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死への恐怖を克服する方法
が書かれている本はありますか? 宗教関連ですかね。
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> 死への恐怖を克服する方法が書かれている本はありますか? 公には、存在しません。 そもそも、死を恐れるのは「死後の世界が分からない」からです。 仏教の開祖である釈迦も、死後の事は何も語っていませんよね。 浄土真宗の蓮如上人も、死後の事は一切説法を行っていません。 何故なら、死後の事は誰にも分からないからなのです。 蓮如上人は、面白い事を言っています。 「過去をくよくよするな。過去は、変える事は出来ない」 「将来を悲観するな。明日の事は誰にも分からない」 「どうせみんな死ぬのだから、今日を一生懸命生きるのだ」 「死んだ後の事は、誰にも分からない。悩む必要は無い」 「死後の事は、阿弥陀如来に任せるしかない(他力本願)」 結局は、宗教と言うか哲学の世界ですね。 余談ですが・・・。 イスラム原理主義の教義では、「敵対する国・組織を攻撃すれば、確実に天国に行ける」のだそうです。 自爆攻撃が増えている原因です。
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- g27anato
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「死」に関する悩みなら、 仏教が最も「生前の心構え」と「死語の世界」を関連付けた教えが多いように思います。
- Nakay702
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>死への恐怖を克服する方法 >が書かれている本はありますか? ⇒残念ながらそういう本は存じませんが、それに近い問題を考えてみたことがあります。 以下、私が勝手に考えた「死への戸口で起こること」です。長くなりますが、読んでいただければ幸です。 私は死ぬのが怖い。 人間の脳には一生に一度しか働かないところがあるという。大脳の側面にある小さな間隙(シルビウス裂。以下「シル裂」)に面したところである。で、一生に一度というのがいつかというと、それが何と事もあろうに人生の最後の一瞬、つまり死を迎える時なのである。完全に死んでから生き返った人はいないので定かではないが、生から死へ渡って行くその間に、人間はえも言われぬ恍惚境を体験するものらしい。死の途中まで行って生き返った人たち、つまり九死に一生を得て死の戸口から戻った人たちの話を要約すると、ほぼ全てに共通するという。その臨死体験における恍惚境の存在が、くだんのシル裂の作用によるものであると推測される、というわけである。 その次第は、例えばこうである。「暗闇の中に一筋の光が見えるのでそれを目指して進んで行くと、急にパッと視界が開けて一面に美しい花の咲き乱れる場所に出る。花園の彼方には小川が流れており、その彼岸には先に逝った親類縁者がいてこちらを見ている。彼らの和やかな表情や周囲ののどかな雰囲気に誘われて彼岸へ向かって進みかけると、お前はまだここに来てはいけない、帰れ、と手で合図するではないか。それで仕方なく戻ってきたのだが、その時の自分としては先へ進みたかった。なぜなら、そうすることが気持ちよかったから。それは、それは快適で、のどかで、うっとりするような状況であった…」。 さて、ここで少なからず疑問が湧いてくる。このようなことが起こるのは神の意思なのであろうか。と言ってまずければ、自然の摂理に適っていることなのであろうか。あらゆる生物の営みに遍在する合目的性というものが、ここにも宿っているのであろうか。いるとすればその実体は何で、またいかなるメカニズムによって動かされるのであろうか。…と、縷々疑問を述べた後でいささか飛躍するのだが、ここで独断的に結論を先に述べてしまおう。生から死への旅路の途中にこのような桃源郷が存在し、しばし恍惚の境地を体験させるのは、まさしく神の意思そのものなのである。彼の被造物に細心の注意をもって施した『最終仕上げ細工』なのである。したがってそれは自然の摂理に充分適っており、明快な合目的性を持っているに違いないし、そのメカニズムも、ごく自然な成り行きの上に乗っているものと考えられる。 では、神の目的とは何か。推測するに、死者が恍惚を体験する桃源郷は、実は死者を『完全な死』へいざなうための道標なのである。具体的に言えば、冷酷な表現だが「迷わず死んでもらう」ための腐心作なのである。シル裂の作用によって恍惚境を演出する舞台―桃源郷―は、この世とあの世との接合点にあって、そこで死者があらゆる煩悩を捨て、この世とのしがらみを払拭し、魂の浄化をするところなのである。神が被造物にシル裂の細工を施したことの目的はすなわち、死者が亡者にならないよう、彼に『全き死』を与えることだったのである。このカラクリは、神の最高傑作と言わなければならないのかも知れない。 それでは、このカラクリはいかなるメカニズムによって作動するのであろうか。推測の域を出ないが、おそらく『コンセントに差し込んだ非常灯』のように、周囲の活動が停止した時にはじめて作動するような仕組みになっているに違いない。すなわち、シルビウス裂は、一番最後に死ぬか、自家発電ないし蓄電機能を備えているかのどちらかである。そう推測できる。さて、うっとりするような恍惚境がある一方で、断末魔の苦しみがあるということはどう説明されるのであろうか。重ねて推測するに、断末魔の苦しみはすなわち肉体の苦痛であり、肉体の苦痛はそれを感じる主体すなわち脳が活動を継続していてはじめて苦痛として感知される。要するにその段階では脳は生きている。したがって脳に死因のある場合を除いて、通常は断末魔が先で、それに恍惚境が続くと考えられる。つまり生と死の接合部は二つのスペースに分かれており、生に近い側に断末魔が、死に近い側に恍惚境がある、ということになる。 では断末魔の存在理由は何か。生の崩壊が始まったばかりの段階では、いろいろな程度に蘇生の可能性がありわけで、そこで神は、肉体的苦痛という形で当人に回復・蘇生を促している、と理解することができよう。肉体がさいなまれるとき、人は神の心知らずでこの上なく神を憎むが、一方神は当人の闘争心を鼓舞すべく、心を鬼にして「戻れ、戻れ、戻れ!」と叫ぶのである。神が「もはやこれまで。蘇生の可能性なし」と見たときは彼を速やかに恍惚境へといざなう、ということになるのである。そう推測できる。 例えば凍死の過程を見ると、始めは激しい肉体的苦痛に襲われるが、それを過ぎると今度は一転睡魔がやってくる。脳死の始まりである。くだんの恍惚境の体験はここでなされる。脳死の進行過程も、おそらくは肉体により近い菱脳に始まり、次いで小脳や中脳・間脳へと移っていくのではないかと推測される。そして最後に、大脳の残りの部分―くだんのシル裂の所在部位が活動を停止する時に、生のすべてが終焉し、死が完了する。シル裂は、つまるところ、魂が肉体から遊離する時の『へそ』であり、『魂の通り道』なのである。 死期がそう遠くないと予感する私は、これで幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、私は死ぬのが怖い。
- seomire
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以前にも同様の投稿を見ましたが、死への恐怖を克服したい理由は何なのでしょうか?理由が分からなければ、そう簡単に教えられる事ではありません。
- Don-Ryu
- ベストアンサー率24% (256/1051)
是非とも宗教真光の道場へ行きましょう。 道場長がすぐに色々教えてくれますよ。 男女の出会いもあります。 (入信した男女が結婚し家庭を持つことは新興宗教にとってもGOODなのです)
補足
souka gakkai?
補足
マインドフルネスですかね