をプラスする事でフォーマル感を足して、ちょっとフランクだけどギリギリ人前に出てもOKな感じにしたモノですね。 ただしこれらの服装規定は前述の通り、居住地域が変わるとガラっと変わりますので、あくまでも江戸時代の天領地域のみでの話だと思ってください。江戸時代では例え武士階級であっても藩によっては明確に上下関係が定められていて、同じ武士でも上級武士と下級武士とでは身分が明確に分けられていた藩も多かったです。代表的な藩が坂本龍馬の出身藩である土佐藩ですね。土佐藩では「上士」と「郷士」という2つに武士階級が分けられていて、下級身分とされた郷士は色々と差別的な扱いを受けていました。 特に屈辱的な定めだったのは、郷士は上士に出会った際には平伏して通り過ぎるのを待たねばならなかったのですが、その際に「草鞋を脱いで裸足になって待つ」という風に定められていました。一方の上士は履物に「下駄」を履く事が許されていましたが、郷士には草鞋しか許されていませんでした。何でこういう風になっているのかと言うと、土佐藩の土台が出来上がって行く遥か昔の戦国時代の豊臣秀吉の采配にまで遡らなければならないのですが…今回は質問に直接、関係無いので割愛させて頂きます。 P.S. >添付画像 これはいわゆるAI(人工知能)の深層学習によるモノクロ画像のカラー化というものでして、ぱっと見には非常に美しくかつ自然に色味などが再現されていますが、これらはあくまでも「AIがそれっぽく色付けしたモノ」に過ぎず、必ずしも元々のオリジナルの色を完璧に再現したものでは無い事に留意して見てください。実際、これらのAIはその全てが欧米で開発研究されていますので、それらのアルゴリズムというか色再現の元になる画像データベース等も欧米人の色感覚をベースに再現するので、恐らくは実際の当時の日本の色彩とはかなりかけ離れていると思った方が良いでしょう。 で、確証は無いのですが…この画像は恐らく明治時代になってから撮影された写真だと思われます。自分もこの画像はweb上でよく見掛けるので、多少は調べてみた事もあるのですが…ハッキリとした事はよく分らず、しかしながら傍証や関連記事等の記述などから類推するに、恐らくは1860頃~1890年頃に外国人カメラマンによって撮影された、演出された風俗紹介写真の一種であったと思われます。 - "長崎大学附属図書館所蔵.幕末明治期古写真データベース": http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/top/jp_top.php 自分も幕末期の古写真を調べる際には、上記リンク先のデータベースをよく利用するのですが。この添付画像はこのDB内に存在しておらず、撮影者や正確な年代などの情報が不明なため、この写真が撮影された状況や目的などがはっきりとしないのです。 単純に画像検索で引っ掛かるweb記事などの記述を総合すると、イタリア生まれのイギリス人写真家である「フェリーチェ.ベアト(Felice Beato)」と、その弟子である「日下部金兵衛」によって、幕末から明治初期にかけて撮影された写真とされていますが…。莫大な収蔵量を誇るニューヨーク公共図書館のwebデータベースにも、スミソニアン博物館のwebデータベースにも、どちらにもこの写真は引っ掛からないので、事の真偽は判然としないままです。 - "NYPL Digital Collections": https://digitalcollections.nypl.org/search/index?keywords=Felice+Beato+Japan 自分の印象だと確かに風景と一緒に人物を撮影するスタイルなんかがフェリーチェぽいかなとは思いますが…詳細は謎のままですね。他にも幕末期の写真家には「ライムント.フォン.シュティルフリート(Raimund von Stillfried)」や「上野彦馬(あの有名な「坂本龍馬の写真」を撮影した人)」などが居ますが、さすがにその作品の全てを1枚1枚検証する事も難しいので、今回は保留とさせてください。
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- oska2
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>武士の出仕着や日常着であった裃の色に決まりはありましたか。 確か、決まりは無かったと読んだ事があります。 裃は、無官の武家の正装ですよね。 江戸中期頃からは、町人・豪農も正装として着る様になりましたが。 多い色は「紺・藍色」です。 黒・黄色系は、縁起が悪いとして避けられた様です。 まぁ、目上の方よりも目立たなければ問題無し。 今の結婚披露宴でも、「招待客は、新郎・新婦よりも目立たない服装」ですよね。 >この写真の背景にある塀のようなものは何でしょうか。 塀ですね。 坂道に沿って、この屋敷があったのでしよう。 推測ですが、塀の外側は公道かも? 今でも、神社・お寺の階段左右には塀がある場合が多いですよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 決まりがなくても「目上の方よりも目立たなければ問題無し」ということで、周りの人に同調して「紺・藍色」を選ぶようになったということですね。 背景にある塀のようなものは、やはり塀以外には、考えられないですね。 それにしても高さにびっくりです。
- jkpawapuro
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裃の色を制限するとなると幕府の奢侈禁止令、一言で言うと贅沢禁止令です。これにより茶色灰色が流行り無数の種類が産まれました。 おそらく諸藩にも似たような動きや藩命はあったでしょう。 灰色をとるとなると土や灰の種類が無限にあるのでなかなか何と特定するのは難しいのではないでしょうか? 背景の塀もちょっとわかりませんが、妙に規模がでかいので総構えの木塀でしょうかねえ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 幕府の奢侈禁止令により茶色灰色が流行り、無数の種類が産まれた、ということですね。 よく分かりました。 >妙に規模がでかいので総構えの木塀でしょうかねえ。 なるほど、そうかもしれません。 1860年の写真ですから、世情不安な時代です。
お礼
丁寧なご回答真にありがとうございます。 よく分かりました。 武士の家柄や地位を「裃の色」で区別はしていなかったが、「当時はどこの藩でも如何なる役職の武士であっても、その着物や裃の色柄を見れば一目でどこの藩士で役職なども一目瞭然となるモノ」だったのですね。 そして基本は「白、藍、黒」の3色。 画像のカラーについては、AIによるものなので、「欧米人の色感覚をベースに再現」されている可能性大ということですね。 昨今、江戸時代の町の様子を鮮やかに再現したというテレビ番組をよく観ますが、専門家の意見を取り入れて制作しているようです。 添付画像の出自を念入りに追究してくださったのですね。 けれども、謎の1枚という感じで、不思議な写真ですね。